九章
ゆっくりと、識己だったものが、仰向けのまま手をかざす。それは、いくらか不思議そうに、自分の――しかし、所詮は借り物の掌を見ていた。
いささかぎこちなく、シキは潦史を見た。
「何故、謝らない。死んでいる者に声をかける?」
「何故、アンタは締歌を滅ぼした?」
強すぎる雨が降り続ける中、二人は、何の感情もないかのようにただ静かに、互いを見つめていた。
「答えるなら、答えるよ」
「いいだろう」
「雨が、邪魔だな」
潦史が呟いて、短く水竜の名を呼んで雨を止ませる。一気にではなく徐々に、雨量は減っていった。短い時間を待って雨が上がると、潦史はようやく顔を上げた。長い髪が、水を含んで随分と重くなっている。
一拍、溜息に似た間をおいて口を開く。
「俺は、もし時間を戻せても、同じことをやる。きっと何度だって、識己を見殺しにしてアンタに会う。だから、識己には悪いことをしたと思うけど、謝らない。今こうやって立って、アンタと話すためにも、謝れない。それでも、届かないって判っててあんなことを言うのは、ただの自己満足だ。それだけのことだよ」
潦史が、突き放したように淡々と言葉を紡ぐ。その間も、シキは、泥だらけの地面に仰向けに転がっていた。壊れて捨てられた、玩具のようだった。
「アンタは?」
「ただ――面倒だった。先の見える世界が。知っていることしか起こらない明日が。それなのに、明日は決まっていないと信じる者たちや、知ることで変えられると思っている者たちが。何も、変えられはしないのに」
「アンタを、馬鹿だって言った人がいるぜ。自分が悲しんでいることにも気付かなくて、泣き方を知らなかったんだって」
「ああ…そうかも知れないな。知らなかった。だから、要らなかった」
「それが馬鹿だって言うんだ。アンタは、知ってる。知ってたんだ。それなのに、知らない振りをして、すり替えて切り捨てた。馬鹿以外の何でもねーよ」
「まるで、私以上に私のことを知っているような口振りだ」
「まるで、他人事みたいな口振りだ」
面白くもなさそうに言い切って、潦史はシキに手を差し出した。かざしていた手も今は下ろされていて、シキは、戸惑ったように不思議そうに、潦史を見つめた。
「いい加減、起きろ。話しにくい」
少し屈んで、手を掴んで引き上げる。本人も言われて起きようとしたのか、泥水を滴らせながら、識己の体はあっさりと起き上がった。それでも、立つつもりはないのかそこまで思い及ばないのか、逆に潦史の手を掴んだまま、シキは、じっと潦史の顔を見上げた。
「何か?」
「知っている人に、似ている気がした」
「似てるなんて言葉、その人にも俺にも失礼だ」
手を振り払って、潦史は冷たく言い放った。ついでに、貼り付いたままで鬱陶しい前髪を掻き上げる。
シキは、同じく貼り付いている髪をそのままにして、少し、笑ったようだった。
そうして口を開きかけたとき、強い声が、潦史の名を呼んだ。シキとの会話に集中していた潦史は、見慣れた青年が盛大に泥や泥水を跳ね上げて駆けてくる姿に、呆然とした。
「ヒラク……」
「二人とも無事だったんだな」
「あ…」
心底嬉しそうな言葉に、一瞬、全てを忘れる。この人は誰だろうと、地に座っているのは、倒れているのは、誰だろうと――一瞬、そんなことを考えた。
二人とも。
ヒラクの言う「もう一人」は無事ではない。この世界には、もういない。
みずぼらしい濡れ鼠になりながらも、嬉しそうに笑うヒラクに、潦史は酷く焦っている自分に気付いた。その一方では、変わらず冷静で、落ち着いている。
平静な声を、選ぼうとする。
「ヒラク」
「何だ?」
「識己は、死んだ」
「――――え?」
何言うんだよ。嘘ついたって判るよ。
そう言い出しそうなヒラクの顔を眺めながら、潦史は、上半身だけ起こしているシキを、ちらりと見た。潦史を見て、ゆっくりと笑った、気がした。
「ここにいるのは、誓直子だ。識己は、そこの奴に殺されて、そいつは俺が殺した。俺は、そいつが識己を殺すことを知ってたけど、止めようとはしなかった」
「なんで…」
「言い訳をするつもりはない。憎むなら、俺にしとけ」
困ったように笑う潦史を、ヒラクは言葉もなく見つめていた。
その間に、潦史は身を屈め、ヒラクの周りの地面に円を描いて、囲い込む。小さく、適した神の名を呼んで、薄青い壁をつくる。そうして、笑った。
我に返ったヒラクが手を伸ばすが、薄い壁に遮られる。渾身の力を込めて叩いても、びくともしなかった。声さえも届かず、潦史は振り返ろうともしない。
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