四章
突如出現した道服姿の潦史に、青年は呆然とし、ヒラクは不思議そうに首を傾げた。一方の潦史は、平然と青年を見返した。
「押しつけがましい主張だ。そんな無茶苦茶、こいつに言ったところで、ほとんどわからないと思うぜ」
「な…っ」
「縛」
素早く印を結び、青年に向ける。動きを封じる動縛術だが、出会った当初を思い出したのか、ヒラクが気の毒そうに眉をひそめた。
そうして、潦史はヒラクに向き直る。
「一月近くも何してたんだ?」
「ここで暮らしてた」
突然現れた潦史に疑問を投げかけることもなく、ヒラクは大雑把に、ごく簡単な事実だけを口にした。自分が別の記憶を植え付けられていたらしいことを忘れているわけではないのだが、それに腹を立てるわけでもなく、しかし潦史に話せば、まず間違いなく怒りそうなのでこういう言い方になってしまった。
それに対して潦史は、怒鳴りつけかけたものの、実際には溜息をつくに留まった。
「こいつと二人で?」
足を封じられた青年は、青ざめた顔で潦史を睨み付けている。青年を振り返ったときに目が合ってしまい、潦史は思わず肩をすくめた。なんだか、負けん気の強い子犬に吼えられているような気分だった。
「いや、奥にチチオヤが――あれ?」
「父親?」
「なあ、俺たちはたった二人の家族だって言ったよな? あの人は?」
「まだ誰かいるのか? あ、ひょっとして、お前が唯一見てた奴か?」
問いかけた青年ではなく、潦史が反応する。ヒラクは、青年に視線を向けたまま首を振った。
「違う。全然知らない奴。なあ…」
「あれは死んだ。身の程知らずにも、僕と兄さんを自分の都合で使おうとしたから、僕が殺した」
歪んだ笑みを浮かべる青年に、ヒラクは思わず息を呑んだ。
「兄さん、これが最後だ。一緒に行こう」
「――――――いやだ」
感情が高ぶって泣きそうになりながら、ヒラクは頭を振った。
行けない。
自分を見つけてくれた人の傍を離れたくない。「弟」と共に行くのは、またあの暗い家に戻るようで、厭だ。これまでに出会ったような、これからも出会うような人たちと暮らしたい。一緒に行くと、それはできない気がするから。
だから、行けない。
それは決して、この「弟」のことが嫌いなのではなくて、むしろ、まだ闇の中にいるような弟を、そこから出したいと思う。驚くほどに、強く。
言いたいことはたくさんある気がして、それなのに言葉にはならない。この弟を突き放したいわけではないのに、そうしかできない自分が、どうしようもなく馬鹿で、歯痒い。
青年は、一瞬だけ寂しそうな表情をしたように見えたが、すぐに嘲笑を張り付けた。
術式の動き出す気配を感じて、潦史は真っ向から青年を見据える。
「お前は名がないと言った。だけど、それじゃ不便だからな、シキと呼ばせてもらう。己を識る、それで識己だ」
「好きにすればいい。次に会うときには、今の選択を悔やむことになるよ、兄さん」
「血のつながりだけじゃ家族にはなれないって知っておくべきだったろーよ、識己」
「待っ…」
言いかけて、その先が続かないヒラクを視界の端に捉えたまま、潦史は目を凝らした。既に、視認できるほどにその姿が揺らいでいる。妨害できないわけではないと、思う。だがそうすると、移動先が判らないため、識己が無事でいられる保証がなかった。
仕方なく、二人は識己を見送った。完全に姿が消えると、潦史は大きく息を吐いた。
「あーっ、焦ったーっ! なんか無茶苦茶敵意出しまくりだし、何がなにやらさっぱりだしっ。ヒラク、もっと詳しい話…どうした?」
悄然と立つヒラクは、大きな体が、二周りほど小さく見えた。
「俺…何も…言わなきゃいけないと思ったのに。言えなかった…」
少し考えてから、潦史はヒラクを椅子に座らせた。目線を合わせたかったのだが、身長差のせいでヒラクに低くなってもらうしかなかったのだ。威圧してしまわないように気をつけてかがんで、目を合わせる。
「何を言いたかったんだ?」
「…行けないって…でも、あいつが嫌いなんじゃなくて、そうじゃなくて…!」
「そうじゃなくて?」
「…似てるから。あいつは、似てるから…また、戻るみたいで。怖かったんだ…」
まだ言葉が足りず、潦史にはなんとなくしか解らない。しかし、今必要なのは本人の納得であって、説明ではない。潦史は、妹にするように、ヒラクの背を軽く撫でた。
「ヒラク。お前も識己も、もっと沢山のことを知るべきだよ。知らないことが多すぎる」
十数年前、潦史も同じことを言われた。まさかそのときは、言う側に回るとは思ってもみなかった。しかも、まだ多くを知った「大人」になったとも思えないでいるのに、こんなことを言うことになろうとは。
予想外の成り行きに、思わず苦笑しそうになる。
「言いたかった言葉も気持ちも、忘れずにいるんだ。いつか、言えるかもしれない」
「…うん」
「人のことを気にかけるためには、自分がちゃんと立ってないと。じゃなきゃ、ただの厄介、荷物にしかならないんだから」
何度も、自分に言い聞かせた言葉。中途半端に動くなと、何度も戒めた言葉。急いて多くのものを知り、覚えようとしたのは、役立たずでいたくなかったから。見捨てなければやっていけないことを、少しでも減らしたかったから。
まだ、及ばないことは多くて、泣きそうにもなるけれど。
「今度、伝えよう。今は、今の精一杯で良いんだ」
例え、この一手で手遅れになったとしても――それは、往々にしてあることだけれど――やれる事以上は望めない。理想を高く持つのと、できなかったことをただ悔やむのとは別物だ。反省はしても、後悔はしたくなかった。
幼子のようなヒラクの背を撫でながら、潦史は感傷を振り払おうとした。
少しでも詳しく昔の暮らしやこの一月の生活を聞いて、早々に姿を消した偽の父親の話も聞いた方がいいだろう。もう、放置しておくには深みにはまりすぎている気がする。もっと早くに対処するべきだったのかもしれない、とも思う。
しかし、せめてあと少し。ヒラクには、落ち着くだけの時間を与えてやりたかった。史明に何もできなかった分、せめて。
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