五章
一体、誰の謀なのか。赤い短刀を弄びながら、史明は埒もないことを考えた。
大衆宿の寝台にはヒラクが眠り、階下では、まだ祭り前の騒ぎが続いているようだ。立ち回りを演じて疲れたこともあり、史明も休みたかったが、それには問題が多すぎる。
祭り前の賑やかな空気は考え事をするには向いていないが、そんなことを言っている場合でもない。
「…呼べば、早いんだろうがなあ…」
ぼそりと呟く。紐を通して首に下げている、黄色い石の指輪を思う。再会したヒラク曰く、潦史はどこか遠くに出かけているらしいが、呼べば駆けつけて来るだろう。いや、無視されるかもしれないが。どちらにしても、まだ決心がつかない。
伝手を頼りに情報を集め、潦史を追っている。一月ほど前に訪れたと聞き、何の役にも立たないだろうと思いながらも訪れたまちは、祭り前で混み合っていた。それでもどうにか宿を取り、同室者があってもいいかと問われた。わざわざ訊かれることは珍しく、断るようなことでもない。承諾したのだが、同室者がヒラクだと知り、しかも無邪気に再会を喜ばれ、正直なところ、その衝撃は大きかった。
亡くしたもののために売り渡した相手だ。わざわざ説明までしたのに、躊躇いなく信頼を寄せてくる存在は、想像していた以上に辛いものがあった。罵られる方が、いくらかましだっただろうと思う。
しかし、それとじっくり向かい合う間もなく、来襲者の出現があった。
大人しそうだった、三人組。最初は偶然、同席することになったのだと思っていた。それが襲いかかってきて、伸びた一人をひきずって行ったのを、周りはただのありふれた喧嘩と思っただろう。
史明も、酒から眠り薬の臭いがして、それに気付いた途端に襲われたのでなければ、そう思っただろう。ヒラクの飲物にも、同じものが入れられていた。おかげで今は、正体なく眠っている。
残された短刀のこともある。刃の形が軽くねじれるように歪んだ短刀は、紅刃という集団の象徴だ。儀式の際には、必ずこの短刀が用いられるという。
「…って、悩んでても仕方ねえか」
そう呟いてみるものの、まだ決心がつかない。ここまできて、まだ踏ん切りがつかないというのも情けない話だ。治工たちのことも、頭を過ぎる。
直接に人を殺すことこそやっていないが、真っ当な暮らしではなかった。そう簡単に、足を洗うこともできないだろう。どうにも、厄介ごとだけを振り撒いている気がする。
「――潦史。聞こえてるんだろう。…罠じゃねえから、来いよ」
裏切った自分に会いに来るのか、判らないまま、史明は待っていた。そもそも、「判る」というのが声がそのまま聞こえているのか、ただ感じるだけなのかも判らない。
床の軋む音がして、顔を上げる。
「何の用だよ。…ヒラク? なんであんたと一緒?」
訝しげというよりは困惑気味に、道衣に身を包んだ潦史は言った。だが史明も、困惑していた。潦史の傍らに、七歳や八歳にしか見えない程度の、少年がいる。
「……そいつは…?」
ああ、と言ってから、潦史は、考えるように視線を泳がせた。少しして、投げやりに肩をすくめた。
「関係ないだろ。えーと、」
「彩」
「彩、ちょっと遊んでてくれよ。話があるんだ」
わかった、と気軽にこたえて、少年は窓枠に足をかけた。仰天する史明の目の前でそのまま、飛び降りてしまった。慌てて窓に駆け寄ると、少年の、宙に浮かんだ背中が見えた。
呆気に取られたが、潦史がつれてきたのだから、空くらい飛ぶさと、無理矢理納得させる。
振り返ると、ただ静かに見つめる潦史の視線にぶつかり、少年のことは、簡単に頭から消え去った。
「もう一度訊く。俺に、何か用か?」
「…もう一度、お前に会いたかった。探して…一月くらい前に、お前、ここに来たんだろう。ヒラクに会ったのはたまたまだ」
ヒラクも、潦史とはまだろくに話していないと知った。あの青年が何をしたのか、そしてどうやって再会たのか、訊くだけの踏ん切りは、まだつかなかった。
「俺に会ってどうする」
「これ。心当たりはあるか」
答えに詰まって、そうとは悟らせずに、史明は短刀を見せた。それは、ヒラクが識己と暮らしていた小屋にもあったものだ。潦史が顔色を変えて眠っているヒラクを窺ったのを見て、史明は、ヒラクが狙いだったのだろうと確信した。紅刃は、誓直子を祀る一団だったはずだ。どこでどう絡んでくるというのか。
「さっき、それ持った奴らに喧嘩をふっかけられた。予定では眠らせて、静かに連れて行くつもりだったんだろうがな。俺が眠り薬に気付いたら、かかってきた」
「眠り薬?」
「ああ。混んでて、相席になったんだ。入れる機会はあった。俺は、臭いに気付いて飲まなかった。甘い匂いがするんだ、覚えとけ。加熱したら薄まるけどな」
史明が潦史とヒラクに使ったものと、同じ薬だった。そのことに気付いただろうのに、潦史は、全く表情を変えない。そのまま、史明を見た。
「なあ、なんで俺を呼んだ?」
何故また会おうとしたのかと、訊かれて史明は肩をすくめた。今度は逃げられない。
「さあな」
「さあって…」
「お客さん、少しいいですか」
話を遮られた形になって、潦史も肩をすくめた。自ら戸を開けようとして、宿の者に断って入らなかったことに気付き、手を引っ込める。史明は、身振りでヒラクの陰にでも隠れるよう言って手を伸ばした。
しかし戸は、外側から開けられた。
飛び込んできた人影に、先に反応したのは史明だった。咄嗟に蹴りを入れる。外まで跳ね飛ばされ、人影は呻き声を漏らした。その間に二人、部屋に入り込んでいた。
「また刺客かよ!」
言いながら、潦史は容赦のない蹴りで一人の膝の皿を割り、史明がもう一人の鳩尾を殴る。とりあえずは戦力外となった三人を見下ろして、二人は溜息をついた。
「なんでこう、話す時間もくれねーかな、こいつらは」
「違う。なんで刺客が、お前がここにいるって知ってる?」
「え? …紅刃か」
膝を押さえて絶叫する男の傍らに、特徴的な短刀が落ちていた。史明を振り仰ぐ。
「捨てるか」
「は?」
「手伝えよ」
言いながら、潦史は、二階だというのに窓から豪快に男たちを投げ出した。一応低木を狙ってはいるようだが、下手をしたらそのまま地界行きだ。
「話は聞かないのか?」
「自決用の薬を歯に埋め込んでる。そんな後味の悪いこと、目の前でやられたくねーよ」
判った、と応えて、史明は潦史に倣った。
「何やってんの?」
幼い声が不思議そうに、ふって来た。ぎょっとして史明は後ずさったが、姿を見せたのは、先ほど空を飛んで行った少年だった。潦史が、最後の一人を手にしたまま、肩をすくめる。
「厄介者が来たから、捨ててる」
「あ、そうなの? おれ、捨てて来ようか?」
「いいよ、これで充分」
「そう?」
首を傾げて、少年は再び行ってしまう。残った潦史は、史明を真っ直ぐに見つめた。
「で。あんたはなんだって、俺を呼んだ」
「…償いってわけじゃねえけど、お前の役に立てたらいいと思ったんだ。今更、信用してもらえるとも思わないけどな。お前は…あいつらを、わかってくれたから…。疑うなら殺してくれていい。それで当然だったんだ」
じっと史明を見つめた後、潦史はふいと目を逸らした。史明は、立ち尽くす。
「せっかく拾った命なんだから、大切にしろよな」
ぽつりと呟いて、潦史は窓から身を乗り出した。怒っているようでもあった。
「彩」
大声を出したわけではないが、少年は、すぐに姿を現した。そのまま窓から入ってきて、話は済んだの、と、あっさりと聞いてくる。史明の方が聞きたい。
「彩、こいつは李史明。仙人でも道士でもない。史明、こいつは彩。太星の化身で、生まれたばかりだ。俺を手伝ってくれるらしい」
「は?」
「あれ、ばらしちゃっていいのか?」
「どうせ、一緒に行動するんだ。黙ってても仕方ないだろ。彩、寝とけよ。いくらなんでも、飛びっ放しで疲れただろ」
そう言って潦史は、空いた寝台を示し、自分もそこに腰を下ろした。
「――いいのか」
「二度目はない! 次があったら問答無用で叩っ斬る。覚悟しとけ」
史明を真っ直ぐに見据えて、潦史は言った。覚えておけと言われて、史明は少し俯いた。おそらくそれは、自分の中で一番重い宣告だ。
「…甘いよ、お前は」
何も言わず布団を被る潦史に苦笑して、はたと、史明は自分の寝床がないと気付いた。
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