四章

 李史明 [ リシメイ ] は過去に一度、妻と呼べる人と暮らしていたことがある。

 婚約者から奪った形になったが、その生活は三年と続かなかった。片方の死によって終わりを迎えたそれは、数人に浅からぬ傷を残していった。

 妻と子の死による傷は、今も史明の心の奥底に潜み、決して消えることも、完全に忘れることもできなかった。

 そして今、史明は粗末な一軒家にいた。山の [ ふもと ] に家はあり、隣家は、あえてそう呼ぶならだが、歩いて片道半日くらいかかるところにしかない。裏手には小さな畑があり、山の資源は豊富で、贅沢を望まなければ、生活くらいはどうにかなるだろう。三人くらい、どうにか生きていける。

「こら、桃梨 [ トウリ ] 。危ないじゃない。踏んじゃうわよ?」

 庭で洗濯物を干す妻と、その足下にじゃれる娘を眺めていた。見るからに元気な妻と娘は、九年近く前と変わらない。ただ一人、史明だけが体に時を刻んでいた。

「ちょっとあなた、見てないでどうにかしてよ」

「ああ…」

 微苦笑して庭に降り、娘を抱き上げる。まだ二歳足らずの赤ん坊は、はじめはきょとんとして、史明を見上げてにっこりと笑った。妻が、「よろしい」と明るく笑う。

 ありえない。

 もう九年が経つ。例え関係者一同、あるいは史明だけが記憶違いをしていて、実はこの二人が生きていたのだとしても、少なくとも娘は、三歳から十二歳という顕著な成長が見られなければおかしかった。明らかに不自然だ。

 しかし、選んだのは自分なのだ。

「どうしたの? このところ、気味が悪いくらいに静かね」

 いつの間にか、洗濯物を干し終えた妻が、隣に立っていた。二十歳を超えているのにまだ幼さの残る顔を、史明は見た。娘は、腕の中で眠り込んでいる。

「そうか?」

「そうよ。気分を変えようなんて言ってこんなところに引っ越してきて。日がなぼーっと私たち見て。変よ」

「うん…ちょっと、人の多いとこは疲れちまってな。厭か?」

「ううん。あなたが危ないことしてるより、ずっといい」

 そう言って、妻は史明に身を寄せた。ほっそりとして少女然としているものの背は高く、史明の頬に、寄せた頭がつくかどうかといったところだ。背筋を伸ばせば、もう少し高い。史明は、右腕で娘を抱いたまま左手を妻に伸ばしたが、抱くように伸ばした手を、一瞬の躊躇いの後に下ろした。

「ずっと、このままでいられたらいいね。のんびり末永く、幸せに暮らすの。桃梨は嫌がるかしら?」

 史明は、何も言えなかった。泣き出さない自分が不思議に思える。

 誰に望まれることもなく生まれ、 [ はな] から犯罪に手を染めることが決まっていたような自分だ。こんな安らぎなど、一生縁はないと思っていた。しかし同時に、それを護ろうとしなかった自分も思い出す。そして。

「ねえ、ちゃんと聞いてる?」

「ああ」

 肩を抱く。そこに居ることを確かめるように、強く。――そんな資格がないことは知っているけれど。

 二人は、家に足を向けた。妻が娘を受け取って、部屋の隅に寝かせる。そんな様々を見た史明の心に浮かんだのは、重い罪悪感だった。

「すまない――潦史 [ ラオシ ] 、ヒラク…」

 他の、名を知っているほぼ全ての者に対して。妻と娘――梨華 [ リカ ] と桃梨に対してさえも。

「謝るくらいなら、はじめっからするな」

「…………潦史…?」

「おうよ」

 突然目の前に現れた美少女――ではないのだが――に度肝を抜かれたが、どうにか、史明は腰を抜かすことも悲鳴を上げることもせずにすんだ。

 しかし、豪奢な装いをし、化粧までもしている。長い髪はまとめ上げられた上で垂らし、そこにも金銀や宝玉の類が飾り付けられている。黙って座っていれば、どこの貴人かと目を見張るところだ。男は当然として、女も目を留めるに違いない。

 最初の驚きが去ると、史明は慌てて、上がろうとしていた部屋に目を走らせた。しかし妻はおらず、代わりに包丁を使う音が聞こえた。少し早いが、夕食の準備でも始めたらしい。史明は、とりあえず安堵した。

 ちらりと潦史に目線を向けてから、家の奥に呼びかける。

「少し、出て来る」

「ご飯の用意してるから、あまり遠くには行かないでね」

「ああ」

 短いやりとりを終えると、無言で潦史を促して山へ向かった。少し上ると、わき水が細く流れ、その傍らの、腰掛けるのに丁度いい石のあるところに出る。史明は、そこに座った。歩くことすら大変だろう格好にも関わらず、平然とついてきた潦史が、正面に立つ。

 鋭く睨み付ける瞳を、史明はどうにか見返した。

「どうやってここに?」

「指輪」

 ただ淡々と、石で空間を繋げるのだと、潦史は言った。史明と出会った [ むら ] で結界に使った、指輪の黄色い玉を媒介にしたのだ。その指輪は、今も史明が握り締めている。捨てることもできず、持ち続けていた。

 それなら何故もっと早く来なかった、と訊くと、やはり淡々と答えた。

「名前を呼ばれたら、判る。逆に言えば、呼ばれなきゃ判らない」

「そうか」

 史明は苦笑したが、潦史は、それを無表情に眺めるだけだった。

 しばらく、沈黙が降り立った。

「薬を盛ったのはお前か」

「ああ」

「何故」

 静かに怒っているようにも、深く傷ついているようにも見える眼を見上げて、史明は小さく笑った。疲れたような笑みだった。

「お前たちと知り合ったときの、あのでかい牛の化け物。あれを殺した奴が言ったんだよ。俺が結界の中で、馬鹿みたいに突っ立ってたときにな」 

『妻と娘が恋しくないか?』

 男は、こちらを透かし見るような嘲るような眼で史明を見ていた。

『あいつを動けなくしろ。それだけで、二人をお前にやろう。悪い話じゃないだろう?』

 どこで調べたのか、本当のことを言っているのかは、判らなかった。

 その上で、はじめからそのつもりで二人について行こうと思ったのかは、今となっては定かではない。潦史たちの旅が、面白そうに思えたのは確かだ。しかし、数ヶ月の間に、男の放った言葉がゆるゆると、しかし確実に染み渡り、効果を発揮したのも事実だ。

 眠ったまま目を覚ます気配のない潦史とヒラクを前に、史明は軽い虚脱感と、あの男は現れないのではないかという希望と不安の混じった感覚を抱いていた。現れないなら、誤魔化しようはある――あった、かも知れない。

 しかし男は現れ、約束通りに二人は「戻って」来た。

 話し終え、やはり力無く笑う史明を、潦史は見ていた。

「あの二人が生者 [ セイジャ ] ではないということは、知っているのか」

「…馬鹿でも、気付くさ」

 苦い思いで、史明は目を逸らした。それでも、潦史が肩をすくめるのが判った。 

[] って三年というところか。それ以上は、お前の命が保たない。そのことは?」

「いや…。だが、大方そんなところだろうとは思ってた」

 命の代理、代用は、やはり命ということか。しかし、三年というところが、故意か偶然かは知らないが皮肉めいている。

「なあ。図々しい頼み事だとは思うんだが、見逃してもらえねえか」

「本気か」

「冗談を言う気分じゃねえ」

「…術式は、簡単に解けるのにか?」

「笑うか?」

 自嘲するように表情を歪めた史明を見据えたまま、潦史は首を振った。一度躊躇ってから、口を開く。

「失ったものを求める気持ちは、俺も知っているから」

 狂おしいほどの、生きるという本能さえ無視してしまう感情を、潦史も知っている。

 だから、そのことで史明を責めることは、潦史にはできなかった。結果は違っても、一歩違えば自分なのだと思うと、駄目だった。

 甘いという自覚は、十分にある。

 二人は、どちらからともなく山を下りだした。史明は、潦史が現れたのと同様に姿を消さないのを少し不思議に思ったが、特に気にはしなかった。聞きかじったことがあるだけで、術や道士のことには詳しくないのだ。何か制約があるのだろうと、思うだけだった。

 家に戻ると、妻が娘を抱いて待っていた。慌てて潦史のことを弁解しようとした史明に、妻は笑い掛けた。

「おかえり」

 何気ないはずの言葉に、史明は息を止めた。知っているのだと、そして答えを出してしまったのだと、判ってしまった。上手く、呼吸イキができない。

「ねえ史明。私、怒ったよ」

 穏やかに、妻は言った。顔を上げて、史明の眼を覗き込む。

「恨んだ。死にたくなんてなかったから。酷いって、思った」

 九年前の、あの光景を思い出す。間に合わなかった。梨華と一緒になっても桃梨が生まれても、真っ当に生きようとはせず、それでいいと思っていた史明は、完全に間に合わなかったのだ。酒場で話を聞きつけて急いで戻ると、二人は疾うに絶命していた。明らかな商売敵の見せしめに、全てを失ったと気付くにはもうしばらくかかった。

 二人の亡骸を前に、史明は泣くことさえできなかった。

「でもね。あなたを選んだことだけは後悔してないんだ。不思議と。もし時間を戻せても、やっぱり私は史明を選んだよ」

 泣きそうに、揺れていた。その眼から、史明は目を逸らせずにいた。 

「少しだけど、また一緒にいられて嬉しかった。また会えて、嬉しかった」

「…で。終わりみたいに……まだ時間はあるんだ、まだ…一緒にいられるんだから…!」

「駄目よ」

「何だってする。二度と、あんな事はさせない。今度こそ、絶対に護るから!」

「史明」

「頼む…側にいてくれ…」

 すがりつくように抱きしめると、圧迫されて、娘が目を覚ました。大きな声で泣く。

 妻は、目を閉じて史明に寄りかかった。

「できないよ」

 子供の泣き声が、大きく響き渡った。

「史明。私たちに、あなたを殺させるつもり?」

 呼吸イキが止まった。

 そうは考えていなかった。だが、それでもいいと思っている。それくらいしか、できることはないのだから。それなのに――見つめる [] が、怒っていた。

「ただの罪悪感だとしても、私たちのことを忘れずにいて、呼んでくれたのは嬉しかった。凄く。戻ってこられて、私、幸せだったよ。――だからあなたは、生きて。私たちを忘れてもいいから。お願い」

 微笑んで、梨華は潦史を見た。肯いて、潦史が史明に向き直る。

「いいな」

「…梨華」

「やっと名前、呼んでくれた。昔みたいに」

「梨華。ごめん………!」

「うん。いいよ。許してたから、ずっと」

 ゆっくりと、空気が夕焼けに染まっていくような時分のことだった。

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