終章
「史明、ヒラクどこだ!」
声と共に飛び込んできた少年に、史明は目を見張った。どこか見覚えはあるが、はっきりとは思い出せなかった。十歳前後だろうか。
「聞いてるのかよおい、史明! 目ぇ開けたまま寝てんじゃないだろうな」
「…誰だ、お前」
「あーもう、忘れるの早すぎ。彩だよ、星神太角の」
「あ!」
絶句して、もう一度まじまじと顔を見る。確かにそれは、六年前に、ほんの何ヶ月かだけだが、一緒に旅をした子供だった。
「…でかくなったなあ」
「天然神は成長するからな。って、そうじゃなくて。ヒラクだよ。俺も知ったばっかなんだけど、あいつは知ってなきゃ。あのときの真相なんだ。なあ史明、知ってるだろ?」
「ヒラクなら、あちこち渡り歩いてる。妖退治をやってるんだとよ。会いたいなら、潦史の妹のところに行った方が早いぜ。うちよりよっぽど、よく寄ってるみたいだからな」
「ありがと」
慌ただしく身を翻した彩の襟首を、史明は素早く掴んだ。不自然に笑い掛けて、奥の方に声をかける。
「おい、玉鈴、雷竜…どっちでもいい、ちょっと替わってくれ」
潦史が姿を消してから、史明は玉鈴や昔の仲間の数人と宿屋を始めた。あの後に場所を移した首都からは離れているが、つぶれない程度には収入があった。今では、史明も片手間の畑仕事に馴染んでいた。
呼びかけに応じて、五十ほどの白髪混じりの男が顔をのぞかせた。受付を任せて、彩を引っ張って自分の部屋に入る。質素だが落ち着いた雰囲気は、この五年ほどの間に培われたものだった。
とりあえず彩を寝台の縁に座らせて、その肩を掴む。
「あのときの真相だって? 六年前のことだな? だったら、俺も聞かせてもらおうか」
「で、でも」
「決まりだとか禁忌だとか、知ったこっちゃねえ。俺はな、あのときに張り倒してでもあいつの知ってることを吐き出させなかったことを、今でも後悔してんだよ。聞いてりゃ、今の平穏な暮らしはなかっただろう。でもな、こんな後悔もなかったはずなんだ」
睨み付けるように見据え、史明は、六年前から抱えていた後悔の一部を吐き出した。
人々をより遠くへ誘導する途中で雨が降り出し、まちを覆う火が消え始めたことに気付いた史明は、急いで引き返した。大分歩いてきていたので戻るのに時間がかかったが、燃えた後のまちを彷徨うと、中央辺りで立ち尽くすヒラクと再会した。
そうして、また会えるなどと甘く見ていた己を呪った。
それから六年近くが経っても、そのときのことは、まざまざと思い出せた。ヒラクの濡れた頬も、見開かれた瞳も、己の自己嫌悪も全て。
「…わかったよ」
一度唾を飲み込んで、彩は気が進まないながらも話し始めた。そんな様子は、六年前よりも大人びて見えた。
彩がそのことを知ったのは、数日前のことだった。絽幣からある記録を借りたところ、そこに、潦史の書いた報告書が混じっていたのだ。それを読んですぐに、彩は南老星を説得して――というよりも頼み込んで、ほぼ全てを聞き出した。
「俺が天界に帰ったとき、覚えてるか? あれ、報告のためって言ってただろ。出現の増えた妙な妖がどうしたこうしたとかっての。報告が足りなかったから行って来るって、戻って。で、戻ったときには理由つけて青蘭に行こうとしたんだろ? 覚えてるか?」
「ああ」
「あのときには、もう決まってたんだよ。誓――あの方を、肉体を伴った復活をさせて、それを殺そうって。その為の多少の犠牲は、目をつぶるって決定を下してたんだ」
「何…?」
「妖が出没し出したのは、紅刃が色々動き回って贄捧げたりしてたのと時間が経ったのとで、封印に綻びができてきてて。その上、長い間押し込められてたあの方の力が変質してて、それに感応して、生まれてたんだ。そうして紅刃は、とうとう、どこからかあの方の血を引いた奴を連れてきて、それをあの方を降ろす器にしようとしてた」
「それは…ヒラク、なのか?」
六年前の記憶の数々を引き起こしながら、史明は、重い口を開いた。対して彩は、話しているうちに興奮でもしたのか、焦るように、どんどん早口になっていった。
「そう、ヒラクと識己。始め紅刃は、ヒラクを器にしようとしてたらしい。識己は、その助手に。でもそれは、育ててた信者が識己に殺されて、ヒラクが逃げて一旦放棄された。識己を手懐けて、代わりの器にすることで良しとしようとしたんだ。実際、そうなった。何度かヒラクに手出しはしたけど、それはあんたや、ヒラク自身に阻止された」
話が理解できているか、確かめるように彩は史明を見つめた。軽く肯くと、肯き返す。そこには、もう気後れは見られなかった。
「紅刃の奴らは気付いてなかったみたいだけど、本当は、識己の方が依纏には向いてたんだ。より自由に、体や能力を使いこなせた。だから天界では、ヒラクをわざと紅刃に返して、こっちに有利にしようって案が通りかけてた。でも潦史が、今後の天界への絶対服従を条件に、全部を自己裁量で終わらせるよう取り付けたんだ。そうして…」
「ちょっと待てよ、それで取引が成り立つものなのか?」
「潦史は、凄い力を持ってる。あのとき、異常な妖の発生原因を調べる役目を受けたときに、天界のあらゆる神に対して術を使える権限を持った。でも、並の奴だといくら権限があっても、使いこなせるはずがないんだ。それを潦史は、簡単にやってのけた。それで判ったんだよ。潦史は、第二のあの方になり得るって。だから、好都合だった。そうしてあの日に、紅刃は多くの命で封印を破った。潦史が、それを殺して、終わった」
最後は呟くように言って、彩は口を閉じた。
絽幣が、記録を混同させる失態をするとは考えにくかった。だからあれは、自分に教えてくれようとしたのだと、彩は受け取った。今の潦史は、淡々と業務をこなし、以前のように軽口を叩いたり相手をしてくれはするものの、堰き止められ、澱んだ川を思わせた。
そしてこのことを知った彩は、潦史に直接詰め寄った。取引までしてヒラクを助けたのに何故会いに行かないのかと、何故妹にも、会いに行かなくなってしまったのかと。
しかし潦史は、ただ微笑するだけで。
だから彩は、例によって虎番の目を盗んで飛び出してきたのだった。もっとも今回、虎番はわざと見逃してくれたような気がした。案外、絽弊とつるんでいたのかも知れない。
「潦史は、枷を受け入れてまで、ヒラクを助けたんだ。人界だって救った。でも――識己を犠牲にしたってことを、赦そうとはしない」
自分がどれほど説得しようとしても、潦史には届かない気がしていた。
史明は何度か、話を繰り返させたり、質問をしたりして理解に至った。溜息を、一つ。
「だから、呼んでも応えなかったのか」
目を逸らす彩の頭を、史明は軽く撫でた。お前が責任を感じることじゃない、と言う。
「あいつは、完全無欠じゃなくても、やっぱり英雄だろう。例え俺たちにほとんどを黙ってて、それが裏切りだとしても」
食事時が近づいて、食事だけを食べに来る者もやってきて店は騒がしくなった。史明は、屈んでいて痛くなった腰を伸ばした。
「これでお相子だって、あいつに伝えといてくれよ。文句があるなら言いに来いって。それと、子供に名を付けさせてやるから、近いうちに顔を見せに来いって言っといてくれ」
こんなことで済みはしないだろうとは思ったが、願いも込めて、史明はそういった。彩の顔が、ぱっと明るくなる。
「子供、生まれるの? おめでとう」
「ああ、ありがとな。お前も、生まれたら会いに来てやってくれ」
呼ばれる声に返事をして、彩を促して部屋を出る史明は、落ち着いた眼をしていた。
「ヒラクにも、また来いって言ってくれるか?」
「うん。それじゃあ、また来るよ、史明」
彩はそう言ってにっこりと笑うと、賑やかになっていく宿を後にした。史明は一瞬、ヒラクにその事実を告げない方がいいと、止めようかとも思ったが止めた。きっと、知っておいた方がいい。
うっすらと暮れた空には、輝きを深めていく月が浮かぶ。気の早い星が顔をのぞかせ、少年は、告げ口はなしだぜ、と呟いて、軽い体を空に飛ばした。
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