六章
「なんだ…?」
闇を抜け、別の薄暗い場所に出て、潦史は訝しげに顔をしかめた。驚いて立ち尽くす彩の肩に手を置いたまま、腰に佩いている神剣に触れる。今のところ殺意や悪意は感じられないが、用心はしておくべきだろう。
目が焚火の光に慣れていたためよくは判らないが、近くに人がいるようでもあった。うろうろと歩いているらしいが、どうにも生気が感じられない。声をかけていいものかどうか、潦史は迷っていた。
声をかけるよりも先に、目が慣れた。
岩の多い平地だった。空にはやはり星があり、月はない。星の並びは、先ほど頭上にあったものとあまり変わらないようだった。
歩き回る人は、十数人に及んだ。ある者は右腕がなく、ある者は腹がえぐれ、ある者は両目がつぶれている。誰もが生気なく、他の者は一切目に映らないかのように、ただ力無く歩き回るだけだった。
やはり目が慣れたのだろう彩が、息を呑んで潦史にしがみつく。潦史も、小さな体に置く手に力を込めた。
「誰か居るのね?」
突然に響いた女の声に、潦史は目を見張った。声のした方を見ると、丈の長い、しかし質素な衣をまとった少女が立っていた。少女と呼ぶべきか、女と呼ぶべきか。潦史よりも、二つ三つほどは年長だろう。肩までの黒髪を簡素に束ね、切れ長のややつり上がった眼が、潦史を真っ直ぐに射抜いた。
そうして、少女は微笑んだ。それだけで、きつい印象がかなり和らぐ。
「迷子?」
あまりに平然とした様子に、潦史は少し戸惑った。思わず、歩き回る人々に目を向ける。少女は、それに気付いて小さく肩をすくめた。
「怒らせてはいけない人を怒らせてしまったのよ、あの人たちは。ひょっとしたら関係のなかった人もいるかも知れないし、自業自得と言うには厳しいけど、私にはどうしようもないことだわ」
「…あんたは何者だ?」
「さあ」
素っ気無く、肩をすくめたらしい少女に、潦史は訝しげに目を向けた。彩も、不思議そうに見上げる。少女が、小石を蹴り上げた。
「自分が何者かなんて知らないわ。名前も忘れてしまったもの。ここでは、呼んでくれる人もいないしね」
淡々と言って、淡く微笑する。不思議と、透き通った笑顔だった。
「それじゃあ、ここで何をしている? ここはどこなんだ?」
「話、長くなりそうね。座ったら?」
少女が腰掛けるのにおあつらえ向きの岩を指し示したのに応じて、潦史と彩はそこに座った。近くを歩く者もいたが、努めて気にしないようにした。少なくとも、敵意はないようだった。それどころか、何の感情も感じられない。
二人と少女は、向かい合う形になった。
風が吹き抜けていったが、春も近い季節だというのに、やけに冷たい風だった。彩が、身震いして潦史の袖を掴む。潦史は、袂から布地を引き出して、彩に被せた。
「寒いの? 私にはもうよく判らないのだけど…大丈夫?」
「それよりも、説明をしてくれ。ここは何で、あんたはここで何をしている」
「私はいるだけよ。多分、随分と長いことね。少なくとも、生まれたばかりの子供が老いて死ぬのに十分な時間は経ったわ」
「食事は?」
「食事?」
聞き慣れない言葉のように繰り返してから、少女は苦笑した。
「忘れていた…。そういえば、何も食べていないわ。胃が痛いけれど、食べなくても何とかなるらしいわね。考えてみれば、死んでいるわけだし。当たり前かもね」
凍り付いたように凝視されて、少女はやはり笑った。
「心配しなくても、あなた達は死んでいないわよ。どうやら、生きたまま来てしまったようね。たまにいるけど、ちゃんと戻っているようだから大丈夫よ」
あっさりと言う。
そうするとここは地界――死者の世界なのかと、潦史は信じられない思いで目を見張った。そう思って見てみると、色々と一致することは多い。もっとも、度々足を運んでいた李天塔から話を聞いたり書を読んだりしたことはあるが、実際に訪れたことはない。そこまでの権限も能力もなかったのだ。
「結花」
少し考えてから、潦史は呟くように名を呼んだ。結花なら、地界も行き来できたはずだ。来てもらえばはっきりするだろうと思ってのことだ。潦史の言葉が耳に届いたらしい少女は、首を傾げた。何か言いかけたようだが、存在の希薄な結花の出現に口を閉じる。
思いがけないところに呼び出された結花は、きょとんとして潦史と彩を見た。先程のことは別と、そうしてくれる心遣いが、潦史には嬉しかった。
「道君、太星…? 何故二人が地界に?」
不思議そうな様子だが、結花が自分の位置を間違えることはない。ここが地界なのは間違いないらしい、と潦史は心中で呟いた。そこでふと気付いて、問いかける。
「結花、彩…太星のことを知ってるのか?」
「それは、有名になっていますから」
「いや、でも顔とかは知らないだろ? 新入りなんだし」
「生まれた早々に、虎番を出し抜いた上に、南老星自ら名を与えましたから。皆、一目見ようと押し掛けたほどです。そこに、貴方の手伝いですからね。たくさんの者が、話を聞こうと手ぐすねを引いて待っていますよ」
ふわりと、結花が笑い掛けた。彩が目を丸くする。
南老星に、彩を手伝いによこしたとしてもらおうと思っていた潦史は、向こうが手を回してくれていたらしいと、わずかに安堵した。
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