四章

 人里離れた、小さく粗末な家の戸を、男は両手に水桶を持ったまま叩いていた。手が塞がっているので、片足で軽く蹴っている。応えて、内側から戸が開かれる。

「兄さん。横着しないで、分けて持つとか一度置くとかすれば?」

「イヤだ、面倒くさい」

 水桶を一つ受け取りながら、二十半ばくらいの青年が笑うように言う。それを受けて、青年よりも三つ四つは年長だろうのに、よほど子供のような表情と口調で返す。その胸元には、荒削りの青い石が、紐にからめ取られて下がっていた。

 男は、切り忘れたような伸びかけの髪をしている。背は高く、家に入るには、軽く頭を下げなければならない。狩人のような獣皮の上着を着ているが、ただの狩人とは思えない風貌をしていた。しかし、何かと問われても当て嵌まるものは思い浮かばないだろう。

 青年は、色素の薄い、癖のある長髪を簡単に束ねている。男よりも幾分か背が低いが、それは男が長身だからであって、同年代の者を何人か並べても引けを取らないほどの身長はある。こちらも獣皮だが、全く狩人には見えない。裕福な商家の次男三男といった方が納得できるだろう。

「父さんは?」

「奥にいるよ。でも、今は邪魔しない方がいいと思う」

「そうか。じゃあ、先にメシ食べとくか」

「そうだね」

 青年が、にこりと微笑む。

 男は、中身を水瓶にあけて空になった桶を入り口の棚に重ねて乗せると、炊事場に移って、火にかかったままになっていた大鍋を持ち上げた。中では、適当に放り込んだ野菜が煮えている。一度味をみているので確認することもなく、男は木の卓に鍋を置いた。

 青年が、米の入ったものと空の二つの器を二組と、箸を二膳、同じ卓の上に置いた。

 鍋のふたをあけると、真っ白い湯気が立ち上った。

「兄さん?」

 突然に、鍋を凝視して動きを止めた兄に、青年が不思議そうに声を掛ける。男は、束の間そうしていたが、何かを振り払うように頭を振りかぶった。

「メシ、食おう」

「うん」

 一瞬、青年は探るような、怜悧な目を向けたが、男は気付かなかった。器に煮物をよそい、こぼしてしまって手にかかった熱さに思わず叫ぶ。

「兄さん、大丈夫?」

『馬鹿、何やってんだよ』

「え?」

 聞こえるはずのない声が聞こえた気がして、男は顔を上げた。聞き覚えなどないはずの、少年の声だった。思わず、立ち上がっていた。

「兄さん? 冷やした方がいいよ?」

『冷やしとけよ』

 心配そうに立ち上がった青年よりも低い位置に、誰かが立っているような気がする。全く知らない、それなのに確かに知っている誰か。男は、呆然と立ち尽くした。 

 誰か、何か忘れている気がする。無意識のうちに、胸元の青い石に手が伸びていた。

 そんな男を、青年が心底心配したように見上げる。男が、それを見下ろす。不意に、奇妙な感覚に襲われた。青年を、誰だったろうと思う。焦りが生じた。

 青年が弟だということは判っている。隣の部屋では、父が研究作業をしている。しかし一方では、それは違うと確信している。誰かもっと、身近な人たちがいた。家族ではないかもしれないけれど、身近な誰か。ここは違うと、何かがしきりに訴えている。

 焦りと、恐怖に近いものを感じた。

「兄さん、どうしたの?」

 弟の声。高くも低くもなく、聞き慣れた声。ほっそりとした体に、色素の薄い髪と瞳。――しかしそれは、本当だろうか。本当に、良く知っているのだろうか。

「兄さん」

「…違う」

「兄さん?」

「違う、俺は…」

 俺は――何だっただろう。

 唐突に、記憶が明瞭になった。この家に似たところで暮らしていた、当時はそれと知らなかった孤独な生活。外に出て、人獣構わず喰い散らかしていたこと。潦史 [ ラオシ ] 史明 [ シメイ ] という、仲間と呼べる人たちに出会ったこと。全てを、思い出した。

 ごく冷静に、男――ヒラクは、青年を見た。全く知らないわけではない。二度会って、弟だとも言われた。しかし、それだけしか知らない。

 弟の存在を、本人に言われるまで知らなかった。自分と似ているとも思えないが、血のつながりが必ずしも明らかな類似点を持つわけではないらしいと知っているヒラクは、それ自体を頭から否定するつもりはない。しかし、不可解ではある。

「なあ、お前何考えてるんだ?」

 呼びかけには応えず、青年は冷静にヒラクを見返した。その瞳からは、先刻までの親しさはほぼ消え去っていたが、代わりに探るような、何かを待つような期待と不安の入り混じった感情が読み取れる。

「何がしたいんだ? ラオと史明はどうした?」 

 咎めるような強いものではなく、困惑するような口調だった。こんな風に、家族を演出している意味がわからない。

 青年は、黙って笑みを浮かべた。

「簡単なことだよ、兄さん。僕たちはたった二人の家族だ。それなのに、愚鈍な人間なんかに構うことはないと言っているんだよ。目を眩まされているようだけど、ねえ、兄さん。わかったでしょう? 僕に比肩し得るのは兄さんだけだ。一緒に行こう」

「何言ってるんだよ」

 やはり困ったように言うヒラクに、青年は苛立って叫んだ。

「まだ判らないのか、兄さん!」

「そいつにそんな理屈で理解求めても無駄だろ?」

「ラオ?」

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