五章
潦史が、該当する図書全てに目を通し終えた頃には、動き回って疲れた学識は、近くの自室に戻ることもなく、床で眠っていた。最後の書簡から顔を上げ、学識の姿を探し求めた潦史は、それを見て苦笑した。
「ありがとな」
起こしてしまわないように気をつけて持ち上げると、学識の部屋に入った。そこの小さな寝台に寝かせて、手巾のような布を上からかける。
思いついて、潦史は図書寮を後にした。建物を一歩出ると、満天に、数知れない星が散らばっている。
「夜だったのか」
図書寮に籠もり、幾度か学識の部屋で食事を摂ったことは覚えているが、数えてはいなかった。おかげで、天界に戻ってから幾日経っているのかが判らない。そういえば、図書寮で知り合いに会った気もするが、よく覚えていない。
驚異的な集中力を発揮しているときの潦史は、対象以外への意識がほとんど向かないのだ。師の顔ですら、見過ごしても不思議ではない。
人界よりも高所にあるとあって冷たく澄んだ空気を吸い込み、大きく背伸びをする。
これで一段落。ここからまた、必要な情報だけを選り分けていかなければならない。途中で必要になるだろうと、出してきた物は全て、自分の周りにまとめ置いていた。まずないが、地震でも起きれば、間違いなく埋まるだろう。圧死か窒息死かといったところか。
「あー、つっかれた――」
筋肉の強張りをほぐすように体のあちこちを動かしたり跳んだりしてから、草地に仰向けに寝転んで、ぼうっと夜空を眺めた。
月が浮かんでいる。人界で目にするよりもいささか大きく見えるのは、それだけ近いからだろう。
潦史は、月が好きだった。もちろん星も、青空や太陽も好きなのだが、目を射ない光に、何かしら救われる気がする。人々は、月にも神仙が暮らすと考えているらしいが、潦史の知る限り、そんな事実はない。あったら幻滅だなと、勝手に思っている。
空を眺めるのは好きだ。見飽きることもなく、果てしないそれが、麗春たちと繋がっていると考えるだけでも、慰められる。
そんなことを考えている自分に気付いて、疲れているなと、苦笑いした。
地上に降りて半年ほどの間に、親しい人に出会え、別れた。用事を済ませて戻れば、ヒラクとはまた行動を共にするだろうが、史明を見捨てて逃げたことは、しこりとして残っている。
今回天界に戻ったのは、ヒラクの出自を確かめるためだった。ヒラクと識己の暮らしていた小屋には、紅刃と名乗る誓直子を崇める集団の気配があった。彼らが関わってくるとすれば、ヒラクや識己には、誓直子との何らかのつながりがあるのだろうか。今のところ、誓直子の直系は、生まれて早々に殺された男児しか見当たらないのだが。
そして改めて、幾重にも管理された諦歌の歴史に、疑念を抱く。一体、そこまで危険視する何が、この国にあるというのだろう。
「おい。そんなところにいると踏むぞ?」
「やめてー、踏まないでー」
突如降ってきた低い声に、潦史はふざけた調子で返した。大多数の人よりも大きな眼が、潦史を見下ろしている。視線が合うと、揃って小さく吹き出した。
「久しぶり、烈風」
「そう思うなら、顔くらい見せに来い」
「やだよ、いるかいないかわからないのに」
潦史が体を起こし、男がその隣に腰を下ろす。
三十半ばほどの壮年の男は、軽く潦史を小突いて笑った。男らしい精悍な顔つきに、こんな顔に生まれたかったよなあと、潦史は密かに溜息を飲み込む。
この男、今は軽装だが、度々、甲冑をまとって人界に降りている。妖退治だけならともかく、人間同士の争いにも首を突っ込むので、いささか顰蹙を買っていた。闘神だから仕方がない、とは本人の弁だ。
「ろくにいねーじゃん。無駄足は厭だぜ」
憎まれ口を叩く潦史よりも、男は別のことに気を取られていた。少年に餞別代わりにやった剣がないのを見留めたのだ。李天塔、人であった頃には李竣、字を烈風と名乗っていた男は、片眉を上げた。
「お前、剣はどうした?」
「あ」
瞬間、潦史は気まずげなかおをした。闘神として奉られているだけあって、武具にも拘りを持っている。拘りと言うよりも、親しみと言う方が正確だろうか。
李天塔に武術を学んだ潦史も、その辺りのことは心得ている。実際問題として、武器は慣れている方が使いやすい。その上に、飛嵐は神剣だ。常に身につけているべきなのだ。
「その…悪い、貸してる」
「貸した?」
「うん。連れがいてさ、頼りない奴らだから貸してきた」
あっさりと言ったものの、雷が落ちると覚悟していた。だが、李天塔は驚いた表情をしているだけだった。拳の降る気配がないのを知って、潦史が首を傾げる。
「烈風?」
呼ばれて、気付いたように表情を取り繕う。「友達ができたのか」と笑うが、当の少年は、不審げに年長の友を見つめた。
「飛嵐って、どういう代物だったわけ? 俺、神剣としか聞いてないぜ? 何かまずいことがあるんじゃないだろうな?」
「稀に見る名刀だ」
「じゃあなんだよ?」
「…神仙しか持てないように制限をかけたのだが…得意じゃないとはいえ、まさか術式を失敗したのか?」
納得がいかない様子の李天塔に、潦史は呆れた眼差しを向けた。
「何度も言うけど、俺はまだ道士なんだぜ? 俺が持てる時点で失敗じゃねーか」
「いや。お前は、能力から言えば仙人並だからいいんだ」
「あっそ」
ろくに術も使えない奴に持ち上げられてもなー、と聞こえるように呟いて、軽く睨み付ける李天塔に、わざと無邪気な笑みを返す。
学識の見立てによる、ヒラクは神の血を受け継いでいるらしいとの事実は、なんとなく告げずに終わった。
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