九章
識己の身体は、誰にも知られぬよう、人界に埋めた。封印を施し、その上に小さな祠を建てる。この体が力を取り戻し、何も知らない「誰か」として蘇ることがあっても、天界に都合のいいように操らせるつもりはない。
「おい、潦史」
「よう、烈風」
戻った天界で、どうやら待ち伏せていたらしい相手に返して、そのまま前を通り過ぎた。李天塔は、当然のようにその隣に並ぶ。
「止めたのか、将軍呼びは」
「そっちがいいならそうするけど、李将軍?」
「止めてくれ」
軽口に苦いかおで返す李天塔に、潦史は微苦笑した。
「あのときは悪かった、気が立って。新羅天も、挨拶がないって怒ってんじゃねー?」
「いや。あいつも、心配してた」
「そっか」
やっぱりいい奴だ、と呟く。李天塔は、そんな潦史を見遣って、小さく首を振った。
二人は、あまり人の来ない草地に出て、数ヶ月前と同じようにそこに寝転がった。
「人界じゃあ、まだ妖が跋扈してるとよ」
「頑張れ、烈風」
「お前は」
「できるなら、あと百年くらいは降りたくねーなー。うん、兄上様たちに、いなくなるって宣言しちゃったし?」
ぼんやりと呟くように、冗談めかして言う。
「だけどなあ。今一番呼ばれてるのは、お前なんだぞ」
「そりゃあ、俺、今最絶頂の時の人だもん。絶頂が来たら、後は落ちるだけ」
「馬鹿野郎」
「馬鹿じゃなきゃやってらんねーよ」
軽く頭を叩かれて、潦史はわらった。わらうしかない。自分の無力さを知って、そんなことで泣けもしない。
「だがな」
「その話はもう終わり。今更何言ったって変わんねーよ」
潦史が明るい口調で言い切ると、しばらく、二人はぼうっと空を見ていた。あまりに長閑で、眠くなるほどだ。
「なあ、烈風」
ぽつりと、空を見上げたまま、潦史は口を開いた。
「俺が神様だって」
「ああ」
「呆気ないなあ」
「俺のときも、そう思ったさ」
「俺さあ。ちびとか若造とか女みたいとか、言われる度に、十年後を見てろよ、って思ったんだよなあ。変わんないじゃん、十年後」
笑い声だった。
神になれば、身体の成長はない。不老なのだと、言われたところで、成長を楽しみにする者にとっては面白くない。
二人は、揃ってぼんやりと空を見上げていた。
「人殺して神サマになるなんて、冗談じゃねーよなー」
「なあ、潦史。妖処理はまだ続いてるんだ。どうしても、やる気はないか?」
「新香酒飲みたい。下降りるなら、どこかでくすねてきてくれよ」
張り詰めるように真剣な声に、はぐらかす言葉を返す。どの面下げてと言いたくなる。
「古香酒じゃないのか?」
「ああ。それと、地界への降り方教えてくれよ。一回、行ってこないと」
「なあ。…一人で、全部背負うな」
「何を? 今俺は、全部捨ててこれまでにないくらい身軽になったばっかだぜ?」
果てしない青空と真昼の白い月を眺めて、潦史はわらった。
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