九章
潦史は、誓直子に向き直ってから皮肉げに笑った。いっそ、楽しそうなほどだ。
「本題に入るな。殺されるのと死ぬの、どっちがいい?」
「それはまた、物騒な選択だな」
「それ以外は用意してねーんだ。ほしけりゃ、俺と、あと天界全部を叩き潰すんだな」
「しかし、私は既に死んだはずだろう?」
「それをまた、死なせるんだ。その為の体だからな。体に容れて、それごと壊す。そうすることで、アンタを形作ってるものはなくなる」
「どういうことだ?」
「記憶喪失になるっていえば解りやすいかな。ちょっと違うか。人格を消すっていうのか…力だけの存在にする。意志も感情も何もない状態だ。空白になったら、押し込めとくのはもっと簡単になる。少なくとも、今のアンタよりはな」
例えば、昔のヒラクのように。そっと、潦史は声に出さずに呟いた。
「頃合いを見計らって、都合のいいように人格を形成することもできるかも知れない。まあ、そんなとこかな」
「それは、お前が決めたことか?」
「さあな。どうする?」
「黙って殺されるのは、趣味じゃない」
「そうか」
顔を見合わせて笑う。誓直子は再び差し出された手を掴んで、今度は立ち上がった。
潦史が飛嵐を抜くと、誓直子も、落ちている大剣を拾い上げる。だが両方とも、その切っ先は下げられていた。
「忘れてた。伝えてくれって、頼まれてたんだ。アンタの妻から」
「――妻」
「ああ。彼女は、地界にいる。アンタの子供は、生きてたって。天寿を全うしたってさ」
「そうか。それは良かった。私に育てられるよりもずっと、幸せに暮らせただろうな」
穏やかな口調に、潦史は微苦笑していた。
その子供は子孫を残し、識己もヒラクもその子孫だとは、告げなかった。代わりに、違うことを口にする。
「俺、アンタはもっと無口な奴だと思ってた」
「そう間違ってはいない。話をする者は少なかったからな。お前が女だったら、どんな手を使っても私のものにしていた」
「男に生まれて、心底良かったぜ」
冗談を言う友人同士のように笑い合って、二人は、ほぼ同時に刀を振り上げた。
目の前で打ち合った剣の一方が、呆気なく折れる。
誓直子は、飛んだ剣先を見遣って、折れた刀を投げ捨てた。残念そうに首を振る。
「勿体ないことをした」
「今のはアンタが悪い。あんなに真っ向から打ち合わせれば、どんな名剣だって折れる」
構えを解かないまま、潦史が言う。飛嵐は、刃こぼれ一つしていない。潦史の技量と、そもそもの質のおかげだろう。
「剣術は好きではないんだ」
誓直子は肩をすくめて、おもむろに左手を振り下ろした。その動きに従って、潦史が立っていた場所に雷が落ちる。それを横飛びに避けて、落雷跡に目をやる。感心するような、呆れるような表情だった。
「おっかねー。呪文も無しかよ」
「前なら、考えるだけでもできたのだがな。休んでいる間に鈍ったか」
「いいや。今頃、天界の奴らが泡吹いてるぜ。全員が力一杯、アンタには応じないように制御してるはずなんだからな」
おかげで俺は限られた術式だけなんだぜと言って、飛嵐を構えたまま、肩をすくめる。
誓直子が、眼を細めて笑った。
「わざわざ弱みを知らせる意図は?」
「俺は元から、天界の力は借りないつもりだったから。飛嵐は別だけど。だけど――そうだな。どうせなら報酬代わりに一つ、約束してくれねーか」
「何だ」
「妖を呼ぶのは、止めてくれ。それでなくても、紅刃が色々と画策したせいで、あちこちで新種の妖が出てきてたんだ。ここの外には、まちから逃げた人が大勢いる。だから、止めといてくれ」
誓直子に反応して生まれた妖だけでなく、既に、これだけの騒動を遠巻きに観察している妖が多いだろう。そこに、呼びかけられたらとんでもないことになる。
潦史は、ゆっくりと立ち位置を変えながら、そう告げた。ついでに、紅刃という単語に訝しげに眉をひそめた誓直子に、誓直子を崇め奉って復活を目論んだ集団だと教える。
「あ、そこで倒れてるのが今の親玉な。ああ、だった、か」
不謹慎なほどに軽い口調。シキは、微笑した。
「それほどに手の内を明かしてしまっては、取引にはならないのではないか?」
「だから、どうせならって言っただろ。厭なら、それでも構わない」
「何を企んでいる」
「そりゃあ、アンタを殺すことだろ」
笑って、潦史は切っ先を誓直子の胸に向けた。一度刃に貫かれて鼓動を止めた胸に狙いを定めて、泥土の地面を蹴る。
誓直子が手を動かすと、火が生じた。炎を投げかけられて、潦史は、一旦体を沈めて避けた。そのまま、下から切り上げる。飛嵐の前に、誓直子の掌が広げられた。
鈍い音がして、切っ先が掌の前で止められる。
「結界の応用か。全身に張った方が早くねー?」
「結界は苦手だ」
「俺と逆だな」
剣を見えない盾に押しつけたまま、足払いをかける。呆気なく、識己の体は濡れた地面に倒れた。潦史が胸に切っ先をあてても、今度は抵抗はなかった。
「早すぎないか、諦めるの。それとも、何か狙ってる?」
「これが、お前以外なら抵抗しただろうな。命を呉れてやる気にはならない。天界だって、潰した。だけど、あいつの言葉も聞けた。最後に会ったのが、お前なら構わない」
飛嵐を押しつけたまま、潦史はわずかに顔を歪めた。
「…あんたが、厭な奴なら良かったのに」
「やはり、似たようなことを言われたよ。ナツ――夏目。夏目だ。こわい女だった。よく怒られた。死んでまで、怒るんだな」
思い出すような瞳に笑い掛けられて、潦史は、飛嵐を握る手を、緩めないようにするのに必死になった。彼が、彼女と再会する未来はないだろう。彼は、何もかもを喪っても、天界に繋ぎ止められる。
脅威なのは確かなのだ。本人がどれだけ大人しくしようとしたとしても、どんなことがきっかけで暴発するかわからない。幾度も封印を施したところで、それは変わらない。
意識がある限り――それは、変わらない。
「あのときに、お前がいてくれたら良かった。夏目と、お前がいてくれたら。こうはならなかったかも知れないな」
「――あんたが、生まれてくるのが早すぎたんだ。もっと、もっと後に生まれてきたなら、俺は、もう少し強くなって、こんなことをせずにいられたかも知れない」
「どうだろう」
「…言っても、仕方のないことだな」
「ああ。――ありがとう」
笑って目をつぶった青年に、飛蘭を突き立てた。
もう一度、絶命したのが判った。飛嵐を鞘に収めて、魂とでも言うべきものを失った体を、肩に担ぎ上げる。重さに、体が傾いだ。
もうその体から血が流れることはないが、潦史は、自分が、血塗れていることを知っていた。
「――ああ」
呟いて、苦労して後ろを向く。円陣の中のヒラクと、青い壁を隔てて目が合った。
「解」
「ラオっ!」
結界の中に、音はなかったはずだった。会話も何も、聞こえていなかっただろう。だからヒラクに見えたのは、潦史が識己を殺した光景だったはずだ。それなのに心配そうに駆け寄ってきたヒラクを、潦史はただ、眺めていた。
まぶしいなあと、思う。
目を射るほどには強くない、優しい光。それは、この手を血に濡らしても尚、潦史を照らし出してくれる。だが潦史は、そこに手が届くことはない。神仙が、月には暮らせないように。
「何がどうなって…」
「ヒラク。史明と麗春に、幸せになってくれって伝えてくれよ。お前も、頼むから――幸せになってくれな」
「何言って」
「頼むよ」
どうにか笑って、次の瞬間には声を張り上げる。その視線は既にヒラクには向かず、空を見上げていた。
「結花! 戻してくれ!」
――そうして、人界に降りて一年を待たずに、潦史は天界に戻った。
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