六章
この頃、目に見えて妖が増えている。
それに応じて各地で対妖の自衛団が大なり小なりつくられ、妖専門の狩人も多数現れた。当然のように、祠への祈りも増えた。
そんな中、潦史たちは適当に各地を渡り歩き、時には結花から連絡を受け、そうでなくても噂を頼りに、妖を封じ、あるいは殺していった。そうすると、見返りを求めない流浪の侠士の噂は瞬く間に国内を駆け巡り、潦史はいよいよ刺客からは狙われ、王位にと持ち上げられ、身元を隠すのに躍起になっていった。
潦史に天界への召還がかかったのは、彩と共に人界に戻ってから一月ほどが経った時だった。夜のことで、月はないものの星星は煌めいている。
「なんでだよ。期限まではまだ間があるだろ」
「ほんの少しの間ですから」
「ほんのって言うけどな、こっちにも色々予定ってもんがあるんだよ。今から行くのだって、もともとは天界が知らせてきたやつじゃねーか」
言い募ろうとした結花は、潦史の鋭い目に射抜かれて思わず口を閉じた。女官風のゆるやかな衣装を身にまとい、影のない存在の希薄な女は、元から白い顔を更に青白くした。
しかし潦史は、眼光を緩めることはなかった。
「妖はある程度天界の領分で、今回のは人界には過分だから手を貸すって言ったのは誰だ? それを、こんな状態で放棄しろってのか?」
建前だということは知っている。だが潦史は、その建前に乗ったのだ。
結花は、青ざめたままだが、どうにか言葉を紡ぎ出すことに成功した。
「放棄ではありません。ずっと留まれというのではなく、ただ、方々は貴方の知り得たことを知りたいだけなのです」
「それなら、伝えてるだろ。俺が直接行ったって、お前に伝えてる以上のことなんて言えねーよ」
「ですが、お呼びなのです」
「あのなあ…戻ったところで、村が消えていたら? 生きられるはずの人が死んでいたら? 俺は、この国に責任なんてない。天界も人界もどうなるかなんて知らない。こんな大きなもの、手に負えねーよ。でも、だから。見えてるなら、手の伸ばせる範囲にいるなら、そのまま放っておくなんてしたくない。判ってるだろ、結花」
自分たちを道具として扱う多くの神仙とは違い、天界で育ち、しかしまだ人の潦史は、結花のような者も同格に扱う。そんな親交があるからこそ、気性も知っていた。
だから、冷たく投げかけられる言葉は、結花には思いの外に堪えた。
「既に伝えてるはずだ。見たことのない妖が出現しているのは、締歌だった地域で、そこから移動もしてるけど、最初に出現するのはそこだけ。それと、締歌を滅ぼしたあの人を崇拝して贄を捧げている連中が、何かたくらんでるらしい。妖は、その都度そっちに持って行かせてる。情報をどう活かすかは、そっちの役目だ。どうせ、全部知ってたんだろう? 俺にだって調べられたくらいだ」
そこまで言って、潦史は表情を緩めた。苦笑いにも見える。
「損な役割だな、結花」
「…いえ」
「とにかく、今は行かない。片付いたら行くよ」
これ以上は無理だと悟った結花は、肯いて天界へ戻ろうとした。神仙たちがどう見るかは別だが、ここまで譲歩を得られただけでも十分なものだ。そこへ、潦史が声をかける。結花が姿を消す、一瞬前のことだった。
「八つ当たり、ごめん。いつもありがとうな」
掛け値無しに、これは本心だった。
結花が完全に消え去ると、潦史は溜息をついて振り返り、驚いて飛び退いた。咄嗟に飛嵐に伸ばしてしまった手を下ろす。そこには、絶やさぬように燃やし続けている焚火を背に、小さな人影があった。
背後の炎で影になり、表情は判らない。
「どうした、彩。眠ってなかったのか?」
「今の…」
普段よりも強張った声音。潦史は、顔も同じように強張っているのだろう子供の頭を無造作に掴んで、焚火に近付いた。ヒラクと史明が、布にくるまって眠っている。今は、潦史が火の番だった。
二人からは離れた、しかし焚火に近いところに腰を下ろす。彩にも座るように促した。
「結花がどうかしたか?」
「…なんで、ここに…」
「俺に戻れって言いに来ただけだ。どうかしたか?」
さらりと、潦史は訊いた。
何かがあるのは明らかだったが、彩が否定するのであれば、放っておこうと思っていた。隠し事をされるのは好きではないが、隠したいことの一つや二つはあるだろう。好き嫌いで言うなら、無理に聞き出すのも好きではない。
彩は深刻な面もちで顔を上げた。困ったような、泣きそうなかおだった。
「…俺、どうなるんだろう」
無言で、潦史は先を促す。焚火が、小さく音を立ててはぜた。
「こわかったんだ。あの星から俺が生まれるなんておかしいって、異常だって言われた。凶事に違いない、とか。…だから、こわくなって。そこにあんたが通ったから、ついてきたんだ。でも、勝手に飛び出して…どうなるんだろう」
「…でもお前、虎番と言い合いしてただろ?」
出てはならないなら、あの実直な男が通すはずがない。だが、彩は首を振った。
「俺、しょっちゅう外に飛び出してたから。多分、またそれだと思ったんだと思う」
「そいつはまた…大物だな。あの虎番を根負けさせるなんて」
九割方感心したのだが、彩の反応はない。身を縮めて怯える姿に、歯噛みする。
潦史に言わせれば、生まれるはずのない者だろうが生まれてはならない者だろうが、生まれた以上、他の者と変わらないはずだ。騒ぎ立てたところで、それが悪い方向に加担することはあっても、いい方向に働きかけることはまずない。
冷静になれば、過去の記録からそのくらい読み取れるはずだ。しかし、他の多くの者に言わせれば、その結果が示すことこそが「凶事」らしい。それを引き起こしたのが、周りのせいだとは認めないのだ。
潦史は、小さく唸った。
「…多分、色々ややこしいことにはなると思うけど…とりあえず、勝手に天界出たからってそう大仰なことにはならないはずだ。そんな奴、五万といるからな。そこんところは安心しろ。そのことで説教やちょっとした罰以外に何かあったら、必ず文句言ってやるからな。天界脱走の常習犯と、法典が人格持ったみたいな奴も味方してくれるだろうぜ」
呆気にとられて見つめる彩に、潦史は苦笑した。
「いいか、この世界にお前は一人きりじゃない。案外、一人でも味方がいれば、なんとかやってけるもんだぜ」
堪えきれずに泣く彩を、潦史は、あやすように抱いて背を軽く叩いた。
「凄いぞ、彩。そんな不安抱えてたのに、俺が気付かないくらい平然としてたんだから」
誉めているのかからかっているのか判らない口調で言う。
「それにな、彩。よく考えろ。名をつけてくれたのは誰だ?」
約一月前、地呼らの世間話に聞いて知っている潦史は、だが彩の返事を待った。いくらか不思議そうに、おずおずと顔を上げた彩に、潦史は柔らかく笑い掛ける。
「名付けるのは、そのものの存在や責任の一部を引き受けるのと同じだ。要らないなら、名なんてつけねーよ。天然神は、化身の名があるんだから尚更な」
潦史の言葉に、南老星に「彩」という名をもらった子供は、再び目に涙を溜めた。先程とは、意味が異なる。
そこで潦史が言葉を重ねるよりも先に、二人の視界は一変した。底知れない闇に飲み込まれ、潦史と彩は、焚火の前から姿を消した。後には、寝入るヒラクと史明と焚火、それと一匹の黒蛇が残されていた。
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