寝不足の頭を抱えながらなんとか授業のノートを取り、短い休み時間はひたすらに眠りをむさぼり、司の学校生活の一日は過ぎようとしていた。

 考えてみれば中学校の三年間もこうやって過ごし、だから友人と呼べそうな人もろくろくいなかったのだと、思い出す。なんだそれを繰り返していればいいんだなと、まどろみながら司は安堵した。新しい生活が始まり、思っていたよりも混乱していたようだ。

 だがそれに、気付くのは少し遅かったようでもある。

「ねえ司、知ってる?」

 昼休み。さすがに昼食を抜くのは厭で、もそもそと夕飯の残りをつめ込んでいた司の対面で、相変わらず可愛らしいルナが、そう口を開いた。こちらの昼食は、コンビニエンスストアのパンだ。

 ルナは、昨日の病院でのことには触れず、それまでと変わらずに声をかけてきていた。短い休み時間は放っておいてくれるものだから、突き放すに突き放せず、なし崩しに昼を共にしている。

 宮凪は、教室から姿を消している。司が気付いたときにはいなくなっていたが、食堂にでも行ったのだろう。

「何を?」

 笑顔のルナにいくらか素っ気無く聞き返すと、あのね、と、気にした風もなく先を続けられる。

「図書室。休み時間ごとに人が詰め掛けてたんだけど、九重先生が追い払っちゃったの」

「え?」

「ここは本を読んだり探したりするために来るところだから、話し相手がほしいなら友達かスクールカウンセラーのところに行け、って」

「…へえ」

 中学のときにはそれはなかったな、と呟くと、ルナも、こくんと頭を落とした。

「他の子も言ってた。なんかちょっと…」

「冷たくなった?」

「ううん。優しいことは優しいんだって。でも、怖くなったって。読書部の人たちは、そう?って首傾げてたけど。本のことで質問に行ったりすると、ちゃんと親切にこたえてくれるけど、って」

「へえぇ…」

 昨日のあれで何か心境の変化があったのかなと、これは口には出さずに思う。

 それにしても詳しいなと、司はルナを見つめた。今日の午前中にあった出来事だろうに、既に把握しているばかりか、部外者に事情聴取まで済ませている。そして読書部には、やはり入部するつもりだろうか。

 司の視線に気付いたルナは、かすかに翳りのはしる微笑を浮かべた。

「やっぱりね、集めちゃうの。すぐに対応できるように」

「特技を恥じることはないと思うけど? そんな風にしたいと思ったって、できない人も多いだろうし。むしろ、誇ってもいいくらいじゃない?」

「――ありがとう」

 にこりと、笑顔が戻る。

 だからこういうのがまずいんだろうに、と自分に呆れる。無闇と懐かせて、いいはずがない。

 自力で前に進めるなんて十分強いじゃないかと司は思うが、そこまでは口にしなかった。少し、羨ましくもある。

 五百ミリリットル紙パックのアップルティーを細いストローで吸い上げながら、あ、そうだ、と顔を上げた。

「九重先生も知ってるみたいだよ、『夢戦』」

「……は?」

 思わず、間の抜けた声が出る。顔もきっと、変なことになっているだろう。

 ルナは、それらを笑うことなく、少し不思議そうに小首を揺らす。

「気付かなかった? 新着のところに、置いてあったの。だからあたし、懐かしくなって引っ張り出してきて――司?」

「マイナー好きが随分いたもんだ」

「司だってそうじゃない」

 ついつい強張った顔を、全精力を注ぎ、なんとか常態に戻そうと努力する。ルナが笑ったところを見ると、成功したようだ。

 それでも、昨日に続いて何かしらの空気は読み取ったのか、ルナがそれ以上その話題を続けることはなかった。いくつかの雑談をやり取りしながら、さてどうしたものかと考えつつ、弁当を片付ける。

「図書室行って来る」

「いってらっしゃーい」

 まだ完全には食べ終わっていないからか、一緒に来るつもりはないようで、のんびりと手を振って見送る。司の感情を、正確にではないにしても読み取ったのかもしれない。

 そこかしこに生徒の姿のある廊下を黙々と通り抜け、特別教室四階を視聴覚教室と分け合った図書室に辿り着く。なるほど、全員が去ったわけではないだろうが、図書室は幾分、静けさを取り戻していた。

 考えてみれば、こうやって図書室に来るのは入学式の日以来ではないだろうか。

 入って左手の、新着図書コーナー。白い背表紙の文庫を探した司は、だが、見当たらずに据わった目で図書室を眺め回した。

 入り口にややずれて向かい合うように設置されているカウンターには、学年章からすると一つ上の生徒が座っている。閲覧席には、課題でも出たのか予習か、ノートを広げている者が数名。声を潜めて雑談している者もいる。書架に本を探す者は、司の位置からでは一人も見当たらなかった。

 ここに至って司は、少し躊躇した。

 本が置かれたままなら、とりあえず自分で借り出してしまおうと思っていた。校内では目立つから、文句を言うのは後のことだ。しかし、見当たらない。誰かが借りていってしまったならいいが――いや、よくはないが手の打ちようがない。だが、新着のコーナーにないからといって、借り出されていると判断していいものか。

 かといって、貸し出し中ですかと確認するのもどうか。できることなら司は、今更あの本とは、一切の縁を作りたくない。

 そうやって考えるうちにも、司の中には焦燥が募る。誰かがあれを読んでいる、と考えると鳥肌が立つ。できることなら一冊残らずかき集め、絶対に開かない金庫の中にでも放り込んでしまいたい。

 だが。

 何故そこで、燃やしてしまいたいと思わないのか。何故、重版を承知したのか。

 気付いてしまった疑念に、司は立ち尽くす。途方に暮れていた。

「あっ、ごめんなさ…」

 横合いからの軽い衝撃と謝罪の声。

 こちらも謝りながら横を向いた司は、同じように本を眺めていたらしい宮凪と目が合い、咄嗟に言葉が出なかった。先に口を開いたのは、宮凪のほうだ。

「…見てないなら、のいてくれない」

「え。あ。ごめん」

「沖田さん」

「はい?」

 戸惑い、もう教室に戻ろうかときびすを返しかけた司は、静かに呼び止められて再度宮凪に視線を戻した。

 長い真っ直ぐな髪を下ろし、化粧っ気がないのに思わず見とれてしまう容姿と雰囲気は、どこか神秘的な雰囲気をかもし出し、生半には立ち向かえない感すらある。彼女が本当にいじめられていたとしても、誰も正面切っては動かなかっただろうと思ってしまう。

 宮凪は、司が視線を向けると、それから逃れるようにやや俯いた。

「…もう一度だけ、話したいの。放課後、昨日の喫茶店でいいから…来てもらえない?」

「答えは変わらないけど、それでも?」

「ええ」

 鎧を脱ぎ去ったかのように、今日の宮凪は大人しい。芯の強さはまだ見受けられるが、儚げですらあって、どうにも危うい。

「わかった」

 短く応え、背を向ける。

 時計を見るとそろそろ予鈴で、授業の前にショートホームルームがあるから本格的な遅刻の心配はしなくていいが、真っ直ぐに戻るかと歩を進める。

 中学時代もそうだったが、受験を学校の勉強だけで済ませてしまうつもりの司にとって、授業は欠かせない。その分予習は確実にこなすし、授業も、半ば夢の中でも耳を傾ける。

「あっ、沖田さんだ」

 図書室を出てすぐ、丁度階段を上ってきたところで声をかけられ、そちらに視線を向ける。薄い冊子を抱えた男子生徒が立っていた。

「えーと……………」

「そ、そこまで考えても思い出せないほど印象薄かった、俺?」

「いや、覚えてるんだけど。ごめん、印象深すぎてピラしか思い出せない。本名何だった? 平井? 平田? 平山?」

「二番目。いいよ、ピラで」

 あっさりと笑って言われる。抱えているものをよく見れば合宿中に回収された問題集で、いくらか持とうかと申し出た。

「いやいや、これくらい格好つけさせてよ。これでも男だからね」

 ほっそりとした小柄な体つきは、女の子には見えないが、男らしさからも多少遠い。しかし、それを知りながらさらりと流してしまえるところは、ちょっとかっこいい。

 このくらいの年齢では稀有とも言える良さだが、果たして、それに気付く同年代はどれだけいるだろう。

 二人は、教室までの短い距離を肩を並べて歩き出した。

「図書室? 本好きなんだ」

「ああ、うん。ちょっと前まで近寄りがたかったけど、落ち着いたってルナが言ってたから」

「相変わらずだなあ、あいつも」

 少しばかり引っかかりを憶え、司は、平田の顔を盗み見た。つるんとした顔からは、何も読み取れる気がしない。颯といい勝負だ。

「仲いいね、ルナと」

「腐れ縁だよ」

「でも、高校くらいになると行き来ない幼馴染も多いって聞くし。そういうのないから、ちょっと羨ましい」

「いいことばっかじゃないけどね」

 ありふれたやり取りの中にはわずかに苦いものが感じられたが、更に突っ込む前に教室に辿り着いてしまった。元々、そう距離はなかったのだ。

 もしかして、と、司は思う。

 平田は、可南子の件でルナが傷つき、今に至る選択をした全てを見守ってきたのかもしれない。その間に何かを変えようとしたのか黙っていたのかまではわからないが、何かしら、思うところはあるのだろう。

 いいな幼馴染、という思いは簡単にだからこそ遠ざけなければいけない現状につながり、苦い溜息が零れる。

 ショートホームルームで、既にお約束となってしまった飛鳥からの不審者注意の言を聞き流し、残る授業を受けると、放課後がやってくる。

 宮凪は即座に姿を消し、司もそれに倣おうとした。

「沖田さん、ちょっといい?」

「はい?」

 にこやかに笑む平田に声をかけられ、つい振り返ってしまう。ルナも、ひょこひょこと近付いてきた。二人とも、今週は掃除当番ではないらしい。司や宮凪もそうだ。

 とりあえず掃除の邪魔になるから、と、三人は食堂に移った。駐輪場も近いから、司としても異論はない。

 特別教室棟と一般教室棟からなる校舎の横におまけのように建つ食堂は、わずかながらもアイスやジュースを置いているため、昼時以外でも多少は生徒の姿が見られる。

 司がこの場所に足を踏み入れるのは受験のとき以来だが、平田とルナは何度か訪れていたのか、内部を見回す素振りもない。がらんとした印象を、司は抱いた。それでも、昼食時は席を探すのも困る程度には混んでいるらしい。

 自販機のカップジュースを三つ、平田がそれぞれの前に並べた。

「いくら?」

「ちょっとした賄賂なんで、気にせずどうぞ」

「そんなこと言われたら、逆に飲めないんだけど。何か頼みごと?」

 そう言いながら、司は手を伸ばす。好みを訊かれ、頼んだのはホットココアだった。匂いも甘い。

 つられてか伸びたルナの白い手は、ロイヤルミルクティーのカップを引く。平田が何を選んだのかは判らないが、黒色をしているところを見ると、コーヒー系統だろう。コーラにしては泡がない。

 うん、と、少年は素直に頷いた。

「新聞作りって興味ない?」

「は?」

「新聞部に入ったんだけど、部員一人だとさすがに活動のしがいがなくってさ」

「新聞部なんてあった? 部活動紹介のとき、聞かなかった気がするけど」

 良くぞ気付いてくれました、と言いたげに、平田は眼を輝かせる。

「うん、正解。なかった。でも、部としてはあったんだ。この何年か部員がいないらしくって、名前だけ。予算も組まれてない」

「…それ、意味なくない?」

「部を立ち上げるには、五人以上の部員と、顧問になってくれる先生が必要になる。でも、新聞部ははじめから部の形はあるんだ。顧問も、ちゃんと割り振られてる。予算だって、申請すればさし当たって今年は、こういったときのために組まれてる中から出してもらえる。問題は、部員だけなんだ」

「いやあ…それ以外にも色々山積みっぽいけどそれ…部員がいたって、記事の書き方とかどういうペースで何を出すとか、そういうのどうするつもり?」

 いよいよ眼を輝かせ、平田は身を乗り出してくる。しまった、こういうのは突っ込まずに聞き流せばよかったんだ、と、気付いたときにはもう遅い。

 隣でルナが、小さく笑ったような気がする。

「そういうのも、一つ一つ決めていきたいんだ。別に、誰かを感動させたいとか啓蒙したいとか、問題提起をしたいとか、大層な野望はないんだ。ただ、せっかくの高校生活で、仲間でわいわいやりたいと思ってね」

 青春だ、と、司は心の中で呟いた。まさかそれが波及してくるとは思ってもみなかった。

「一人でやるなら、ネットがあるし十分なんだけど、やっぱり学生の特権って仲間だからさ」

「ピラ、サイトやってるの。何だっけ、宵闇散歩? ほら、東雲で夜になると歩き回ってるっていう女の子いるでしょ? 追っかけなんだよね」

 半ば呆れ、半ばからかう口調のルナの言葉に、司は内心激しく動揺した。

 入学式に寝坊した原因で、夜久の元狩人にも知られていたサイトの運営者がこんなにも身近に。文章があまりにしっかりしていて細かなところも時間を使って検証していたため、てっきり大学生か閑な社会人かと思っていた。

 まさか、高校生。しかもクラスメイト。それによく考えてみれば、サイトの文章の大半を書いたとき平田は、中学生だろう。

 司が呆けている間にも、平田はなんだか、熱弁を振るっている。高校生活の短さか何かを説いているようだ。それはいいが、現役高校生の癖にそういうことを語られると、年齢を疑いたくなる。実は、一度社会人になってから高校生活をやり直していないか。

 そんな妄想を、司は心の中で笑い捨てた。代わりに、待て、と掌を突き出してそれらを遮る。

「仲間を持ちたいなら、手っ取り早く運動部に入ればいいと思う。いや、文化部だって、吹奏楽や演劇部だってある。それに、言っちゃなんだけど、声をかけられた理由がわからない。オリエンテーリングで一緒に飯盒炊いたくらいしか記憶がないんだけど?」

「運動部は、どうも反りが合わなくて」

 ぽつりと返す声は、そこだけ感情が抜け落ちているかのようだった。

 そうして司に、笑いかける。

「そのあたりは、気になるなら愛に訊いて。今聞きたいなら、話すけど。沖田さんに声かけたのは、簡単に言えば、推薦があったから」

「誰…て、あんたか」

「えへ」

 司の視線を受け、これは意図して、可愛らしく笑むルナの姿があった。

「迷惑なら断っていいよ? 司がいれば楽しいかな、と思っただけだから」

「えーと、てことは、ルナは入部してる?」

「ううん、まだ」

 訝しげな司に、ルナは苦笑を返した。平田も同様で、何、と、司は眉根を寄せた。

 焦らすつもりはないのか、あっさりと、ルナは一本指を立てた。

「人って、噂話が好きなものなの。うっかりピラと噂が立っちゃったら、好きな人ができたときが大変だよ」

「はあ…そういうもの?」

「そういうもの」

「ふうん」

 頭ではわかるものの実感のわかない司は、自信を持って断言する二人を眺め、何とも不思議な気分になる。

 この二人と一緒に過ごすのは楽しいだろうなと、心が少しばかり動いた。だが動いた先から、なけなしの自制がはたらく。

「悪いけど、他当たってくれる?」

 思っていた通りの口調で切り出すことができ、内心、安堵する。

 立ち上がると、ルナと平田は残念そうに司を見つめた。それに、苦笑を返す。仲良くなりたいからこそ親しくできないというのも、面倒なものだ。

「じゃ、帰る。ごちそうさま」

 言いながら百円玉を一枚置いて、イス一つを占領していたかばんを引き上げる。二人がついて来る様子はなかった。

 かばんを前かごに放り込んで後にした学校は、授業は終わったというのに、活気に満ち溢れていた。下手をすれば、授業中よりもにぎやかだろう。司は、それらを羨ましく思いながらそう思う自分を叱責する。

 今の生活を選んだのは自分だ。

「…千客万来」

 ぼんやりと物思いに耽りながら坂を走り抜けていた司は、数日前と同じ場所で立つ太郎の姿を認め、ゆっくりとブレーキをかける。宮凪は、思った以上に待たされていることだろう。

 信号が変わると、相変わらずの黒スーツの隣に並んだ。

 そのまま歩き始める太郎について、司は自転車を降りた。

「あんまり頻繁に姿晦ますと、免職になるんじゃない?」

「執着はないさ。お前の負担を減らしたかっただけだからな」

 軽口に本音を返されてしまい、ぎょっとして、司は太郎を見上げた。

 涼しげな横顔は、下手をすれば数日くらいは寝ていないかも知れないというのに、いつもと変わりがない。そこにはテレビのアイドルのように、生活感が抜け落ちていた。

「なあ、司」

「はい?」

「俺の手助けは、もう必要ないか?」

「えっ、と」

 司は、母の昔馴染みをまじまじと見つめた。足が止まる。

 太郎には、妖に関係なく助けられている。どういった経緯なのか、母は高校生の頃から友人付き合いをしていたのだという。母が東雲に戻ったことで付き合いも戻り、幼い日に、不器用にあやされた思い出まであった。

 司が狩人になるのを反対したのは太郎だけで、なってしまうと、補佐である諒の存在を差し置いてさえ、手助けもしてくれた。

 保護者の一人と言える。

「仕事の事を言ってるなら、多分、何とかなると…思う、けど…どこか行くの?」

「アメリカにでも」

「…要のところ?」

「ああ」

 当然のように太郎は、要とのつきあいもある。

 要とは、旅立った夏以来、手紙くらいでしかやり取りがない。向こうは遠戚の世話になっているのだから、手紙は来るのだからと、大丈夫と言い聞かせて不自然さに目をつぶっている自覚は、司にもある。だが、もし要に狩人のことを知られ――目を背けられたら、と思うと踏み出せないでいた。

「その方が連絡も取れる。司――いつか、要も連れて戻る」

 真っ直ぐに眼を見つめての言葉に、司はこらえきれず、涙をこぼした。気付けば、太郎の胸元に頭を押し付けている。

「駄目。太郎さんは、向こうに行って、要と一緒にいて。要を、守って。助けて。東雲には…あたしがいる限り、戻っちゃ駄目なんだ」

「司?」

「――ゆきさんの夢、見た」

 司の言葉に、わずかにではあるが太郎の体が強張ったのが判った。

 正確には夢ではないが、そこまでの心配はかけたくない。あれは狩人の仕事で、本来であれば、太郎には関わる必要のないことなのだ。

 司は、太郎の胸から顔を上げた。涙はこぼれ落ちたきりだ。

「太郎さんがあたしと要を心配してくれるなら、自由に生きて。それが厭なら、要と一緒にいて」

「…司」

「ゆきさん、ごめんって言ったの。違うのに。ゆきさんに妖を媒介したのはあたし。もっともっと生きられたはずなのに、殺したのもあたし。謝るのはあたしであって、ゆきさんじゃないのに。あたしが――。だから、要は絶対に、あたしに近づけないで。本当なら、太郎さんも、諒や颯だって、近くにはいない方がいいの。お願い」

 これは、司のわがままだ。そのくらいは、知っている。

「…悪い。急、すぎたな」

 無言で、首を振る。何か言えば、今の境遇を嘆いてしまいそうだった。自分を哀れんでしまいそうだった。そんなことをすれば、自分で自分を赦せなくなるに違いないというのに。

「太郎さん」

 笑顔をつくろうとしたが、できず、顔を背ける。

「本当に、いいんだよ? お母さんが好きだったからって、あたしまで助けてくれなくたって」

「…遅かったな、その言葉」

「え?」

「はじめは、その通り、美砂の子どもでしかなかった。今更、それだけで付き合ってきたと思うなよ、未熟者」

「…太郎さんは、甘い」

「そうか?」

「お母さんに好きとも言ってないのに、これじゃあ、まるでお父さんみたいだ。親馬鹿の父親だ」

「褒め言葉と思っておく」

 珍しくはっきりと笑いながら、太郎は、司の頭を手荒に撫でた。不器用にあやされた記憶が、ふっと蘇る。

「好きにしろと言うなら、もうしばらくはここにいる。――必要なら、いつだって呼べ」

 言葉が出ず、こくりと首を落とす。

 そうして太郎は、手を離したために太郎に寄りかかっていた自転車を司に手渡した。そのまま、短く別れを告げて背を向ける。

 司は、霧でも詰まったような頭を抱え、のろりと歩を進めた。自転車が、いやに重い。

 どこへ行こうとしていたのか――ああ、話があると言われていた――このまま帰ろうか。でも明日も学校で会うからなあ。大雑把にいえばそんな思考が、司の中で紡がれた。

 結局司は、気球屋までの道のりを歩いて行った。宮凪はまだいるだろうか、帰ってればいいなと少し思う。それでも、混乱からは大分回復していた。

「いらっしゃいませー」

 前回と同じ女性の、妙に間延びした声に迎えられ、待ち合わせと告げる前に、窓際に座る美少女を発見した。視線は、窓の外に向いている。

 待ち合わせを告げて一緒に、クリームココアをたのんだ。

「来ないかと思った」

 何も言わずに向かいの席に腰を落とした司に、一瞥を向けた宮凪は、ぼつりと声をこぼした。

 あいにく、今の司には余裕がない。ただおかげで、意識は地に着いた。

「色々とあって。まあ、来ないで済むならそうしただろうけど」

「そう」

「うん。用件は?」

 少女は儚げに微笑み、テーブルの上の本に載せていた手をずらした。和紙に包まれた何かを、開いて見せる。

 出てきたのは細長いお札のようで、遠のいたはずの困惑を再び抱え、司はそのまま表情に表した。

「兄さんからよ。動きを封じるものと、姿を悟らせないものと。勿論、人相手には使わないでよ」

「へえ」

 呪術関係には司は疎い。それなりに書物で読んだりはしているが、縁はなかった。生兵法は怪我の元、という言葉もあるから、下手に関わらないようにしていた、ともいえる。

 墨痕鮮やかな札を興味津々で見詰めるが、何を感じるでもなく、司の目に映るのは達筆だけだ。

「どちらも、対象物に貼るだけ。強力にしようと思えば、三角や四角で囲めばいい。文字が薄れたり消えたり、激しいものになれば燃えるから、効力を失ったらすぐに判るわ。自分で使う場合、口で札を軽く咥えるのが効果的よ」

「…はぁ…?」

「何よ」

「いや。どうしてそんなものくれるのかと。あの人も狩人…守人、か。そっちの言い方だと。それやってたならわかってると思うけど、あれは個人的にお礼をもらうようなものじゃないんだけど」

 使い方を聞いたところで困惑は消え去らず、首を傾げて宮凪を見る。じっと、札を見据えていた。

「…私が、頼んだの」

「はい? なんで?」

 テーブルの上に置かれた拳が、小さく握り締められる。それだけで、十分な緊張が窺い知れた。一層に、司の困惑が深まる。

 張り詰めた雰囲気をまとう宮凪は、逆に美しさを増していた。つくづく、美人だと思う。こういう人はなるほど目の保養だと納得するが、諒が司の格好に執心なことには同意できない。

 馬鹿げたことを考えているうちに、宮凪の決意は決まったらしい。睨むように、司を見つめる。

「お礼。私のことは、関係なかったでしょ。見捨てられても文句は言えない状況だったわ。だから…まだ私よりも、兄さんの書いたものの方が強いから…」

 司が何か言うよりも先に、注文しておいたココアが運ばれ、束の間、沈黙が降りる。司は、熱いくらいの白いマグカップを抱え、真っ白な生クリームに視線を落とした。混ぜたものかそのまま飲もうか、少し悩む。

 沈黙を破ったのは宮凪だった。

「私が弱いから、避けるの?」

「――まあ、そうかな」

 悩んだのは一瞬で、するりと言葉がこぼれ落ちた。言ってしまってからまずかったかと思ったが、それでいいのかと考え直す。

 宮凪は、顔を俯かせたりはしなかった。

「わかってるみたいだから率直に言わせてもらうけど、人のことまで面倒みたいとは思わないからね。そんな余裕もないっていうのが正直なところだし。他の人気にしてて怪我したり死んだりなんて冗談じゃない。つかその前に、宮凪さんがそこまであたしにこだわる理由がわからないんだけど」

 少女は儚げに微笑み、一度躊躇ってから、カバンから一冊の本を取り出した。草原に青空、和装で後姿を見せる青年。その表紙に、司の視線が固定される。

 ややあって、司の口元にも笑みが浮かんだ。歪みのようでもあった。

「またこれか」

「あなたが書いたって聞いたの」

「誰に?」

「九重先生」

「後で締めとこう」

 にこりと、今度は完璧な笑みを浮かべる。宮凪は視線を落としたままで、それには気づいていない。

 宮凪の声には、躊躇いが感じられた。それでも、どうにか押し出す。

「お礼、言いたくて」

「――は?」

 何を言っているのかがわからず、途轍もなく宮凪の顔を覗き込みたくなったが、頑なに伏せられている。

「知ってるかもしれないけど、私、学校にほとんど行けなかったの。はじめは、そんなことなかった。きっと、元々集団生活には向いてなかったと思う。それでも何とかしようとしたら、逆に孤立しちゃって。中二のとき、決定的になった」

 どう対応したものかわからず、司は、ココアを飲んだ。

「女子全員から無視されて、そうかと思ったら普通に喋ってくれる。逆に、声をかけてくれたりもする。日ごとだったり時間ごとだったり、あれって、予定立ててたのかな。気にしない、って思っても、駄目だった。一日ずる休みすると、もう、駄目。あんな辛いところになんて行けなかった。酷いときは部屋から一歩も出られなくて、このまま引きこもっちゃうのかなって思った」

 そこで言葉が途切れて、長い間があった。唐突に話が終わったのかと、司は訝しげな視線を向けたが、やはり宮凪の顔は下を向いている。無理にでも引き上げてやろうかと、ふっと思ってしまう。

 細い指が、文庫本の背を撫でた。

「たまたま手にとって、読んで。気付いたら、ぼろぼろ泣きながら、それでも読み続けてた。…駄目ね、やっぱり上手く言えない。ただね。私が、高校に行こうって思ったのは、やっぱり学校に行ってみようって、逃げる以外に何かできるかなって思ってのは、この本のおかげ。あなたが書いてくれた、この物語のおかげよ」

 すうと、宮凪の顔が上がった。

 涙こそこぼれていないが、まるで泣き笑いの表情で、司は大いに戸惑った。宮凪の言葉にも、脳が洗濯機にでも放り込まれたかのように、思考が攪拌される。

「ありがとう」

「――小説を読んで何かを得られたとして、得たものは読者自身のなかにあったものだ。そんなもの、小説や、まして、作者に礼を言うようなものじゃない…と、思う」

「そうだとしても、あの時私を動かしたのはこれよ。感謝したいのは、あなたになの」

「そんなの…」

 再版がかかったと聞いて、司も、読み直そうと思った。少し読んで、すぐに投げ出した。

 例えるなら箱庭だ。

 精神治療で使われる自己の建て直しの一手に、箱庭療法がある。例えば、赤い池を作る人がいる。人間に相対するものが何一つない庭、逆に、分解された人形を詰め込まれた庭。

 それらは全て、的確にではなくても一端、製作者の心のうちを示す。

 それらが癒され、例えばのどかな箱庭を作れるようになったとして、はじめの惨状を振り返りたい人がいるだろうか。もしもすばらしい芸術だと言われても、嬉しいと思えるだろうか。

「ありがとう。――言いたかったの。でも、それだけじゃないわ。本当のところ、どうしてあなたと関わろうとするのかは私もよくわからないの」

「………はい?」

 何か聞き間違えたかと思って宮凪を見るが、そんなことはないらしい。今までの神妙さを投げ捨てて、どこかふてぶてしささえ感じられる。司は、そんな宮凪をぽかんと見つめた。

「勝手にずかずか踏み込んで来て、かと思ったら突っぱねるし。守人までやってて。あなたの方が無茶苦茶よ」

「あー…それは」

 目が泳ぐ。たしかに、宮凪の従兄と関わった件はともかく、先に声をかけたのは司だ。あ、生ビールのポスターのお姉さんが美人だ、と、意味のないことを発見する。

「…忘れてた。高校生になって少し生活環境が変わって、桜の季節で、浮かれてうっかりしてた。人に関わっちゃいけないってことを忘れてた。だから、声かけたりした。ごめん、忘れて」

「――忘れられるわけ、ないじゃない」

 目が据わっている。

 司は、目を逸らしたい気持ちと闘ってどうにか勝ち、ココアのカップを抱えたまま肩をすくめた。

「そう言われても、その方が身のためだよ? 自殺願望でもあるの? あっても、迷惑だから他当たってね」

「あなたって、わざわざ人が傷付く言葉選ぶの、得意よね」

「そう? 性格悪いからね」

「でもそれって、ある意味物凄く正直だって、気付いてるのかしら。遠ざけたいから傷付けてるでしょう。巻き込みたくないから、自分のせいで酷い目に合わせたくないから、先に悪者になっておこうとしてる。偽悪的、とでも言うのかしらね」

「買いかぶりだよ、それ」

 ふ、っと、宮凪は笑った。それに返そうとした司の笑みは、何故か強張る。厄介な人を相手にしてるよなあこれ、と、内心で呻いた。

「私にも友人がいたの」

 過去形だ、と気付いたものの指摘せずにいたが、宮凪は気にせず先を続けた。今は友人とは思っていないけど、ときっぱりと。

「同級生にはあまり親しい人はいなかったけど、中学校で、転校して来た子と仲良くなったの。嬉しかった。でも、ちょっとしたきっかけで彼女は離れていって、それどころか、いじめのきっかけは彼女だったの。クラス中を煽って」

 合いの手の入れようがない。

 しかし宮凪の表情には、凛としたものさえ窺えた。完全に克服できているのかはわからないが、とりあえずは乗り越えたのだろう。

 強いなと、半ば呆れながら思う。

「その子、私が危険になったら絶対助けに行く、なんて言ってたのにね。私だって半分冗談だとは思ってたけど、まさか危険を作り出してくる側になるとは思ってなかったわ。そのことで、一つ学んだの。人ってそう簡単に信用できるものじゃないって」

「…それならあたしも信用できないはずでしょ?」

「この小説に助けられたこともあるけど、あなたは、捻くれ過ぎて逆に信じられるような気がするのよ。それだけ遠ざけるなら、何かあったときには必ず助けようとするでしょう?」

 言われて、一拍、鼓動が止まった気がした。

 脳裏をよぎるのは、手にかけてしまった親しい人たち。姿を装ったものでも、寄生されてあったものでも、手に伝わる感触は変わらず、己の罪深さを思い知らされる。

 実際問題、今となっては、司の関係者だからといって襲われることは少ないはずだ。それらには十分以上の報復を以って返したのだし、その身柄を手に入れたことで司の足が止まらないのであれば、益が薄い。

 そのあたりを十分に理解しているだろうこの近辺の者らにとって、だからそれは、意味のないことなのだ。

 だがそれでも、近くにいれば危険なことには変わりない。常に爆弾の側にいるようなもので。増して宮凪は、狩人としての司にも関わろうとしている。それ以上に、『夢戦』の作者と知られながら接されるのは、正直きつい。

 溜息を一つ落とし、一度、目を閉じる。

「四年前、この辺りの小学校の養護教諭が失踪した。知らないかな、他の小学校の事なんて」

「…知らないわ」

「小学生の失踪事件の犯人だって噂が流れたって言えばわかる?」

 思い出したような表情になった宮凪を見る。司は、笑顔を浮かべようと努力した。上手く、形作れているだろうか。

「その人は、母の親友だった。だからあたしは小学校に入る前からよく知ってたし、大好きだった。――その人を殺したのは、あたしだった」

 凍りついたような宮凪を前に、ゆっくりとココアを飲む。少し冷めて、今度は火傷はしなかった。

「完全に灰になるまで、繰り返し火をつけた。その灰も埋めた」

「でも――それは…っ」

「それは? そりゃ、理由はあるよ。でも、そういう問題じゃない。誰であっても、必要なら殺す。宮凪さんの友達だった人と同じ。守る側どころか、害する側にもなる」

 宮凪が、息を呑んだのが判った。挙げた例に引っかかったのだと判るが、司には、その身勝手とさえ言えそうな感情を責める気にはなれなかった。あえて、そこを突いたのだからその権利もない。

 司は、掌で入り口を指し示してにこりと笑って見せた。

「お帰りはあちら」

「――っ」

 何かを言おうとしたのだろうが、結局無言で、宮凪は荷物をまとめた。小銭を、叩きつけるように伝票に載せる。

 振り返ることもしない宮凪の背を見送りながら、司は小さく、手を振った。きっちりと浮かべた笑みは、小柄な少女が扉の向こうに消えるまで維持した。

 大きく息を吐いて、テーブルに額をつける。

「あー、疲れた。…さて」

 立ててあるメニューを手に取り、個性的な名前のついたセットではなく、単品一覧をめくる。

「すいませーん、お持ち帰りできますかー?」

 まだ空は明るいが、夜も十分長い。仮眠を取ったら、動き出そう。今は、夜こそが司の時間だ。



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