七章

 光柳 [ コウリュウ ] が、屋敷に入るときに武器を預けていったのが幸いした。

 人とは思えないような怪力はわずかにヒラクに勝り、力を逸らして麗春 [ レイシュン ] から遠ざけるのが精一杯だった。しかし、動きそのものはヒラクに [] がある。第二打はどうにか避けて、逆に足払いをかけた。

 続く鳩尾 [ みぞおち ] への一打で、光柳の体は、意外にもあっさりと沈んだ。

 そうしてヒラクが [ こうべ ] を巡らせると、床に座り込んだ麗春と目が合った。怯えているように、見えた。

「大丈夫…か?」

「…ええ。私は」

 意志に反して震える膝を叱りつけて、少女は立ち上がった。きっちりと整えられていた髪が [ ほつ ] れているが、額にかかる分をはね除けるに留まった。

 思い詰めたような真剣な表情に、ヒラクは戸惑った。支えてやれればいいのだが、拒絶されたら? 平然と振る舞える自信が、ヒラクにはなかった。

「ヒラクさまは。大丈夫ですか? 光柳さまも…」

 床に倒れている光柳を見る。糸の切れた操り人形、という言葉が思い浮かぶ。

「怪我をされていますか?」

「いや…俺は。こいつも、多分…手加減は、したから…」

「そうですか…。どうぞ、お座りになってください。医師を呼びます」

 ひどい怪我を負ったのであれば大声を上げてでも呼んでこさせるところだが、そうでなければ事は慎重に運ぶべきだった。 [ やしき ] 内には信用できる者ばかりを置いているつもりだが、出入りの者がいるときもある。下手をすれば、光柳の名に傷を付けかねない。

 急激な光柳の様子から、麗春はこの唐突な襲撃が光柳の意志によるものではないと考えていた。そうであれば、光柳も守るべき被害者なのだ。

 戸口に立った麗春は、遠ざけていた小間使いを呼ぼうと息を吸ったところで、眩暈 [ めまい ] がしてよろけた。倒れる、と思った体を、ヒラクが横から支える。咄嗟の行動だった。

「あ…。ありがとうございます」

 弱々しい笑みに、ヒラクは思わず目を逸らした。

 麗春はこれといって潦史に似た容姿ではないが、苦しいときに笑おうとするのは一緒だと、やや呆れ気味に思った。何も、そんなところで似なくてもいいだろうに。

「あんたの方が具合が悪そうだ。大したことじゃないんだから、医者なんて呼ばなくてもいい」

「駄目。大したことがないように思えても、実は大したことだったというのは、良くあるの。…ありがとうございます、もう大丈夫です」

「大丈夫じゃない。それならそれで、俺が呼ぶから。あんたは座ってろ」

「私がここの主人だもの。お客様にそんな手間をかけさせるわけにはいかないわ」

「無理するな」

「無理じゃ、ないわ…」

  [ かたく ] なな麗春の態度に、ヒラクは困惑していた。今は一刻を争うようなときではない。何か危機にさらされているわけでもなく、ここは安全な場所のはずだった。無理をする必要はないはずなのに、少女は青ざめた顔で必死になって立っている。

 ヒラクが戸惑っている間に、麗春は支えているヒラクの腕も逃れて廊下へ出ようとした。そのとき、離れるように押した手が、ヒラクの光柳と組み合って痛めた部分に触れた。不意打ちの痛みに、思わず声が洩れる。

「ご、ごめんなさい」

 泣きそうになっている麗春に、ヒラクの方が慌てた。そして同時に、何かが腑に落ちた。この子は、懼れているのだ。――何を?

 ヒラクは、少女を有無を言わせずに抱き上げて、長椅子に座らせた。膝をついて、目線を合わせる。

「なあ。何を怖がってる?」

 びくりと肩を震わせた麗春から、ヒラクは目を逸らそうとはしなかった。

「――俺か?」

 思いがけない言葉に目を見開いた麗春に、ヒラクは、そっと詰めていた息を吐いた。

 もし肯定があれば、ここにはいられないと思っていた。潦史 [ ラオシ ] には悪いが、頼まれていた宮中の話も聞かずに、戻るつもりだった。逃げ出すだろうと思った。

 そうでなければ、聞くことでいくらかは気を軽くさせられるだろうか。

「言いたくないなら…」

「いいえ…。それに、あなたをおそれる理由がないわ」

「俺は、人じゃない」

「知っています。でも、お兄さんはあなたを信頼しているし、私だっていい方だと思うもの。人でないからといって、一律におそれる必要があるかしら」

 穏やかにそう言った後で、麗春は付け加えた。

 ――少なくとも、私のことを気遣ってくれているのに、怖いなんて思えないわ。

 ヒラクが見ると、少女はまだ十分には血の気の戻らない顔に、微笑を浮かべた。ぎこちなくはあるが、それは、嘘をついているからではないと判る。まだ衝撃から回復していないのだろう。

 少しして、その目が伏せられる。

「…怖かったのは、あなたではないの。…母が、大したことがないと思っていた怪我がもとでなくなったの。何ともないと、私たちも本人も思っていたわ。それなのに…。私自身、ただの風邪と思っていたら流行 [ はやり ] 病で、命を落としかけたりもしたの。…だから、怖いの」

 人が呆気なく失われ、その後で何故手を尽くさなかったのかと、悔やむのが厭なのだと、麗春は言った。

「――医者を、呼べばいいんだな?」

 ヒラクは、立ち上がって麗春の頭を軽く撫でると、返事も待たずに戸口へ向かった。

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