七章
「おい、何のつもりだ?」
大通りから道を一本入っただけで、人気のない薄暗い路地に出る。そこで笑顔で手を振る女に、史明は険を含んだ視線を投げかけた。ついでに、袂に押しつけられた林檎を投げつける。
実際にはそう腹を立てているわけでもないのだが、甘い顔をすれば付け入られるというのは、骨身に浸みて離れない理だった。
女は、しかし怯む様子もなく、一層にっこりと微笑んだ。
「囮役ご苦労様。ありがとう、助かったわ」
「そんなことは訊いてない」
「そう? でも良かったわ、あなたが強くて。これで頼み事ができる」
頼み事。少し、興味を惹かれた。
女は、男のような成りをしているが、そこそこに美人だ。身分がどうであれ、この容姿ならばよほどの事情がなければ婚姻を終えているような年齢のはずだ。
それが、何故男の格好をしてあんな大男を敵に回していたのか。興味も湧こうというものだ。
しかし今は、女一人に構っているような状況でもない。すぐに済むならともかく、時間がかかるとすれば問題外だ。それなら、下手に期待を持たせない方がいいだろう。ここまで引っ張っておいて、すぐに片のつく話とも思えない。
「悪いが、そんな暇はないな。他をあたってくれ」
「あらそう。あんたも腰抜けなのね」
「何とでも言えばいい」
挑発に肩をすくめて、史明は、女の横を抜けて路地の奥へと足を進めた。
女は、黙って睨み付けていたかと思うと、後ろから史明の腕を掴んだ。咄嗟に手を払おうとして、掴んだ腕が震えていると気付いた。思わず振り向くと、必死な瞳に見返される。
「お願い。何だって、するから」
「――じゃあ、俺のものになれと言ったら?」
泣きそうな瞳を、史明は努めて冷たく見た。そこに覚悟が浮かびかけるのを目にして、冷たく聞こえるだろう声を押し出す。
「俺が人を殺せと言ったら、従うのか? 全く知らない奴を殺して、それで平気か? 官吏か相手か相手の身内か俺に、殺されても構わないか? それでも、願いが叶うとは限らねえ。それでも?」
「――ええ」
長くかかってから、出たのは掠れた声だった。
そうすると史明は、ついさっきまで身に纏っていた冷酷な空気をあっさりとなげうって、空いている方の手で自分の頭を掻きむしった。低く唸り声を漏らす。
女が、涙を溜めた目で、驚いたようにそれを見遣った。応じて、温かみのある濃い茶の瞳が見返す。
「話、聞いてやるよ。協力するなんて確約はできねえし、無理なら断る。それでいいか?」
「え――うん、あ、はい」
「じゃあ、場所移すぞ。酒が飲めるところは知ってるか?」
「ええ、こっち。…あの、ありがとう」
未だ戸惑っているらしい女に、史明は苦笑する。どうにも、幼い感じのする女だった。
「あのな。簡単に人を信用するもんじゃねえぞ」
困惑したかおで、女が史明を見上げる。表情だけで、ありありと「何を言っているの?」と訊いている。
こうしていると、先程までの一段上にあるような態度がはったりだったということがよくわかる。良くも悪くも素直なのだろう。
「俺は、ただでとは言ってない。本当に、言ったような報酬を寄越せと言うかも知れないだろう。悪くすれば、話を聞いて協力をする振りをして、騙すだけかも知れない。わかってるんだろうな?」
実際に、そんな手合いは山といる。史明とて何度も、一人の人生を滅茶苦茶にするほどの仕掛けを打ったことがある。広げられた嘘に騙されて、相手は沈んでいった。特に後悔もしていない。後悔するほどに、そのことを覚えていないのだ。
最低だと、自分で思う。
今はそんなことをするつもりはないが、もしかしたらこの女が話を持ちかけたのは、以前の史明だったかも知れないのだ。
「――それでも。私は、可能性にすがるしかないわ」
茶化すこともなく、決意した瞳に、史明はやや認識を改めた。少なくとも、ただの「お嬢さん」ではない。
「国王にだって向かっていけるような人を捜しているの。その後でなら、私はどうなったって構わない」
「それは、買い被りってもんだろう」
苦い顔をする史明に、女は強張った笑みを向けた。まるで自分自身、信じられないままに信じようとしているかのような笑顔だった。
「決めたの。…選ぶのは、あなただけど。さあ、案内するわ。ついてきて」
暗い路地で身を翻した女を、史明は眩しげに目を細めて見遣った。ここで姿を消すという選択肢も、あるにはあった。
|