問一、最近読んだ本を答えてください。

 問二、好きな本をひとつ挙げてください。

 問三、覚えている限りではじめて読んだ本は何ですか?

 問四、印象深かった本をひとつ挙げてください。

 問五、春といえば思い浮かぶ本をひとつ挙げてください。

 問六、夏といえば思い浮かぶ本をひとつ挙げてください。

 問七、秋といえば思い浮かぶ本をひとつ挙げてください。

 問八、冬といえば思い浮かぶ本をひとつ挙げてください。

 問九、ロマンチックな本をひとつ挙げてください。

 問十、怖かった本をひとつ挙げてください。

 番外、何かあればどうぞ。

 

 読書部の入部試験に時間制限はなく、珍妙なものを見た、と言わんばかりのかおをしたうちの数人は、馬鹿らしいといった捨て台詞を吐いて視聴覚教室を後にした。

 問と問の間はたっぷりと空白が取ってあり、これは本の題名以外も期待してるのかなと思いつつ、司は、回答を考えてみた。

 問一は、『現代民話考』の十巻。送り狼について、知識のおさらいをしたくて書棚から引き抜いた。

 問二は、ひとつと言われても困るので措いておく。

 問三は、題名は覚えていないが、ふかふかと毛皮の気持ち良さそうなねずみの出てくる絵本。話の筋など覚えていないのだが、眼鏡をかけたねずみが可愛らしくて、何故か巨大だと思い込んでいた司は、抱きついたら気持ちいいだろうなと思ったのを覚えている。

 問四は、『果てしない物語』。本の内容よりも、それと繋がった装丁に射抜かれた。

 問五は、小学生一年の教科書に載っていた、熊が花の種を落とす話。

 問六は、『夜の神話』だろうか。あるいは、『ぼくらのミステリー学園』。

 問七は、…料理の本、というのは反則だろうか。月見団子の作り方の載ったレシピ本があったはずだ。

 問八は、『火よう日のごちそうはひきがえる』。冬の話だったかどうか自信はないが、雪の描写があったような気がする。

 問九は、これも題名は覚えていない、科学者たちのいろいろなエピソードをまとめたノン・フィクション。それか、科学者のエッセイ集でもいい。科学者なんてものは、夢想家でなければ到底やっていられないと思う。

 問十、聖書。

 ざっと考えてみて、児童書が多いことに気付いて苦笑する。幼年期よりも現在の方が多く読んでいるはずなのに、案外こんなものなのだろうか。

 そして、それぞれの問いに回答を思い浮かべながら、司は、白紙のままの解答用紙を置いて席を立った。名前すら書いていない。

 隣の席では、ルナが楽しそうに書き込んでいる。ちらりと見た解答用紙は、小さな可愛らしい文字で着々と埋まっていた。案外、入部する気になったのかもしれない。

 まだそれなりの人数のいる教室を後にした司は、すぐ隣を割り当てられている図書室に行こうかと思ったが、そこには、入部試験を放棄した生徒が数人、溜まって諒を囲んでいた。舌打ちしたい思いで背を向ける。

 諒が司書教諭になるのを認めたのは間違いだったかもしれない。せっかくの憩いの場が、ひとつ減った。

 そうして向かった駐輪場では、宮凪が待ち構えていた。足はとりあえず治ったらしく、松葉杖はついてないな。そうすると、合宿中の松葉杖は、念のためか、あるいは、なるべく参加を避けるためのポーズだったのかもしれない。

 思わず、溜息がこぼれ落ちる。平穏な学校生活を送らせてください。

「ちょっといい?」

「良くないですさようなら」

 じゃ、と手を上げて自転車にまたがるが、気付けば荷台を押さえられている。見るからにか弱そうな宮凪に掴まれたところで発進できるが、下手をしたら怪我をさせかねない。

 はあぁ、と息を吐いて、司はクラスメイトの美少女を見た。

 文句なしの和風美人で、艶やかな髪は見事に長い。輪郭のはっきりとした体ではないが、姿勢がいいところが高得点。ブレザーの制服よりも古典的なセーラー服の方が似合いそうで、それは少しばかり残念だ、と考えると諒の思考が感染ったようで、司は少しだけ顔をしかめた。

 ルナ情報によると家の手伝いで巫女をしていたりするそうだが、ストーカー手前のファンがいてもおかしくなさそうだ。

「話があるの」

「そう。こっちにはないんだけど」

「はじめに声をかけて来たのはそっちでしょう?!」

「はいはいはい。長引く?」

 え、という形に小さく開かれた口を眺め、司は頭を掻いた。

「話長くなるなら、場所を移そう。自覚があるのかないのか知らないけど、あなたは結構な有名人なんだ。それでなくても、目立つ容姿だし。こちらとしては、有名人になるのは避けたいんだよね」

 諒でもいれば、手遅れだ、あるいは、無理だ、とでも突っ込んだだろうが、相手は初対面に等しい。黙り込んだところからすると、自分が有名人との自覚はあるようだ。

「坂を下りたら信号渡って、そのままひたすら真っ直ぐ、郵便局を右に曲がって少し行ったあたりに、気球屋って喫茶店があるからそこで。歩いて十分そこそこ。自転車ならもっと早い」

「逃げるつもり?」

「逃げてどうする。明日も明後日も、下手をしたらこの先三年間毎日顔を会わせるってのに? 心配なら、鞄貸して。交換」

「交換?」

「こっちの分だけ預けてもいいけど、二人分持つ? 罰ゲームじゃあるまいし」

 肩をすくめ、前かごに突っ込んでいた制かばんを差し出す。荷台にくくりつけるよう言われているが、納まるからいいじゃないかと不精をしている。

 宮凪はきゅっと唇を引き結び、渋々とかばんを受け取った。代わりに、見た目は大差がないのに妙に重い、宮凪の鞄が渡される。

「じゃあ、後で」

 荷台から手が離れているのを確認し、司は、ひらりと手を振ってペダルをこいだ。

 坂をほぼブレーキをかけずに走り下り、信号近くで緩めのブレーキと自転車を横にして勢いを殺す。すぐに変わった信号を渡り、この間太郎と行ったばかりのメルヘンチックな喫茶店へと向かった。閉まっていたらどうしよう、と一瞬考えたが、ドアにかけられた板は「OPEN」が表になっている。

「いらっしゃいませー」

 軽やかに、大学生くらいだろう女性店員の声が響く。

 カウンターに座る、堅気と思いがたい雰囲気を発する中年男は、もしや、太郎の同僚だろうか。そう言えば、引継ぎは片付いたが残り二件は手付かずだ。帰りに病院に寄ってみるかなと考える。

 そんなことを考えながら、入ってすぐ目に付くよう、入り口真正面の奥のテーブルに着く。今日は大人しくパフェだけをたのんだ。

 宮凪が到着したのは、既に半分ほど、司がパフェに手をつけた頃だった。注文に迷い、パフェが出てくるまでに、十分は確実に経過していたはずなのだが。

「歩きだった?」

「…自転車よ」

 これは道に迷ったな、と思ったが、指摘しないでおく。果たして、迷うような道だっただろうか。

 座った宮凪の目の前に水の入ったグラスが置かれ、ポニーテールの店員が、ご注文は後ほどお伺いします、と言い置いて去って行った。

 とりあえずかばんを交換し直し、なにやら困惑顔の宮凪に、司は首を傾げた。

「お金、持って来てなかった?」

「あるわよ。……こういうことろ、入ったことがないだけ」

「わあ、それは天然記念物。ファーストフードも? それよりは戸惑わないんじゃない、ほしいものたのめば持って来てくれて、帰りはそのまま置いて、お金払えばいいだけだから」

 少しだけ泣きそうにも見える表情で、睨むようにメニューを見ていた宮凪はケーキセットをたのみ、紅茶シフォンとアールグレイが運ばれてきた。

 それで、と、パフェを食べきってしまった司が促す。

「話っていうのは?」

「…ありがとう」

「はい?」

「兄さんを、助けてくれて。私のことも」

 視線を逸らしているのは、照れ臭いからだろう。なんとも素直で、司は、参ったなと心中で舌打ちをした。

 お冷のコップを持ち上げると、からりと氷が音を立てた。

「話って、それだけ? だったら、用事があるから帰る」

「待って。私…何か、手伝えないかしら…?」

 財布を取り出し小銭を数えていた司は、顔を上げて宮凪を見つめた。緊張しているのだろう、綺麗な顔が強張っている。

 司はあえて不思議そうに、首を傾げて見せた。

「実力も経験もない人に、何を助けてもらえばいい?」

 瞬間、宮凪の顔が凍りつく。すうと、光の退いた眼には、心持ち、涙が盛り上がっていた。

 珍しく端数まできっちりと揃っていた小銭を裏返された伝票に乗せ、司は、席を立った。ごちそう様、と、カウンターの中の厨房に声をかけ、連れが払いますと言い置いて店を後にした。

 店を出たところで、太郎と鉢合わせた。

「…さぼり?」

「阿呆、捜査本部から逃亡した人がいるから捕まえに来ただけだ」

「あ、多分その人、カウンターの端にいた」

 じゃあ、と軽く手を上げて横を抜けようとしたのだが、どいてくれない。通路を塞がれた形で、何の冗談かと軽く睨むと、太郎が、無表情に司を見下ろしていた。

 太郎の無表情な眼に見据えられると、司でさえやってもないことを自白しそうになる。だから、チンピラ程度の犯罪者であれば太刀打ちできるはずがない。風の噂に、犯行現場の野次馬の中にいた放火犯を、一睨みで自首させたと聞く。

 威圧感あるなあ、怖いよ天狗、と、司は、無論心の中で呟いた。わざわざ口に出して、空気を険悪にする趣味はない。

「いいのか、あれで」

 あれって何、と言いかけて、太郎の、というよりも妖関係の大半が耳がよかったことを思い出し、苦笑がこぼれる。

「立ち聞きは感心しないなあ?」

「聞こえただけだ」

 いくらなんでもそれでは日常生活に不便で、多少は耳を済ませたのが本当のところだろう。だが司は、追い討ちはかけずに笑顔を作った。

「足手まといに足手まといって言って、何か不都合でも?」

「誤魔化すな」

「自分一人をどうにか守るのに精一杯な人間に、他人に構う余裕なんてない。大切なものを作ってむざむざと失うだけなら、はじめから大切なものなんて持たないほうがいい。何も持っていなければ、失うことはないんだから」

 祖母を喪ったときのことを思い出す。司は危うく、要までも失うところだった。

 親しい人が、司の弱点になり得るというだけで巻き込まれたこともある。そうでなくても、近くにいれば、巻き込まれる機会は増えるだろう。

 実際に巻き込んでしまったとき、司が取る行動は判っている。

 極力助ける努力をする――ただし、そこには必ずも絶対もない。今までの経験上、親しい人を手にかけることもあると、知っている。

 だから、はじめから巻き込まないことが最善なのだ。

 ルナと距離を置こうと思った矢先に、この宮凪からの申し出だ。何かを試されているのかと思わないでもないが、ただの偶然だろう。

 太郎を相手にさらりと断言した司は、それで、と言葉を継ぐ。

「真っ正直な意見が聞けて、満足した? 中に用事なんでしょ。入れば?」

「司――あの時、どんなことをしても止めておくべきだった」

「ねえ太郎さん、今更だよ。あたしは自分で決めたの。太郎さんがどれだけ反対しても、やっぱり今を選んだと思うよ」

 太郎の痛ましげな視線を真っ向から受け止め、微笑んで見せる。気遣いはありがたいが、時として重荷にもなる。

「せめて――俺が補佐になれば、良かった」

「ありがとう。でもそれ、諒に言ったら嫌味しか返ってこないと思うから、思うだけにしておいた方がいいな」

 立ち尽くす太郎の体を軽く押すと、今度は片側に身を寄せて道をあけてくれた。ありがとうと声に出して、置いている自転車に向かう。

 司の自転車は、宮凪のだろうものと並び、日向ぼっこをしていた。

 大き目の前かごに、荷台、両足スタンド、前輪に取り付けられた個別の鍵を必要とする鍵。俗に言う「ママチャリ」のそれは学校規定で、まだ通学を認める鑑札はもらっていないが、そのうち後輪のタイヤカバーに、大きく校章の入ったシールを張ることになるだろう。

 控えめに言って野暮ったく、一言で言い捨ててダサい。

 色が黒と銀に限られているのがせめてもの救いのような、何一つ救っていないような。おまけに、高校入学を期に新しく購入したのだが、春休みに散々乗り回したせいか、早くも使い込まれ感が漂いつつある。具体的には、傷や汚れだ。

 しかし、そういったことには身なり同様無頓着な司は、軽やかにサドルにまたがると、さてこのまま病院に向かうか一旦戻って着替えるか、と短く悩む。

 結論。戻ろう。

「沖田さんっ、沖田司!」

「宮凪果林さん。何か?」

 白い肌を紅潮させた宮凪に睨みつけられ、司は、そ知らぬ顔で視線を返した。

 束の間とはいえ太郎と話しこんでいたために、追いつかれてしまったらしい。もう少し長く自失してていいのに、と、口に出して言うともっと怒らせそうだ。

「――傲慢よ」

「忠告、痛み入る。だけど残念ながら、爆弾を積んだバスは、そう簡単には止まれないんだ」

「何よそれ。茶化さないで」

 微妙に派手なハリウッド映画を、宮凪は知らないのかもしれない。そもそも、それがどうしてこんなところで思い浮かんだのかは口にした当人にも謎だ。

 宮凪は、「気球屋」の入り口から離れ、つかつかと司に歩み寄って来た。

「あなた、守人がどれだけ大変かわかっているの?」

「まあ、人並みには?」

「――死ぬわよ」

「不死の人間がいるなら、目の色を変える人が山ほどいるだろうね?」

「意地を張って孤立しないで。わたしの家は、神社なの。兄さんに相談に乗ってもらうことだってできる。何もできないわけじゃないわ。助け合うことも、必要でしょう…?」

 ああ善人は手に負えない、と、司は、晴れ渡った春の空を振り仰いだ。雲が白い。

「必要になったなら、そのときはお願いします。けれど当面、不必要です。ありがとうございました」

「っ!」

「じゃあ」

 ひらり、と手を振り、ペダルに置いた足を踏み下ろす。司は、宮凪のことを振り返りはしなかった。ただ、追いかけられたら厄介だなとだけ思いながら、流れる景色を眺めやる。

 そうして帰り着いた自宅では、その辺りに散らばっている服を適当に着込むとすぐに飛び出し、自転車に乗って、辛うじて駅近辺と呼べなくもない市営病院へと走り抜ける。

 この道は、通い慣れている。

 高校の近辺よりも格段に多い交通量の中をすり抜けながら、司は、花盛りやいくらか咲き散った桜を眺めていた。傾斜の具合や、車や人に気をつけるべき場所など、意識しなくてもさばいていける。

 司の祖父が、入院していたことがある。

 もっとも祖父といっても血縁はない。司も要も、山で母と一緒に行き倒れていたらしい。母は元々この辺りの出身ではあったらしいが身内もなく、司たち親子は発見者の祖父母と一緒に暮らしていた。早すぎた死を迎えた母の記憶よりも、祖父母のものの方が多いくらいだ。

 ごめんなさいとも、ありがとうとも、ろくに言えないままに皆去っていってしまった。永遠に。

 祖父がなくなったのは祖母よりも一月ほど早く、体中に巣食った癌の治療を断念した自宅療養の末のことだった。

 止めるまでの一時を入院して過ごしたために、通い慣れている。

 当時はまだ小学生で、今でこそ自宅から自転車で二十分もあればつくが、もっとかかった。

 祖母はバスかタクシーを利用し、司や要も祖母と一緒のときはそれらに乗ったが、一人やお互いだけの時には自転車で行った。渡されたお金はこっそりと返していたのだが、気付かれていたかもしれない。

 そして今は、会ったことはないが知っている人も入院している。途中で花束を購入したのは、その彼女の病室に飾るためだ。

「でね。その子、司って言うんだ」

 病室の戸を開けようとしたところでかすかに自分の名が聞こえ、司は、思わず足を止めていた。声は、病室の中からしている。

 ゆっくりと、音を立てないように戸を引き開ける。

「ちょっと変わってるんだけどね、格好いいんだ。真っ直ぐに、一人で立ってる感じがして。…司と一緒にいたら。あたしも、変われるかな? ねえ――お姉ちゃん」

 え、と、司は声を呑んだ。

 隙間を開けて明瞭に聞こえた声は、この数日で耳に馴染んだものだ。それに、入院中の彼女には妹はいないはずで。

 病室を間違えたかと名札を見ると、たしかに「江本可南子」とある。源の、彼女の名だ。

 ええ? と、混乱しているうちに音を立ててしまった。思わず、足音を立てずに跳び退り、今しも病室にたどり着いたかのような体勢をつくる。

 引き戸に手をかけたところで、内側からも手がかかり、薄い板を一枚挟み、司はルナと顔を合わせた。

「……え? えええっ?!」

 ぽつり、と漏れ出た声に続き、大声を出してしまってからルナは、自分で自分の口を押さえた。ただでさえ大きな目はまん丸に見開かれ、こぼれ落ちそうで少し恐い。

「なんで、ここに?」

「それはわたしの台詞! どうして? 司、可南お姉ちゃんと知り合い?」

「お姉ちゃん?」

「あ、えっと、近所で仲良くしてもらってってそうじゃなくて――」

 とりあえず花束をルナに示し、中に入ろうと促した。でなければ、喫茶コーナーにでも移動するか。病室の戸を挟んでの立ち話は、なんだか馬鹿らしい。

 今にも頭から煙を噴出しそうなルナは、それでも体を引き、司を病室へと招き入れた。

 小さいながらも個室で、諸事情から格安で治療費のみの負担とはいえ、源と可南子の貯蓄でどの程度維持ができるだろう。

 寝台の安らかな寝顔を眺め、司は、残酷だと思う。

 死んでいれば、諦めようもある。しかし植物状態は、中には、意識を回復させた人もいる。つまり、死んではいない。だが、それがいつなのか、果たして来るのかは、誰にも判りはしないのだ。

 だからこの状態は、長引けば長引くほどに――良し悪しどちらにしても、結果が出るまで、あるいは出ても、途轍もなく残酷だ。まだ何年しか経っていない、と口にする源は痛ましい。

 自発呼吸はあるらしく、日にやけないせいか怖いぐらいに白い肌をした女性は、まるで呪いのかかった眠り姫か毒林檎を食べた白雪姫のようだった。ハッピーエンドを約束されていない、物語の主人公。

「どういう知り合いだったの?」

 遠慮がちに声をかけられ、可南子に見入っていた司は、はっとして視線をルナに向けた。

 そうだ、この少女がいた。

 学校という制度を離れた場所で見るルナは、息消沈したティンカーベルのように、儚げな雰囲気があった。もっともそれは、この場所だからなのかもしれない。何一つ反応を返さない人の病棟を訪れ、話しかけるくらいだ。よほど、親しかったのだろう。

 司は、ゆっくりと首を振った。

「知人を通して知ってただけ。入院する前は、挨拶をしたこともなかった」

「それでも、来てくれてるんだ。司は――やっぱり、優しいね」

 まただ。

 蔑むのでも皮肉でも、あてつけでもなく、それでも引っかかる口ぶり。何だろう、と思ってルナを見ると、司の持ってきた花束を抱きかかえるようにしながら、その顔は、笑顔をつくり損ねたように歪んでいた。

 それで、気付く。

 自嘲。あまりに馴染みすぎた、それ。

「座ってて。水、入れてくる」

「あ、ごめん、持って来といて。やるよ」

「ううん。やらせて」

 先ほどとは逆に司に花束を渡し、ルナは、病院の備品でもある花瓶を手に出て行った。ぱたぱたと、足音が遠ざかっていく。

「なんで?」

 一人になり、ぽつりと、司は声を漏らした。

 何故自嘲する。ルナは、自身を優しいとは思っていないのか。以前を知っていたか知らないかの差はあったとしても、表面上、ルナと司の行動は同じだろう。そもそも、優しいの定義を何処においているのか。

 そこで司はようやく、優しいと言われて否定し損ね続けていることに気付いた。

「うわ」

 優しくなんかないぞー、諒あたりが聞いたら絶対笑う、と、溜息をつく。

 そして、落とした視線を可南子に向けた。

 可南子がこうなってしまって、源は壊れた。どうにか命を繋ぐ算段だけをつけ、源本人は、この病院には近寄ろうともしない。まるで、会いに行けば一層の不幸が訪れると、信じるかのように。

 それほどに、大切な人。

 それほどに、大切に想われている人。

 司はそっと、可南子の耳元に屈み込み、囁いた。

「源さん、待ってますよ」

 返事は、当然のようになかった。

 ぱたぱた、と足音が近付き、体を起こす。手を離せば勝手に閉まるようになっている引き戸を開けて、ルナが姿を見せた。

 微笑む様は、やはり可愛らしい。

「ごめん、ありがと」

「どういたしまして。司、この近所?」

「んー、まあ、近所と言えば近所。そっちは?」

 窓際のキャビネットの上に花瓶を置いて、見舞い客用にか置かれた椅子を二客、引っ張り出す。ああ気が回らなかったと、司は頭を掻いた。

 勧められ、窓を背に並んで座り込む。

「家、この裏なの」

「へえ。急病のとき便利だ」

「夜がうるさいけどね、救急車。仕方ないけど」

「一回戻ってから来ても良かったんじゃない?」

 制服姿のままのルナに何気なく訊くと、黙ってしまった。

 何か地雷を踏んだか、そう言えば距離を置くつもりだった、と思っているうちに、ルナは無表情な視線を上げた。

「お母さんが、あまりよく思ってないんだ。結局同じなんだけど、家に帰ってお母さんの顔見たら、来る気萎えちゃうから」

 淡々と、さほど感情を見せずに言葉をつむぐ。唯一みられるとすればやはり自嘲で。

 司はただ、黙っていた。

「お姉ちゃんがこうなった経緯、知ってる?」

「ああ――うん。大体」

「お姉ちゃん、優しくって人当たりがいいし気配りのできる人で、変な言い方だけど、評判良かったんだ。あんたも見習いなさいよ、とか、あんなふうになりなさいよとか、言われるような。小学生のあたしからしたら、本当に理想みたいな近所のお姉さんだった」

「うん。…多分、わかる」

 司が、諒や源をそう思っていたように。きっと可南子はルナにとって、身近なアイドルだったのだろう。

 だがそれは、ある日打ち破られる。

「あの事件が起きて、そもそもそんなところに行ったのが悪いんだとか元からそういった付き合いがあったんじゃないかとか、酷い噂ばっかり広がって」

「本人は、何も言えないから」

「…わたしも、何も、言えなかった」

 やはり、淡々と。

 遠くを見る眼差しのルナの視線の先には、可南子が横たわっている。まるでただ眠っているかのように、清潔すぎる病院のベッドに収まっている。

「わたしが何か言ったところでどうにもならなかったって、わかってる。でも、そんなことないって、言いたかった。言いたかったのに言えなくて、それどころかわたし、恐くなった。何もしてなくてもあんなふうに言われるのかって、恐くて、友達からも距離置いて、その癖うまく立ち回ろうとして広く浅くの付き合いは増やして。わたしは――しばらくはお見舞いにさえ、来られなかった」

 どこまでもルナの声は淡々としていて、逆に司は、それが心配になった。

 可愛らしい少女を見遣ると、うっすらと微笑み返された。透き通るような笑み。

「ごめん。暗い話しちゃった」

 ここで話を切り上げれば、流してしまえば、望み通りにルナと距離を置けるとわかっていた。ただ、やり過ごせばいいだけ。

 ルナを傷つけたくなければ――そして司が傷つきたくなければ、ただ黙っているだけでよかった。

  そのつもりでいたのに、司は口を開いていた。

「ルナは、強いね」

「――え?」

 無理な笑顔で、今にも泣き出しそうに、ルナは司を見た。

 これ以上何も言うな、深入りするなと、しきりに頭の中で警告が灯る。何か言って、嫌われたり軽蔑されたりするならいい。もしもより一層親しまれてしまったら――また、繰り返すつもりなのか。

「強いよ。迷ったり傷付いたことをただ見据えるだけのことだって、なかなかできない。なかったことにしたり、見えない場所に隠す方がずっと簡単なのに、向き合って、どうにか消化しようとしてる。――強いよ。優しくなろうと思ったら、強くないとなれない」

「…りがと…」

 俯いたルナの足元を、雫が濡らす。

 司は、頭を掻き毟りたい衝動と震えそうになる身体を、どうにか押さえ込んで立ち上がった。そのとき、身動きしたルナの膝からかばんが滑り落ち、今日から早速始まった授業の教科書の他に、文庫本が一冊飛び出した。

 表紙には、空と草原。その間にたたずむのは、腰に大小の刀を下げた和服の人物の後姿。

 題字は、『夢戦』。そして作者名が「源彼方」。

 忘れたい、なかったことにしてしまいたい、けれど確実にあって拠り所とさえなる、司の過去。

 くらりと、眩暈を感じた。

「――『本当に強いのは、どんなことをしてでも生き抜こうとした人だよ』」

 自分が口走った言葉を認識するまでに、かなりの間が開いた。え、というルナの声が遠くで聞こえた。ぽかんと、涙で濡れていた目を見開く。

「司、これ読んだことあるの? 凄い、あたしが布教した以外ではじめて会った!」

「っ、ごめん帰る」

 半ば駆け出すようにして、司は病室を後にした。驚いたルナの声が聞こえた気がしたが、無視して、中庭に走り出て、片隅の陰になっているところにうずくまるように膝をつく。あまり目立たず、人が来ることもないだろう。そこが当初の目的の桜の木の下だと、気付く余裕もなかった。

「――馬鹿だ。どうしようもなく、途轍もなく、馬鹿だ――!」

 呟きが、震える。

 どうしてこんなにも、弱いのだろう。弱さは、火月で切り捨てたはずだった。それなのに、どこまでもついて来る。

 『夢戦』は、掌編とも呼べそうな短い話をかき集めた本だ。 

 幕末の、少しでも知識があればこの集団と特定できる、そんな彼らを好き勝手に空想したような、そんな話。むしろ、断片と呼んでもいい。

 ただの夢想だ。

 もしかすると、実際に存在した彼らを侮辱するかもしれないと、そう思って、司はどうしてもその集団の名を書けなかった。今でも、どうして賞を取れたのか、出版され、今でも少しずつでも読まれているのかが、わからない。

 自分のやったことを仮託して、ただ吐き散らしたかっただけだ。

 強く在りたかった。

 自分が屠ったものを振り返り、泣き暮れるのであれば、はじめから、火月を手に取るべきではなかった。

 それでも司は、何度あのときに戻っても、諒を探し、火月を振るうだろう。人と妖の血で濡れた、今の道を選び取るに違いない。

 そんなことはわかっているのに、わかりきっているのに、心が揺らぐ。

 『夢戦』を書いてしまった自分を、司は、振り切る術を持てずにいる。ルナに対しても、宮凪を敢えて傷つけるように遠ざけようとしたように同じようにするべきだったのに。

「なんで…ッ!」

 強く在りたかった。一人きりでも立っていられるように、強く。

 一人きりの強さは本当の強さではないと言うなら、誰かを守る強さこそが本物だと言うなら、本物を得ようとして失った人に、何をどうやって償えばいいというのか。偽者や独り善がりでも、誰も失わずに済むのなら、失うのが自分だけで済むなら、その方がいい。

 自分が屠ったものを振り返り、失ってしまった人を泣き暮れるのであれば、はじめから、火月を手に取るべきではなかった。

 それでも司は、何度あのときに戻っても、諒を探し、火月を振るうだろう。人と妖の血で濡れた、今の道を選び取るに違いない。司に祖母を殺し偽ろうとした妖を許すことはできず、そのために弟を見捨てかけたことをなかったことにはできず、目を逸らすために罪を犯し続ける。

 そんなことはわかっているのに、わかりきっているのに、心が揺らぐ。その上に、どうして『夢戦』がちらつくのか。

「司」

「え…?」

 呼びかけられて顔を上げた司の口から、勝手に言葉が漏れていた。

「なんで…? なんで…ゆき、さん…」

 母の親友。太郎の親友で、司の通った小学校の養護教諭だった。母のように、あるいは姉のように、慕っていた人。

 由紀は、悪戯っぽさの混じった笑みを浮かべた。

「どうしたの、お化けでも見たようなかおして」

「だって…」 

 この手で、命を絶った人。

 小学校の最終学年の、秋の手前。春に狩人になり、夏に弟がアメリカに発ち、運動会と音楽会の間の時期。そのときに司は、母の親友に刃を向けた。彼女の中には、人を喰らうことに染まった妖が根を張っていた。妖と彼女を分離するには、気付くのが遅すぎた。

 ――ねえ司、あたしを殺すの?

 由紀は、そう言って微笑んで見せた。お腹すいた何か作って、と、ねだったあの時のように。断らないよねそんなことしないよねと、期待を目一杯滲ませて。

 由紀の職場でもあるはずの小学校の校庭で、真夜中に子どもの亡骸を挟んで対峙しているなんて、まるで嘘のようだった。嘘であればいいと、気付けば願っていた。

 それでも。

 その唇は、血に染まっていて。

 その爪も髪も服も、赤に染まっていて。

 ――ゆき、さん…。

 ――そんなかおしないで。いいじゃない。ちょっと目をつぶっててくれれば、それでいいの。大丈夫、上手くやるわ。ばれなきゃいいでしょ? ねえ、あたしを見捨てたり、しないよね?

 そこにいるのは確かに由紀で、悪戯っぽく微笑むのも、ちょっとくらい道を外れたほうが楽しいのよと唆すのも、由紀そのものだった。

 妖は、由紀に成りすましているのでも寄生しているのでもなく、同化しているのだ。人の姿をしていれば、ましてや、誰にでも好かれるような性格であれば、怪しまれにくいと考えて。そして、狩人の身内であれば、刃も鈍ると考えて。

 いっそ、そこに一片も由紀が残らずに妖がふりをしているだけであれば。

 ――ゆきさんは…それで、いいの…?

 ――決まってるでしょ? ねえ司、これからもずっと、仲良くしましょ? 親友の忘れ形見だもの、あたしにとっても子どもみたいなものだわ。

 ――…太郎さん、怒るよ。

 ――ばかろー? 黙ってればわからないわよ、あいつ鈍いしへたれだし。

 由紀が知る太郎は、人として振舞う姿だけだ。由紀は、太郎の姿を知りはしない。だからかその身に同化した妖も、まだ知りはしない。

 それでもいつかは知るだろう。そしてそれよりも早く、太郎が血の臭いに気付くに違いない。

 だから司は、選ばなければならなかった。

 ――ゆきさん。

 ――何?

 ――ごめんなさい――

 そのときの感触を、司は今でも夢に思い出す。忘れようとしているはずなのに、決して忘れてはいない、実は忘れてはならないと戒めている、その手ごたえ。

 だから今目の前にいるのは、本当に、お化けでしかない。

「ゆきさん…?」

「何よ、もう。ちょっと頑張りすぎてるんじゃないの? ほどほどに手を抜かなきゃ、人生長いのよ、やってらんなくなるわよ〜?」

「…うん」

 由紀ははいつの間にか闇に侵食され始めた空を背負い、朗らかに微笑んだ。

「ほら、少し休みましょう?」

「ゆきさん」

 手を差し出され、ふうっと、司は立ち上がった。

 ごめんなさい、と、司のどこかが呟いた。

 ごめん、ゆきさん。ごめんなさい。ゆきさんは、あたしに関わっちゃいけなかったんだ。あたしは、ゆきさんに関わるべきじゃなかった。いつだって、あたしのために。でもそうだね。少し、疲れた。高校に入ってほんの数日なのに、いろいろとありすぎて、疲れたよ。少しだけ――休んでもいいかな。

「ね」

 示されて見上げた先には、薄暗くなってきた中でも判る、満開の桜。あでやかに咲き誇った花があった。

「きれいでしょう?」

「うん――」

「司!」  

 電撃でも浴びたかのように、びくりと司は、身を震わせた。

 そうして見つめる先には、蒼白な顔をした諒がいる。その普段にない顔色にも驚いたが、どうにもおかしい。何だって諒を見下ろしているんだ、と気付いた司は、今度こそ本当に、我に返った。

 どうやったものか、司は、頑なに花を開こうとはしない桜の木の幹に腰掛けていた。今にも、ひょいと飛び降りそうな、そんな格好だった。それほどの高さはないが、いつの間にか枝から垂れ下げられている縄を見ると、首でもくくろうとしていたのかと思う。

「…あれ」

「司、降りて来い!」

「えーと、うん、ちょっとのいて」

 とりあえず縄を外して投げ落とし、飛び降りる。諒は、何かを見極めるように司を見据えた。

「あのー、諒?」

「単独行動、禁止」

「そんなこと言ったら、日中身動き取れないじゃない。大体司書教諭なんて枠狭いんだから、真っ当に生きて望んでる人に譲り渡せ」

「お前それ、心配してる奴に言う言葉か?!」

 いつも通りな諒とのやり取りに安堵して、司は、ただ一本花をつけていない桜の木を見上げた。

 幻か、と、声に出して呟く。鈍く痛んだ胸を、その言葉で飲み込む。

「…何、見たんだ?」

「内緒。警告、出してるんだよね?」

「司」

「訊いたことには、答えてもらえないの?」

 互いに、半ば睨み合う。

 中庭には人は居ないが、建物の中はざわついていた。内容までは聞き取れない、人の声。子どもの泣き声は、小児科だろうか。

 見舞いの時間は終わりで、司たちは見つかれば追い出されるだろう。

 桜の木に片手を置いた司は、諒を見据えた。

「訊いてるんだ、諒。説教を垂れてくれとは、頼んでない」

「…。出してる。もっとも、植物は難しいからな。意思が通じてるかどうかはわからん」

「いい加減だなあ」

 苦笑した司は、もう睨みつけてはいない。諒も同様で、肩をすくめた。

 春風が二人を撫ぜて行き、他の木の花びらを散らした。桜花の見頃は過ぎ、既に青葉ののぞいている木も多い。もう少しすれば、毛虫の盛りになるだろう。

「何か、妙な感じがするんだけどなあ」

「どんな?」

「うーん…諒も、感じてるんじゃない? 命を掠め取ってるにしては、生臭さって言うか…何か、そういうのが感じられない。狂ってるようには思えないんだ。…ちょっと保留、していい?」

「そりゃあ、俺はお前に従うけど。どうするんだよ、その間にまた誰か引き込んだら」

「えーと、諒が四六時中見張るとか」

「はい無理」

「冗談です。結界、張っといてくれる? 封じ込めるやつ」

「あーはいはい、了解。下がってろ」

 手を上下させて追い払う仕草を見せ、諒は、桜の根元に膝をついた。司には意味の取れない文言を呟き、幹に手を当てる。

 しばらくそうして、立ち上がって土を払い落とす。もっとも草地で、それほどではないのだが。

「で、どうすんだ?」

「病院で聞き込みとかできたらなーって思うけど…」

 笑い声、注意するような声、泣き声、男も女も、子どもも高齢者も、赤ん坊も。建物の中からは、ざわめきが伝わってくる。見舞いを受け付けている時間ならよかったのだが、今となっては無理がある。

「出ようか」

「だな」

「あーあ、土日寝倒した分、今日でどうにかならないかと思ったんだけどな」

「無茶するなよ」

 合宿先での助太刀は、思ったよりも司の体に負荷をかけていた。合宿の最終日など、半ば意識が朦朧としていて、平静を装うだけに手一杯でほとんど何があったのか覚えていない。

 そして家に帰るなり倒れこみ、眼が覚めたのは月曜日の午前零時。空腹に食事を詰め込むと再び寝てしまい、明ければ学校だ。

 さすがに二日間寝倒したのはそうはない体験で、眼が覚めたときの、強張った体にはぎょっとした。土曜も日曜も、諒も颯も様子を見に来てくれていたらしいのだが、その間司は、ぴくりとも動かなかったらしい。

「玄関先で見つけたときの、あの驚き。とうとう死体になったかと思ったぜ」

 とりあえず施錠はされていない出口に向かって肩を並べて歩きながら、諒は溜息を落とした。

 玄関先で睡魔への対抗を諦めた司は、玄関の敷石の上に膝をつき、上がり口に上体を乗せるという無茶な格好で意識を失っていたらしい。目覚めたときにベッドの中だったのは、発見者が運んでくれたからだ。

「あはは。遺書でも隠しとこうかな、沖田司が不審死を遂げたときは諒を疑えって」

「どんな嫌がらせだ。お前、実は俺のこと嫌いだろう」

「ご想像にお任せします」

「くっ、生意気に育ったな」

「うーん、子どもって周りの人を見て育つんだよね」

 にこやかに諒に責任を押し付けるが、そこは慣れたもので。

「そうだよなあ、天圏やら椚やらがいたんじゃあ、環境がよくなかったな」

 穏やかに笑顔で言葉を交わしながら、二人は病院を後にした。背後の建物からはやはり、濃厚な人々の生活する空気が感じられた。



 表紙 話置場 中表紙 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送