四章
夕闇が薄闇に替わり、本物の闇へと替わるころ、麗春たちは柳家の邸宅を辞した。麗春の屋敷を目指して走る俥の中には、麗春と潦史が収まっている。
「…いいのか、これで」
「わからない。あの人たちに迷惑をかけたくはないと思うのだけど、でも、だからと言って、他に誰と結婚したいとも思わなくて。…いい人なのよね、光柳さま。偽装婚約なんてやめて、きっぱり断るか、本当に結婚するかした方がいいとは、思うのよね」
古くから王家に使える家柄でありながら、先年の些細な失敗以来不遇をかこつ柳家の現当主である明鈴は、にっこりと微笑んで「我が家の命運をお預けします」と言い切ったのだった。潦史が苦いかおをすると、やはり微笑して、「何も柳家を立て直せと言うのではありません。今回の件に私が関わる以上家を巻き込み、そして全体の指揮を執る方が信頼できるのであれば、全てを託した方が効率が良いでしょう。気遣いは、時に邪魔となります」と、言ってのけた。
気は進まないが、どうにかしなければならない。それが現状だ。この時代、家の実権は女のものではあるが、社会的な身分は低い。夫次第で、どうとでもなってしまうものだ。小さく唸る潦史をそっと見やって、麗春は溜息をついた。
「どうしたらいいのかしらね」
「好きな奴、いないのか」
「いたら悩まないわよ。全部捨てることになっても、その人についていくわ」
「…だな」
今は祖父母はなく、他の親戚を圧して麗春が家督を継いでいる。その全てを擲ってでも、この妹ならそちらを選ぶだろう。兄としては微妙な心境ながらも、確信はある。
「家を守るなら、親戚の誰かと結婚した方がいいのよね。大二兄の持ってくる話も、家柄としては悪くないのよ。こんな私でも、ある程度は政略に有用だからね。でも…駄目よね。どうしてこんなに、恋愛に憧れるのかしら」
「…よく、そんな恥ずかしいこと真顔で言えるな」
「恥ずかしいって何よ。思ったままを言っただけじゃない」
むっとして、麗春は潦史を睨みつけた。
それでいい。伸びやかに、生きてほしい。だからこそ、潦史は―― 一度は病で命を落としかけた麗春を、何をも顧みず、自らを引き換えにしていいからと、その生を望んだのだ。
そこまで考えて、潦史は史明のことを考えた。正直、思い出すのも辛い。
潦史には史明の気持ちが痛いほど判って、妻子に生気を分け与えてゆるゆると死んでいくのも良いだろうと、本気で思ったのだ。それで納得がいくなら良いと、そう思った。できることなら、生き返らせたいとも思った。
しかしそうはならず、二人は消えた。 跡形もなく、完全に。潦史が、断ち切った。そして潦史は、膝をつく男から目を逸らし、逃げ戻った。せめて、史明が自分を取り戻すまで見守るべきだとは思った。だが、できなかった。どうしても、できなかったのだ。
「お兄さん、着いたわよ」
「あ? ああ…」
魂が追いついていないかのような顔をした潦史を、麗春は心配そうに見つめた。潦史は、それに気付いて微苦笑を浮かべる。大丈夫だと手を振った。
「麗春。俺は、愚痴くらいしか聞いてやれない。それでもいいなら、いつでも呼んでくれ。必ず行くから」
麗春には、薄桃色の玉を渡してある。それは、史名の指輪やヒラクの原石と同じく、潦史に繋がっているものだ。名を呼ばれれば、判る。そして、道が繋がる。
「ありがとう」
声が、微笑んでいた。空間は、すっかり闇に沈んでいる。
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