七章
宿に戻ると、ヒラクの他に麗春も待っていた。
「麗春。こんなところで何やってるんだ、お前」
「ご挨拶ね。お兄さんこそ、こんな時間まで、白粉の匂いをさせて何をしてたのかしら」
「期待されるようなことは何も」
「今はそれどころじゃないのよ。そちらの方たちは?」
「…話振ったの、お前だろ」
ぼやきながらも、らしくもなく余裕のない麗春の様子に、潦史は心の中でだけ眉をひそめた。他者の前での振る舞いとあれば、尚更だ。妹の傍に立つヒラクに目を向けると、そこにも、いつになく深刻な表情があった。
潦史は、軽く息を吐いて肩をすくめた。
「史明の恋人とその家族」
「おい」
「悪いけど、あんたたちの話は後だ。いつになるか判らないけど、宿代は持つから休んでてくれ。部屋はまだ空いていたはずだ」
「…逃げるとは、考えないの?」
「それならそれでいい。元々は、そのつもりだったんだろ? 後宮の幻術は解くけど、あんたの当初の目的とは変わらないはずだ。こっちも、能力があるからって無理矢理連れて行くつもりなんてねーからな」
玉鈴ギョクリンは潦史を睨むようにして見つめていたが、結局、妹を伴って部屋を後にした。
一方で、思わず口にしていた突っ込みを無視された史明は、麗春との面識がなかった。今朝の潦史とヒラクの会話や先程の麗春の言葉から何者かは判っているが、それだけだ。
ふと気付いて、腰を浮かす。
「俺も、席を外した方がいいな」
「あなたが李史明さまですね? そうでしたら、構いません。そうでしょう、お兄さん?」
「ああ」
兄たちを迎えて立っていた麗春は、断って座り、他の三人にも座るよう促した。そうしてから、一度、深呼吸をして話し始める。
何らかの術式をかけられていた光柳のこと、識己が現われたこと。そして、誓直子を崇める者たち――紅刃の侵入。
「紅刃が?」
「ええ。例の短刀を持っているのを見たわ。私と光柳さまは、ヒラクさまのおかげで逃れられたのだけど…何人か、怪我をしたわ。死者が出なかったのが不思議なくらいよ」
爪が食い込むほどに拳を握りしめた麗春の手に、ヒラクがそっと掌を重ねた。麗春の気が、幾分和らげられる。
こんな状況ながら潦史は、ヒラクが他人を気遣うほどに成長したことを祝うべきなのか、先走って妹に手を出すなと言うべきなのかと、少しだけ迷った。しかし賢明にも、そのどちらも口にはせず、悟らせもしなかった。
「確認するけど、柳氏にかけられた術は判ってないんだな? 本人は正気に戻って、自邸で休んでると。記憶の欠落は?」
「飛びかかる少し前くらいからないみたいで、意識が戻ったときには、レイに謝ってた。何故ああなったのかは、本人にも判らないみたいだった」
「麗春が嫁入りするって、そう吹き込んだのが識己だとは?」
「そう言ったわけじゃないけど…あいつのこと知らないから。でも…そうなんだと思う」
識己の格好は、それなりに立派なものだったと言った。麗春によると、下級貴族並ではあったという。そういった格好で接触したのであれば、話の持って行き方によっては、光柳も本当と判断したかも知れない。
それでなくても、柳氏に麗春のことで正確な判断を要求するのは難しそうだし、と呟く。麗春が、いささか困ったような表情をした。その視線が、わずかにヒラクに向くのを、潦史は見逃さなかった。
「識己に、何か変わったところは?」
「うーん…前より、少しやせたみたいではあったけど…」
――兄さん、いよいよお別れだね。兄さんが悪いんだよ、あいつを選んだから。
そう言った識己は、泣き叫ぶ子供のように見えたと、麗春は言った。本人の自覚の有無は別にして、ヒラクを慕っているのには変わらないのだろう。
「顔色も、少し悪かったわ」
「うん。何日か、食べられなかったときみたいで…ちゃんと食ってるのかな、あいつ。お別れって、何があるんだろう?」
一度、気付かれないように溜息をつくと、潦史は改めて三人を見た。
ヒラクと麗春は、今日のうちに大分打ち解けたのか、随分と仲が良かった。史明の口数が少ないのは、そんな二人に気遣っているのか、あの姉妹のことを考えているのか。
全てを投げ出したい気持ちを、無理矢理押し込める。そんなことをしている閑はない。
「なあ、史明」
「ん?」
「未練がましい気がしないでもないけど。今なら、まだ引き返せる。その気はないか?」
「――何を」
冗談と決めつけようとして失敗したように、史明の顔は微妙に引きつっていた。予想通りではあったが、そんな反応に、少し泣きたくなる。
――やっぱりあんたはいい奴だよ、史明。だから、駄目なんだ。
「麗春、お前もだ」
「私?」
麗春は、意外そうに呟いた。意表を突かれたらしい表情は、随分と幼く見えた。
「どういうことだ。言っただろう、疑うなら殺せと」
「疑うって、何を? 裏切るって? あんたが? 俺でなく?」
自嘲うような潦史の声に、史明は動きを止めた。代わって、麗春が詰め寄る。
「待ってよ…。お兄さん、どういうことなの? 引き返すも何もないでしょう?」
「いいや。巻き込んだのは俺だけど、お前には、これから何があっても手を出さないでいてほしいんだ」
「……それ。お兄さんには、もう会うなということ?」
「これから大変なことが起こる。それに、首を突っ込むなと言いたいんだ。――頼むよ」
呆然とする史明と、呆気にとられているヒラクに苦笑いして、潦史は、繰り返した。
「頼む。史明、麗春。本当に、このあたりが境なんだ」
妙に凪いだ声に、三人は言葉を失った。
ふうと、史明が溜息をついて、思い出したように椅子に座った。
「潦史。お前、言葉が足りねえよ。前からだけど、天界から戻ってきてから、拍車をかけて酷い。全部秘密にされちゃあ、納得のいくもんもいかねえ。ちゃんと話せ」
「ああ――悪い」
既に自身の中では多くの結論がでていた潦史は、自覚に乏しく、驚いたように瞬きを繰り返した。そうして、考えるようにやや斜め上を見遣る。
「これから起こるのは、天界にとって、できるなら無視したいことなんだよ。でもそういうわけにもいかねーからな。なんとかするしかない。そうなると、問題になるのはいかに事実を内輪だけに留められるかだ。俺は元からその輪の中にいるし、ヒラクは出自のせいで、出たくても輪から出られない。でも、二人は辛うじて違う。輪の外にいるんだ。それが、ここまで関わったのは、俺がいたからだ」
こっそりと三人の表情を見ると、史明と麗春はやはり厳しいかおをしていて、ヒラクが、わずかにだが怒ったようなかおをしているのが判った。
「深く関わった輪の外の奴を、天界が放置しておくとも思えない。だから、引き返すなら、ここがぎりぎりなんだ。事が始まったら、もう遅い。ここを離れてくれたら、なおのこといい。そう長くはかからないはずだ」
「潦史。事ってのは何だ?」
「言えない」
「…気遣ってくれるのは嬉しいがな」
「気遣ってるわけじゃない。ただ、俺が厭なだけだ。我儘だよ。二人には、帰る場所がある。そこにいてくれたら、俺は――会いにも行ける。消されたら、それもできねーだろ」
沈黙が降りたが、それは長くは続かなかった。
「お兄さん」
「ん?」
「お兄さんは、私にどっちを選んでほしい?」
「わかってるだろ」
「そう。――朝には、屋敷に戻るわ。本当は、今日中に戻るつもりだったのだけど。お兄さんが遅いから、帰れなくなっちゃった。その後はしばらく、叔父様の任地にでも行って来ようかしら。先に、休ませてもらうわね」
口早に告げると、短い休みの言葉を置いて、麗春は部屋を後にした。
足音が聞こえなくなるのを待って、史明は潦史を見据えた。
「――俺は、変えない。変えるつもりはない」
「…わかった」
「部屋、他に借りる。今晩は、お前らの顔は見たくない」
これも口早に言って、史明も出て行った。戸を閉めたときの勢いで、灯りが揺れた。
「ラオ」
「…ん?」
振り返ると、ヒラクはやはり、怒っているようだった。喧嘩をふっかけられるならともかく、ヒラクにこうやって怒りをぶつけられたことはなかったので、何か妙な気分になった。成長――しているのだろう。多くのことを知って。
もう一年くらい経つんだな、会ってから。そう、心の中で呟く。
「何でも一人で抱えて、馬鹿みたいだ」
「わかってる」
「わかってない。俺たちが、馬鹿みたいだ」
思わず潦史は、まじまじとヒラクを見ていた。平静なのに、怒っているのがわかる。いつの間にこんな怒り方をするようになったのだろうと、潦史は改めて戸惑った。
「俺たちは、守ってほしいわけじゃない。今日、レイに俺はラオと肩を並べてるって言われた。でも全然、そんなことない」
「…そんなこと…」
「寝る」
ぶっきらぼうに言い置いて、ヒラクは寝台の布団を被った。潦史は、ぼんやりとそれを見遣ると、少しして部屋を後にした。
あの姉妹と話をしようと、それだけを考えた。何か考えていなければ、全て投げ捨てて、逃げ出してしまいそうだ。
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