九章
雷が鳴った。
その名残を追うようにして。雨が降り出した。それまでは猛り狂っていた炎が、次第に力を失っていく。
――終わったか。
視界が利かないほどに大降りの雨の中、足を緩めることなく、潦史は思った。
術式が完了した。それを待つために、潦史はこのまちに戻ってきたのだ。
終わったらすぐに火を消せと、あらかじめ、水に纏わる全ての者に命じていた。そうして、立ち入りを禁じる結界も機能させた。今回の仕切は全て、偽りなく全て、自分にあるはずだった。
ぬかるみに足を取られて転びかけながらも、潦史は走った。まちの中央にたどり着いた頃には、膝のあたりまでが見事に泥だらけで、なおかつ雨に洗われ、服が、気力も萎えそうな重さになっていた。全身がずぶぬれで、服ごと川に飛び込んだのと大差ない。
水を含んで張り付いた髪を掻き上げて、まちの中心で、潦史はようやく立ち止まった。
上を向くと雨に溺れかねないので、俯く。自分の沓と、顔も手も白い、倒れた青年――識己と、赤のズボンの裾と沓が見えた。
「あんたが首領?」
「ふん、今頃何をしに来た」
「とりあえず、あんたを殺しに、かな」
さして興味も力も気負いもない声には、哄笑が返った。
よく雨に溺れないなと、潦史は感心する。俯いている様子はなく、何か雨を遮るものでも頭上に置いているのか。それとも、気力か。だとしたら凄いと、どこか遠くで考える。
夢と判っている夢の中のように、現実感が希薄だ。だがこれは、どう間違えても現実だ
「喜べ、我が主の光栄なる最初の贄にしてやろう!」
力強い台詞と共に、大振りに剣が振り下ろされる。
潦史は、ただ顔を上げて、一歩下がった。目の前を剣先がはしる。もう少し遅ければ、顔を上げる動きで、自らの首を差し出す形になっただろう。
冷めた視線の先には、上着まで緑の、長い髪を背や肩に貼り付かせた四十代ほどの男が立っていた。角帽を被り、その四隅からはちょっとした滝のように水が滴り落ちている。大剣を持って立つ男の口の両端は嗤いに持ち上がっていたが、眼は鋭い。
潦史は平然とそれを見返して、見据えたままに、小さな動きで小刀を投じた。
早さと、豪雨にかすむ視界、そして意表を突かれた男は、雨にも勢いを殺されず、腹部に深々と突き刺さった小刀を一度だけ凝視し、驚いたことを打ち消すようにして嗤った。
「最後の悪足掻きか、あまりに無力――!」
自ら引き抜いた小刀の刃は、赤い。雨に洗われたそれは、ねじれていた。
男は、目を見開いたまま足下に横たわる識己を見て、呻いた。その胸を貫いていたはずの小刀が、見当たらない。
潦史は軽く俯いて、空間をつくった。止めていた呼吸を、再開する。
「あんたは、念を入れて毒でも塗ってるんだろうな。憑依体の殺害は、体に傷を付けない薬殺が一般的だから、まあ、間違ってはないよ。刺してるんだから意味がないけど。大量の死を捧げながら精進潔斎をさせるなんて矛盾をするあんたは、そのことに何の疑問も持たなかったんだろうな」
「なんと――」
「生きるか死ぬかは、あんたの過去次第だな」
返事はなく、水飛沫を上げ、男の体が崩れ落ちる。潦史は、識己の体に被さりそうになったところに足を割り込ませ、絶命の確認もしていない男の体を容赦なく跳ね上げた。
起こることを知っていたのか、それとも何も知らないまま絶命したのか、血の気のない識己の顔は、穏やかだった。
「識己。この男を殺したことでも、お前を助けようとしなかったことでも、ヒラクにこのことを言わなかったことでも。恨むなら俺にしとけ。――俺は、謝らないから」
雨が、降り続ける。
潦史は束の間、ただ、そこに立っていた。
「で」
俯いたまま、特に声を張り上げるのでもなく、相変わらず呟くような口調で、潦史は再び口を開いた。
「いつまでそうやって見物してるつもりだよ、アンタは」
「見物…しているつもりは、なかったのだがな」
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