三章

「ムスメがキタ。ヤクソクだ、モラッテイコウ」

 地鳴りのような割れた声に、あの音はこいつの声だったのか、それとも出現するときに出た音なのかどっちだ、と、些細な疑問を抱く。答えが出なくても何ら問題はないが。

 潦史 [ ラオシ ] 目掛けて伸びてきた大きな手が突然、止まる。しげしげと覗き込まれて、思わず潦史は微笑した。

「ナンダ…オマエ、チガウ…? デモ、ムスメの…」

「迷ってるけど気付いたってことで、種明かしをしてやろうか?」

「エエイ、チガッテもイイ!」

 握りつぶされそうな勢いで下ろされる掌から軽やかに飛び退き、ついでに羽織っていた女物の上着を脱いで、丸めて [ ほう ] の袖に入れる。嵩張るはずだが、そんな様子はなかった。

「せっかちだと損するぜ?」

 周家の娘の腕輪を外し、それも袍に入れる。ついで髪を解き、手櫛で [] くと束ね直す。

 その全てを、妖の攻撃を避けながらやってのけた。傍目にも、妖の苛立ちが判る。かわされるごとに周りへの被害も大きくなっていくので、史明はそれをはらはらして見ていた。民家はないが、それにしても大変な被害だ。

「我、李浩 [ リコウ ] の名に [] いて命ず。 [] たれ!」

 突然に、潦史はよく通る声で言った。

 そうして、自分の背丈の五倍はあろうかという妖の頭上に飛び乗る。牛に似た妖は怒って頭を振りかぶるが、潦史は、立派な角の片方に手をかけて持ち堪える。空いていた片手には、いつの間にか一振りの刀剣が握られていた。柄に見事な細工のある、美しい剣だ。

 抜き身のそれを、潦史は妖の眼前に突きつけた。下手に動けば、眼球がつぶれるだろう。妖の動きが止まった。

 それでも用心深く、潦史は角を握ったままでいた。

「誰の入れ知恵だ?」

「な…、ナニが…っ」

「周と取り引きして、家を栄えさせる代わりに娘の命を削り取っていく、ってとこか。娘が出向けばそのまま喰っていいとでも言われていたか?」

「ナゼそれを…」

 こういった気の長い取引は、一般に人型の妖の専門だ。この状態になってもどこか呑気なところのある妖の様子に、潦史はやはり吹き込んだ者がいるのだろうと、確信した。

「あの娘が果てたらどうするのか、決めてるのか?」

 黙り込む妖に、殊更に剣を示す。今にも眼球に突き刺そうかというときになって、待て、と呻くように言った。

「ムスメがクルかハテレば、オワリだ」

「終わったその後は?」

「…モトに、モドルダケだ」

 つまりは、栄えていた付けを払わされるということか。潦史は、柄を握り直した。

「それで、誰がその話を持ち掛けた?」

「…らナイ」

 言って、妖は細かく体を震わせた。

「ホントウに、シラナインだ! アレはナノラナカッタ、ただ、キヅイタライタンだ…!」

 それが、最後だった。

 地を揺るがして倒れる妖から、潦史は飛び降りた。妖は、首筋を切られて、肉を見せて鮮血を吹き出していた。潦史が斬ったのではない。手際がいいと、ひどく冷静に思う。

「あーあ。これだから、頭の悪い奴は面白くない」

 冷たいというよりは、蔑むような声。

 それは、史明の近くから聞こえた。妖には見えないはずだと思いながらも、潦史は危ぶまずにはいられなかった。ここで怪我でもさせたら、自分の不甲斐なさを痛感することになる。だが青年は、そのまま真っ直ぐに、潦史の元へと歩み寄ってきた。

 茶の癖毛は、前に見たときよりも伸びていた。瞳はやはり金で、白い服には飛んでいないが、右手には血が付いていた。

「お見事」

 剣呑な目を向けて、潦史は言った。自称、ヒラクの弟だ。

「ちっとも、見事だと思っているようには聞こえないね」

「聞き手の感覚の問題だろう。ヒラクはいないぜ」

「ヒラク? …ああ。そう呼んでいるのか。一つだけ、教えてあげるよ」

 青年は、見下すように、嗤うように眼を細めた。

「僕たちに名はない。名のない、何でもない、何でもあるもの。お前ごときが対等足り得るものじゃない。わきまえておけ」

「…ご忠告、どーも」

 斬りかかるのに躊躇いがあるのは、やり合えば自分も相応の被害を受けそうだと判るからか、ヒラクの弟と思うからか。多分後者だろう。いい加減、家族の幻想は捨てたいのに、と思う潦史だった。 

「忠告ついでに、もうちょっと教えてくれないか。お前が黒幕か?」

「さあ、どうだろう」

「出し惜しみはみっともないぜ?」

「似たようなものだとだけ、言っておこうか」

 くすりと、青年は笑った。

脩悠 [ ユウユウ ] よりは賢いみたいだ。少しは楽しめそうだね。――そろそろ、術を解いた方がいいんじゃないかな。夜明けが近い」

「お前は、早く帰らなくていいのか?」

 妖の中には、陽光に弱い者が多い。そしてその多くが、並の道士でもどうにかなる程度の者だった。もちろん、全てがとは言わないが。

 青年は、瞳を怒りにたぎらせながら、嗤った。

 こえー、と、潦史は心中で首をすくめる。恐れはしないが、気分のいいものではない。しかし、つい出た皮肉のせいで、要らぬ恨みを買ってしまったようだった。

「せいぜい生き延びることだけ考えておくんだな」 

「…お前もな」

 一瞬で姿を消し、既に言葉も届かない青年に宛てて、潦史は溜息混じりに呟いた。

 人界で何かが起きているだろうとは予想されていたことだが、それが更にややしくなるとは思っていなかった。妙な兄弟喧嘩のような感触だが、まさか、そんなものに巻き込まれることになるとは。一連の問題と繋がっているようだから、無視もできない。

 いっそヒラクごと放り出してしまいたい気もするが、一度関わってしまった以上、中途半端も気が退ける。更に言うなら、ヒラクに敵方の戦力として回られても困る。

 しかし結局は、ヒラク自身がどうするかだ。

 溜息を一つつくと、潦史は両腕をのばした。背伸びをすると、冷えた空気が心地いい。ひとしきりのびをすると、潦史は地面につま先で印を描いた。

印了 [ インリョウ ] [] く戻れ」

 潦史の声に応じて、空の色が塗り替えられていく。それまでは夜の闇空だったものが、潦史の頭上を起点に、みるみる明け方の空へと変わっていく。それと同時に、目覚めた人々のざわめきも、わずかにだが聞こえてきた。ややあって、瑠璃色の小鳥が飛んでくる。その鳥が潦史に向かって舞い降りた頃には、空はすっかり早朝のものになっていた。

 鳥は、潦史の元に降りる前に、倒れたままだった妖の体を一度、ついばんだ。途端に、妖の巨体がかき消える。そして小鳥は、迷うことなく潦史の肩にとまった。

学識 [ ガクシキ ] のところに届けてくれ。必要であれば、俺の名を使え。李浩だ。いいな?」

 甲高い声で一声啼き、瑠璃色の小鳥は空へと飛んで行った。

 軽く息を吐いて、潦史は飛び去った鳥に背を向けた。振り返った先には史明 [ シメイ ] がいるのだが、呆然と立ち尽くしている。潦史は、結界内にあっさりと手を入れ、四色の玉を拾い上げた。そうして突っ立ったままの史明を引っぱり出すと、糸を回収して、地面に描いた線を足で適当に消す。特にその必要もないが、なんとなくだ。

「おじさん、おじさん。どれに驚いてるか知らねーけど、とにかく帰ろーぜ。いい加減、疲れて眠い」

「お前っ、あの李潦史なのか!」

「そーだよ。ほら、帰るぜ」

 興奮気味の史明を半ば引きずり、潦史は宿へと歩いていく。四つの玉はひとまとめに元の小袋に入れ、それも袍に入れる。入れたものが全く嵩張らない、これも術式の一つだ。

「なんだよ、そうならそうと早く言ってくれよな」

 潦史――李浩のことは、多くの人に知られており、道士になった、いや仙人になったと言い交わされている。まだ生きているのに半ば伝説の人物となっているらしく、道士でしかない自分を奉った [ ほこら ] が存在し、仰天したこともある。幸い、まだ神になるほどには至っていないようだが。

 史明に痛いほど肩を叩かれ、潦史は深々と溜息をついた。とにかく今は、眠りたい。


 その後。

 何も知らずに目を覚ました周家の娘は、男二人の眠っている見知らぬ部屋にいることに驚いて悲鳴を上げ、眠り足りない潦史に睨まれて怯え、階下で朝食を食べていた治工 [ チコウ ] やヒラク、香蘭 [ コウラン ] に宥められたとか。

 事情を話し、考えた末に戻ることにした娘が宿を後にした際に、ヒラクに名残惜しそうな一瞥を残していったことで、潦史にいいとこ取りだなと、さんざんからかわれたとか。

 酒場でついつい史明や治工の仲間共々深酒をして、もう一泊する羽目になったとか。

 翌朝起きると、周家の娘の口から広まった「李潦史在中」の報に [ むら ] の多くの人が一目でも見ようと詰めかけ、出るのにも一苦労だったとか。その中に刺客も混じっていたとか。

 全てひっくるめて放り投げて、潦史たちは邑を出た。

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