三章
森に入って数日後、ようやく結界を解いて草木も元の位置に戻すと、近くの小川で体の汚れを落して別の邑へ向かった。その際、連絡係の結花が現われ、ある邑に妖が出没していることを告げた。
「いちいち、知らせに来るのか? たくさんいるんだろ?」
唐突に現れて消えた、幽鬼のように向こうが透けて見えそうだった結花に目を丸くして、ヒラクは潦史を見た。本人たちの意思には関係なく身長差のせいで、ヒラクが潦史を見下ろす形になる。少々腹が立つが、まさかかがんで歩けとも言えない。小さな不満を押し込めて、潦史は首を振った。
「今までと比べて不自然な出現のときだけ、知らせに来る。そこらへん、としか言っえないけど。あとはまあ、近くに強いのがいるときとか警告に。全部は無理だな、さすがに」
「不自然って、えーっと…強い奴、だっけ?」
「や、強いには強いけど」
以前に話したことを懸命に思い出そうとしたのは判るのだが、おそらくはヒラクの中でそうまとめられたのだろう結論だけ出されると、何か違う。潦史は苦笑した。
そして、背伸びをするように手を頭上に伸ばして、そのまま頭の後ろで組む。
「不自然っていうのが、今まで見たことのない種類とかそんなところにいるはずのない奴が出るとか。出来るのかどうかは知らねーけど、誰かがわざと増やしてるような感じでさ。ついでに言うと、天界の態度も煮えきらねーし。慎重になってるってのもあるんだろうけど、その割には、大きな術の使用まで認めて人界に降ろすし。なんかなあ…」
どうにも、天界の意図が読めない。人界への関与に慎重になるのは判るが、それにしても何か妙な気がする。その「何か」が判らないところが、潦史の気に障った。
手を下ろして、遮る物の少ない風景に目を細める。目指す邑は谷間にあるらしく、大分低いところに、人家と思しき建物や畑が点在していた。
「まあ、地道に生活してる人にしてみりゃ、どっちでも変わりないんだけどな」
半ば溜息に紛れさせて口にすると、潦史は、緩やかというには少しだけ角度のついた斜面をゆっくりと歩いていった。
途中、調子に乗って駆け下りてこけて転がったり、真似して派手に木に衝突したヒラクを大いに笑ったりして、形ばかり邑を囲む塀を抜けると、建物を構えた店がわずかに、台風でも来たら困りそうな民家が大量に立ち並ぶ。
小さいな、と呟いたヒラクに、こういった建物の店がこれだけあれば人の行き交いは盛んな方だぜ、と潦史が言う。店としての建物を建てて成り立つ邑よりも、民家しかなく、年に数えるほどしか訪れない商人や芸人を楽しみに待つ村の方が多い。
ここは、辛うじて「邑」と呼べる規模のようだった。
「妖が出る割にはにぎやかだな、ここ」
「そうなのか? これで?」
「ああ。前の邑が大きなところだったからそう見えねーだろーけどな。それよりも、とりあえず酒家に行くか」
「シュカ?」
「知らないか。酒飲んだり食事したり、宿を兼ねてるところも多いな。情報集めにはもってこいなんだぜ?」
楽しそうに言う潦史に、それだけでなく好きなのだろうと、ヒラクは察した。指で字を描かれ、前の邑で覗きはしたが入らず、だが楽しそうだと思ったところらしいと気付く。
店に入ると、潦史が一瞬顔をしかめたが、ヒラクには何故かわからない。にぎやかそうで、何があるのかと訊く前に、潦史は調理場に近い卓に座って店主に声をかけている。
「まず、古香酒ちょうだい。それと、何か食べるもの」
「つまみか、メシか?」
「メシ。水汁炊ある?」
「鷹の爪は?」
「入れて。二人分大盛りで」
ヒラクにはわからない単語が飛び交う。髪を短く刈り上げた四十代ほどの男は、「待ってな」と言って瑞々しい青菜を手際よく切り刻む。その合間に、洗い物をしていた潦史と同じくらいの年齢の娘に声をかけた。
「香蘭、古香酒をここに。あんたは飲まないのか?」
突然話を振られて、店の中を物珍しげに眺めていたヒラクは、しばらくの間気付かず、不思議そうに店主を見返した。
「俺?」
ヒラクが不思議そうに首を傾げると、店主も、訝しげに眉根を寄せた。そこに、ごく自然に潦史の声が割り入った。
「ああ、こっちには今年の香酒」
「なんだ、弱いのか」
「弱くない」
「じゃあ何だって新香酒なんだ?」
香酒は、新しいもののアルコール度数は低い。それが、三年目くらいを境に急に度数が上がり、あとは年を重ねるごとに高くなる。そのため、一般に新香酒は女子供、古香酒は酒飲み用と認識されている。
そしてヒラクは、酒に弱いのと戦闘で弱いのとを勘違いしている。むっとして、口を尖らせた。
「俺も――」
「いいから、まずは新香酒にしといて」
笑いを含んだ声で、潦史がヒラクの背を叩く。そうして店主に向き直った。
「この人、酒飲んだことねーんだよ。煽んないでくれる?」
「何、この年でか?」
店主は、驚くように眼を見開き、野菜を刻む手も止めてしまった。しかし無理もない。この国では、ほとんどの者が子供時分から酒を飲まされる。そこに身分の別はなく、そうやってある程度は飲めるようになるのだ。酔い潰れることは恥ととる風潮すらあった。
潦史は、笑顔で応えた。卓の下で、ヒラクに口を開かないようつついて合図する。
「この国の出じゃねーんだ。綿華国で育って。あそこは作るけど、あんまり飲まねーだろ? 果汁をそのまま飲む方が多いし。だから、これがはじめて」
「へー、綿華国から」
店主はどこか感心したように言い、野菜を刻む音が戻った。
「あそことここじゃ、大分違うだろ」
「うん、らしいね」
「らしいって、あんたは…」
「俺はここ出身。綿華のことは、話に聞くだけ」
軽く肩をすくめて話の終わりを告げる。店主も、それ以上詮索することはなかった。
「どうぞ。こっちが古酒でこっちが新酒よ」
新香酒と古香酒の瓶と杯を置いて、少女が笑いかけた。話を逸らすのにも丁度いいと、新香酒をヒラクの前に置いて、潦史は少女に笑顔を向ける。それに、なかなかの美人だ。
「ありがとう。親子?」
「やだ、わかっちゃう? 香蘭よ。いらっしゃい、お客さん」
「俺は潦史。なんとなくそうかなって思っただけ。親父さんに似なくて良かったな」
「それが自慢なの。ねえ、旅の途中? 宿は取るの?」
いかつい顔をした店主はむっつりと黙り込み、切った野菜を鍋に放り込んで手際良く調理を続ける。そんな父をちらりと見て、香蘭はいたずらっぽく微笑んだ。思わず、つられて笑みを返す。
「何日かは、ここにいるつもり」
「じゃあ、うちに泊まらない? 食べたら判るけど、父の料理の腕は保証するわよ」
「できたぞ」
「ありがとう」
図ったような間合いで出された料理に、潦史は早速匙をさし入れた。
卵を絡めて軽く炒めた米に青菜をまぶして更に炒め、とろみのついた野菜スープをかけた水汁炊。鷹の爪で、体も温まる。ヒラクはこの料理が気に入ったらしく、酒もそっちのけで食べている。潦史も、正直驚いていた。思っていたよりも美味しい。
酒の質もいいし飯も美味い。ここに宿をとってもいいかなと、明るく言葉のやり取りをしている親娘を見ながら考えた。
そうして食事を終える頃には二人の宿が決定し、ヒラクは、古香酒も飲めるが、甘味の強い新香酒の方が好きだと判明した。やっぱり綿華国の出身だなと、店主は笑った。
甘い物が嫌いではないが好きでもない潦史は、おまけにもらった桃煮をヒラクに譲り、嬉しそうに食べるのを肩をすくめて見ていた。手には、古香酒の入った杯が握られている。傍から見ると、十代の酒飲み少年はともかく、三十ほどの酒よりも甘いものの好きな男は、増してそれが一緒にいると、妙な光景だった。
「それ食い終わったら一旦出よう。おじさん、メシ代今払った方がいい? それとも、宿出るとき一緒に? そういえば、宿の半金まだ払ってないよな」
懐から布袋を引っ張り出して、とりあえず半金を渡す。店の主は、少しの間潦史を見て、首を振った。
「後でいい」
「そ? おい、いつまで食ってんだよ」
「あ、うん。なあ、なんで今は女の格好しないんだ?」
何気ないヒラクの言葉に、潦史は笑顔をひきつらせた。次いで、脱力する。
「…そうだけど。確かにそうだけど…っ!」
悪意がないと判るだけに、腹の立てようがない。今回は、どうやら積極的に人と関わる必要があるらしく、そうなれば、見かけだけで女と通せるはずもない。だが、ここで懇切丁寧に説明をするのは得策ではない。
笑顔を取り繕い、潦史は、聞こえただろうが知らぬ振りをしてくれた店主に向いた。
「今、宿帳書こうか? 俺の名は李浩。出身は青蘭」
それで理解したらしく顔色の変わった店主に背を向けて、ヒラクを半ば引っ張りながら店を後にした。役人に居場所をばらされても多少うっとうしいだけで、気でも使われるようなら宿を変えればいい。そう決め込んで、変装の必要を主張するというささやかな行為を重視した潦史だった。
|