五章
引っぱり出した書物その他を片付けるのに、半日ほどがかかった。
学識に手伝ってもらって――というよりも、学識を手伝って――それをどうにか終えると、礼を言って図書寮を後にした。途中、地呼らの休む部屋に立ち寄り、土産の干菓子を渡して話をした。
幼い日、潦史は半ばここで暮らしていたようなものだ。天界に幼児は少なく、というよりもまずおらず、いたところで、外見を裏切って長い年月を受けている神であるのがほとんどだった。だから、神仙が気にも留めないような存在の彼らが、潦史には一番親しかった。だから潦史は、今でも、胸を張って彼らを友と呼ぶ。
「よく来たね、道君」
李天塔が例によって無断で人界に降り、あまつさえ地界にまで行き、そこで前王朝の美姫であった藩夫人を巡って一騒動起こして問題になり、そのことでまた新羅天と喧嘩をしたが、そろそろ仲直りするんじゃないか。清天子が、若竜同士の諍いを止めに入ってぎっくり腰になった。虎番が、南老星のもとに来るはずだった新しい星神を許可証がなくて追い返したが、その眼を盗んで忍び込むことに成功した。
期せずして、世間話を仕入れることとなった。どうやら、知らない者に話したくてたまらなかったようだった。
そうして、李敬尊の自室の戸を叩く。前回叩いたのは、学識によると六日前のことらしい。つまりは、それだけ図書寮にこもっていたのだ。その程度で済んだのか、と、潦史は軽く嘆息した。
結局確証は得られなかったが、推論はいくつか、立てられた。今回の役目についても、いくつかの取っ掛かりを拾え、上々というところだ。なるほどこのために、李敬尊はあっさりと術式を与えてくれたのか。
「李浩、入ります」
短く告げて入ると、六日前と同じように、老人は小卓に茶菓子と茶器を置いて座っていた。糸のように細い眼が、潦史に向けられる。
「早かったのう」
「うん。俺も意外だった。お茶もらってもいい?」
老人が頷くと、小さな杯に茶を注いだ。ただの緑茶だが、こういった飲み方をされるまで、人界ではもう数百年の時を要する。熱い茶を一口飲んで、潦史は盛大に息を吐いた。
「これだけは、ここが恋しいな。つい、茶の飲み方教えそうになるもん。やんないけど」
製紙法も茶の製法も、天界のものを教えれば飛躍的に発展するだろう。しかしそれは、決してしてはならないことだった。無闇に天界と人界が交わって、いいことはない。
天界に独自の気質があるように、人界が独自で作り出してこその文化であり歴史だ。天界の予想を覆すこともあるだろうし、それでこそ存在意義がある。また、人界の方が優れるということもあるのだ。例えば、菓子類は人界の方が充実している。
六日前に自分で持ち帰った揚げ菓子をつまもうとして、右腕の腕輪に気付き、動きを止めた。一度は躊躇したものの、杯を置いて腕輪を外した。
「ありがとう、これ」
「ああ」
あっさりと受け取られた腕輪を、潦史はこんな状況ながら名残惜しく思った。あれさえあれば、禁域の書でも自由に読めるのだ。ずっと籠もっているのは柄でもないししたいとも思わないが、書を読むことは好きだ。それでなくても、禁止されると逆に煽り立てられるのが潦史だった。
そんな潦史の気性を知っている師の天敬尊は、柔和だが喰えない笑みを浮かべた。
「役に立ったか?」
「まあね。もっとも、全部解ってて許可を出したんだろ?」
「はて。何のことかな」
「爺が惚けてもかわいくねーよ」
この人はいつもそうだと思う。自分で考えろと、それに足りるだけの情報を投げ与えてくれる。そして自分では、何も言わないのだ。
潦史は、茶を飲み干すと立ち上がった。
「次、どんな菓子がいい?」
「この揚げ菓子を、またたのめるかの」
「わかった」
そこで表情を改めて、潦史は、立ったまま胸の前で掌に拳を当てた略式の敬礼をした。正式なものであれば、右膝を立てて跪く。
「師父、どうぞ御健勝のほどを。失礼します」
深々と礼をして退出すると、潦史は肩を回した。 たったあれだけのことだというのに、肩がこった気がする。
師匠であり養父であることはわかっていて、尊敬もしている。それでも友人に対するような態度になってしまうのは、天敬尊の育て方のせいだと開き直っている。術を教わるとき以外は気安く相対してしまうが、せめてけじめだけはつけようというのが、潦史の目下の目標だった。
人界へ戻ろうかと進路を変えて、潦史は目を見開いた。
見知った顔だ。李天塔とはほぼ同時期に神籍に入り、周囲からも親しい友人同士と目されている。潦史が無断で図書寮の禁域に立ち入ったときに、「だから子供を置くことには反対したのだ。あのときに容認した以上、こういった事態もあらかじめ予測していたのだろう?」と言ってのけた人物だった。
一瞬迷ったものの、悪戯じみた感情も手伝って、潦史は新羅天の目の前で方向を転換し、逆方向に向かって歩き出した。期待通りに、尖った声が投げかけられる。
「待て、小児」
潦史は、やっぱりと心の中でだけ笑って、わざと面倒そうに振り返った。
「何でしょう、大老」
実のところ、潦史は新羅天が嫌いではない。李天塔と正反対に規律遵守の姿勢はいささか鼻につくが、言動自体には筋が通っていて、しかも本当は情に厚い。面白いと思う。嫌われているのは少し寂しいが、憎まれてはいないだろうとも思う。
薄っぺらい笑みを張り付けた潦史に、新羅天はまなじりを吊り上げた。
「何年経っても、口の利き方を覚えないようだな、小児」
「すみません、大老。育った環境があまり良くなかったようで」
潦史がにっこりと笑って全てを天界のせいにすると、新羅天は言葉を詰まらせたが、努めて平静を保つことに成功した。
「…知ることが幸福とは限らない」
「貴方らしくない言葉だな、それは」
潦史は、不思議な色合いに底光りする瞳を新羅天に向けた。本人にその意識はなかっただろうが、そこにはある種の凄味があった。
ふ、と微笑して、軽い調子で口を開く。
「それは、忠告? 警告? まあ、気持ちだけもらっとく」
呆然と立ち尽くす新羅天に軽く頭を下げて、その場を去った。そのまま真っ直ぐに、人界へと戻っていく。
潦史の気迫に呑まれ、一人立ち尽くす新羅天が我に返ったのは、部屋から出た李敬尊が声をかけたときのこと。因みにそれは、二刻ほど後のことだった。
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