七章

 炎が揺れる。酒を注いでいた女の手を、男が捕らえた。

 普通であれば、そこから閨事へと移る。しかしこのとき、女は含み笑いを漏らした。訝しげに、男の動きが止まった。

「何を笑っている」

 応えず、女は灯りを引き寄せた。しかし男は、ますますきょとんとするばかり。たまらず、女は吹き出した。

「仮にも、キョウダイだろ? 誘いはしつこいのに顔も覚えてないなんて、酷い話だ」

 呆れたような蔑むような少年の声に、 [ ユイ ] の国王は青ざめた。

「ま…まさか…!」

「まさかなんだよ、兄上様。それとも、陛下と呼ぶべきか?」

 国王は、無我夢中で逃げようとした。だが、思うように体が動かない。それならそれで、せめて大声でも上げればいいようなものだが、一瞬で喉も干上がってしまっていた。

 潦史 [ ラオシ ] は、かんざしや玉で艶やかに結い上げられた髪を無造作に解くと、髪飾りを兄に投げ渡した。手も伸ばさなかったようだが、そんなことは気に留めない。

「それはあんたのもんだ。今着てる、これも。俺のじゃねーし、ほしいとも思わねー。何をとち狂って怯えてるのかしらねーけど、ここはあんたの国だ。あんたが好きなようにやって、責任も全部あんたが取るしかねーんだよ」

 今や喰い入るように、一国の主は潦史を見つめていた。怯えは影を潜めている。

 そんな兄に、潦史は凄味のある風ににやりと笑い掛けた。

「あんたから仕掛けてこねー限り、俺は何もしない。例え、この国が滅びることになってもな」

 炎を受けて、潦史の瞳が猫のようにきらりと光った。

「俺が守りたいのは、この手に抱えられるものだけだ。それだけで精一杯なんだ。馬鹿でかい国なんていらねーよ。だからあんたは、どっしり構えてろ。女色 [ にょしょく ] に溺れるなんて、まだ早ェ」

「…ふん。不敬罪で罰するところだが、今日だけは見逃してやる。出て行け」

「二度と会いたくねーから、二度と血迷うなよ」

 立ち上がり、部屋を後にする。回廊から空を見上げると、ぽっかりと月が浮かんでいた。

 臆病だが打算的な人だ。これでしばらくは、浮わつくこともないだろう。

 あの兄たちが母を殺したことを、潦史は知っていた。潦史が母の体内にいた頃に、これ以上父の寵愛が向かないようにと、毒を盛ったのだ。その為に母は潦史を早産し、それが元で亡くなった。そのことを、赦す日は生涯来ないだろうと思う。

 しかし、この国が彼らのものであり、もしも [] れてやると言われたところで、ほしくないのも事実だった。それを告げるだけで落ち着きが戻るのなら、そのくらいのことはしたいと思う。彼らのためでなく、この国で生きる者たちのために。あるいは、この国を愛していた父のために。

 闇に、そっと溜息をつく。 

「誰だ」

「どこへ向いて言っている」

「あなたではありません。そこの柱の裏にいる奴だ。出て来いよ」

 後宮と本宮をつなぐ回廊を越えたばかりのところで、待ち構えていた平涼 [ ヘイリョウ ] には構わず、逆方向の柱を睨み付けた。殺気はないが、術式を使っている気配がする。

 術式を特定できないもどかしさと、会いたくもない相手に立て続けに会った余韻で、多少苛立っていた。自然、声が厳しくなる。

「おい」

「も、申し訳ありません」

 震える声と平伏する少年に、潦史は思わず平涼を見てしまい、舌打ちをした。一時とはいえ、判断をあてにしてしまった自分が腹立たしい。

 小姓のようだが、術の気配はまだ残っている。しかし怯えているのも本当のようで、これで何かを企んでいるのであれば、大した役者だ。

「何をしている。夜歩きは禁じたはずだ」

 姿を現した少年に、平涼の方が厳しさを帯びた。夜に勤める者もいるのだが、今日は、潦史が出入りをするため、ごく一部の平涼直属の者以外は建物を出ないように禁じていたのだ。

 申し訳ありません、とひたすらに繰り返す少年を、平涼が見下ろしている。潦史はそれを傍から見ながら、あ、と小さく呟いた。呟いてから、迂闊にも平涼の気を引いてしまったことに気付いて頭を掻く。

 予想通りに、平涼は厳しい顔を潦史に向けた。

「何だ?」

「あー…少し、この少年と話をしても良いでしょうか?」

「何故」

「まず一つには、俺がこんな厄介なところに来てあなたに見つかることになったそもそもが、最近出るという幽鬼のことを調べに来たからです。ですから、そのことを訊きたいと思います。目にしているかも知れませんから。もう一つには、ただの興味です」

「…何?」

「普通に生まれて暮らしていたならば、どうだったかと。同じくらいの歳でしょう」

 決して嘘はつかずに、潦史はさらりと言ってのけた。

 平涼は、苦いかおをした。しかし、悩む風でもある。

「幽鬼のことを訊いてどうする」

「天界から、どうにかしろと言われているもので」

 やはり、過ぎるほどに簡潔にまとめて、言い放つ。

 既に、木々や下働きの者から、幽鬼が宮中においても問題視されていることを聞いている。勝手に解決してくれるとあれば、多少の無理は通すだろうとの読みがあった。

「天界だと?」

「はい。そうだ、言い忘れたので大兄に伝えておいてもらえませんか」

 言って、潦史は平伏して震えている少年をちらりと見遣った。少しだけ考えて、平涼の耳元に囁きかける。

「しばらくしたら、俺はいなくなる。嬉しいだろ?」

 顔をしかめた平涼に一瞥を向けて、すぐに視線を逸らす。

「俺が濡れ衣を着せられた、妖の増えている一件。多分、そう遠くないうちに何とかなると思いますよ。庭を借ります」

 潦史は、平涼の反応を待たずに少年の腕を掴んで、夜闇の庭へと降りていった。平涼は、大声を出すことは躊躇われ、そしてそれ以上に潦史の言葉に気を取られ、二人を黙って見送った。 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送