四章

 そうして麗春 [ レイシュン ] 潦史 [ ラオシ ] は、明鈴 [ メイリン ] について屋敷の一室へと踏み入った。気を許しているらしく、明鈴に並ぶ麗春の表情は、柔らいでいた。

「改めてご挨拶申し上げます。お目にかかれて光栄です、李大人 [ リタイレン ]

「…麗春?」

 作法に則って平伏する明鈴の傍らで、麗春は肩をすくめた。

「私も、大仰な挨拶なんていいって言ったのだけどね。家を挙げないだけましと思いなさいって諭されちゃった」

「それはそれは。で、用件は何なんだ?」 

 躊躇うように視線を逸らした麗春はだが、観念して潦史を見た。困っているというよりも気が進まない様子で、わずかに顔を顰めている。明鈴は、作法通り顔を伏せたままだ。

「縁談が持ち上がっているのよね」

「誰に?」

「私」

 考えてみれば不思議でもなんでもない、むしろ遅いような話なのだが、潦史は、驚いて意味もなく瞬きを繰り返した。麗春は、少しばかり気分を害したようだった。

「今までも、主に大二兄から話は来ていたのよ。でも今度は、どうにもしつこくて。それならそれで、どうせ半ば以上破門されている状態だし、あの人たちが選ぶ以外の人を夫に選ぼうと思うのだけど、なかなか。悩んでいたら、姐姐 [ シェシェ ] が話に乗ってくれたの。形だけでも、光柳 [ コウリュウ ] さまと婚約しているということにしたらどうかって」

 当の本人は、そんな事態を知っているのだろうか。先ほどの態度から察するに、光柳自身は本当の婚約を望むはずだが。

 だがその疑問の前に、潦史は、顔を伏せたままの明鈴を険しく目つめた。

「何の思惑がある? 俺も麗春も、暮らしに不自由はしない程度でしかないが?」 

「友人を助けるのに、殊更の理由が必要でしょうか」

「それなら、礼を取る必要はありません。俺は、ただの道士です。むしろ、こちらの無礼を許して頂かなくてはならない。貴女のような人が麗春の友人なら、心強い」

 顔を上げた明鈴に笑い掛けると、麗春が、安堵するように息を吐いたのが判った。

「だが実際問題、兄たちの持ってくる話に横槍を入れるようなことをしては、睨まれますよ。それなのに婚約だけというのは、友情にしても過分ではありませんか?」

「だからといって友を見捨てるなら、 [ リュウ ] 明鈴の名が [ すた ] ります。そもそも、柳家は冷遇されて久しいのです。大きな問題ではありませんわ」

 見かけによらず、肝が据わっている。考え方が義侠 [ ぎきょう ] のようで、気に入りはしたが、柳家の行く末を、少しばかり心配してしまう潦史だった。

 そうして再び妹に目を向けたが、その後ろで戸が引き開けられた。逆光に、長身のがっしりとした体躯 [ たいく ] の男が浮かび上がる。光柳だ。

「兄様。失礼ですよ、無断で入るなんて」

「すまない。しかし、侵入者が…。明鈴、今度は何を始めた?」

「まあ、人聞きの悪い。それに、そのことは不作法の言い訳にはなりませんわ」

 口調は柔らかく、その実手厳しいことを言って、明鈴は潦史を見やった。目線で任せる、と告げると、小さく頷くのが判った。

「兄様、麗春に庭を案内してくださらない? 趣向を変えたら、見たいと言って」

「お願いします、光柳様」

 麗春がにこりと笑うと、光柳は、尾を振る犬のように肯いた。

 軽やかに立ち上がった麗春に手を貸して、光柳が身を翻す。まだ侵入者の残りが隠れていないとも限らないから決して離れないように、と言っているが、目的は明らかだ。

 潦史は、心の内で「いい奴そうなんだけどなあ」と小さく呟いた。兄としては、少し複雑なところだ。年長者然とした穏やかな微笑みを浮かべる明鈴から、少しの間決まり悪げに視線を逸らしてから、潦史は顔を上げた。二人は既に、立ち去っている。

「兄君は、ご存じないのですか? 侵入者は、兄の差し金で?」

「ええ。話が進むまで、下手に知らせないほうがいいと思いまして。方々 [ カタガタ ] には、既に知られてしまったようですけれど。ああ、だけど、あなたが李潦史様だということだけは言えませんわね。言うと、どんなへまをしでかすかわかりませんもの」

「は?」

 意味が判らず首を傾げると、明鈴はいたずらっぽく笑った。そうすると、潦史とそう年齢が変わらないだろうことが実感される。

「兄にとって李大人は、最大のあこがれの人なのです。その上、名実ともに小妹 [ シャオメイ ] の兄上ともなれば、どんな突飛なことを仕出かすか、考えたくもありませんわ」    

 明鈴の台詞 [ セリフ ] に、潦史は肩をすくめて見せるにとどまった。物好きもいるのものだ。

「気を悪くされました?」

「いえ。それよりも、今の状況を詳しく…」

大人 [ タイレン ] ?」

 途中で言葉を止めた潦史を、明鈴が不思議そうに見た。だが潦史は、目を閉じて耳を澄ましていたかと思うと、斜め上の中空を凝視して、突然立ち上がった。思い出したように、目線を明鈴に戻す。

「すぐに戻ります」

 それだけ言い置いて、潦史は部屋を後にした。女の姿をしているということは、その頭からは抜け落ちていた。

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