四章

学識 [ ガクシキ ] 、図書寮を使うぜ。探すのは勝手にやる。あ、これ土産な」

 まだ温もりのある包みを小さな体で受け止めて、饅頭の匂いに目を輝かせてから、思い出したように顔を上げる。学識は、急いで宙を飛んで潦史 [ ロウシ ] の後を追った。

「待ってください、道君 [ ドウクン ] 。調べものなら僕が、いやその前に、どうしてあなたが天界にいるんですか!」

 妖増加の原因解明の報は届いておらず、従って、潦史は人界にいるはずだった。天界に戻ることが禁じられているわけではないが、年に一度の天界に戻っての経過報告を渋々承諾したのは、潦史の方ではなかったか。本当なら、それすらも、結花 [ ユイカ ] に託した定期報告だけで済ませたかったはずだ。

 呼びかけられた潦史は、振り向きはしなかったが、口の端が持ち上げられるのが見えた。あの怖い笑い方だと、思わず学識は体を強ばらせた。危うく、失速して落ちそうになる。

「ここの記録が必要なんだ」

「だから、調べ物なら僕が…」

「地上より詳しい資料があって、でもその引き出しをお前に頼んだら制限がかかる」

 今度こそ、学識は落下した。床で、目を見開いて潦史の背を見つめる。

「禁域を見るつもりですか? 無理です、駄目ですよ!」

老師 [ ろうし ] に許可はもらってる。そのための術も借りてきた。まだ不満か?」

「それなら…尚更僕が」

「学識」

 潦史が足を止めて、振り返る。どうにか追いつこうと、再び浮かんで速度を上げていた学識は潦史を追い抜かしかけたが、当の本人に襟首を掴んで引き留められた。

 潦史は、学識を目の高さまで持ち上げた。

「お前を信用してないわけじゃない。物心つく前からの友だ。信頼もしてる。でもな、お前の役職だとかこの世界の制度だとかはいまいち信用できないんだ」 

 声を荒げるのではなく静かに淡々と、潦史は言った。

 そして、不意に手を離した。再び落下した学識を左手で受け止め、苦笑する。そのまま図書寮に足を踏み入れた。そこには、気が遠くなるほどの書が保管されている。

 改めてそれを眺めやって、潦史は嘆息した。

「学識、やっぱり手伝ってくれよ。一般書架の誓君 [ セイクン ] 、天仙の系譜、妖との交わりや歴史、相互関係も。ついでに、天界の裁判記録も。ああ、その前に禁域開けてくれるよな?」

「――はい」

 軽く頭を振って宙に浮く学識について、潦史は通常は鍵のかけてある一角に向かった。

 その際潦史は、、あんな状況でも手放さずにいた饅頭の袋を、控え室に置きに行った学識を微笑ましく眺めながらも、感心する。さすがは専門家。書を汚すようなことはしない。

 戻ってくると、扉の前で振り返って、咳をひとつ。

「わかっているとは思いますが、」 

「扱いには気をつけてください。――了解」

 言葉を先取りしてにやりと笑う潦史に、学識は肩をすくめて返した。学識の声にしか反応しないようにしている扉を開けて、閲覧に許可と専用の術式の必要な区間に、潦史を一人残して言われた通りの資料を探しに飛び立った。

 滅多にしないことではあったが、学識もその程度には潦史を知っていて、且つ信頼しているつもりだった。先程の潦史の言葉も、痛いところを突いたのかもしれない。

 一人残された潦史は、術のかけられた腕輪をはめた腕を上げ、ぼんやりと光るそれを頼りに書架を歩く。「図書寮」とあって書物が多いが、映像を固定させた玻璃や音を閉じこめた水、年度 [ ごと ] の作物などと様々な物が保管されている。

 それらの多くは術式によって残されたものだが、単純に墨と紙を用いて文字で記録している書物一つとっても、人界で普及し、一般にもこのうちの何分の一か程度の蔵書が見られるまでになるには、まだ数百年の時を要するはずだ。

 現在でも書物や紙は存在するが、質は悪く、普及しているとも言い難い。ましてや国家を支える多くの農民ともなれば、文字の存在すら知らない者もいるほどだ。

 恐る恐る、潦史は赤い表紙の冊子に手を伸ばした。

 今よりももっと幼かった頃、学識の目を盗んでこの場所に忍び込んだことがあった。当然認可証となる術式も持っておらず、手近な本を取って、警告なのか軽く痺れたのを無視して開くと、途端に意識が飛んだ。

 意識が戻ったときには、難しい顔をした天敬尊 [ テンケイソン ] や学識、怒りに顔を膨らませた新羅天 [ シンラテン ] などの見知ったのや、全く知らないのや、とにかく多くの顔が並んでいた。意識が戻ったと知られるや否や、とてつもなく長く激しい説教が開始されたのだった。

 途中、苦笑した李天塔 [ リテントウ ] が割り入らなければ、もっと続いただろう。それでなくとも、一昼夜。入れ替わり立ち代わりの説教だった。後で知ったところによると、それでも、天敬尊の働きかけと新羅天の取りなしとも思えない取りなしでどうにか裁判沙汰は免れたらしい。

 思えば、あの一件がきっかけで李天塔と親しくなったのだ。

 懐かしさに微笑しながら、それでもどこか緊張したまま、書を手に取って、しびれのないことを確認するように間を置いて、開く。何も起きなかったことに安堵の息を吐き、静かに文字を追い始めた。

 赤い表紙には、簡潔に『締歌 [ テイカ ] 史』とだけ書かれていた。

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