三章

 既に [] は沈みきっており、人々の多くは眠りについている。酒家 [ しゅか ] も閉まっているので、今頃外を出歩くのは、よほど先を急ぐ者か酒で酔いつぶれ、まかり間違ってこんな時間に千鳥足で帰ろうとする者くらいだ。他には、夜行性の獣か妖の類か。

 そこを、欠けた月明かりを頼りに、良家の子女の外出着のような薄物を身にまとった人影と、対照的に、動きやすさ重視の簡素な服を着た人影が並んで歩いていた。

 二人――潦史 [ ラオシ ] 史明 [ シメイ ] は、黙々と歩を進める。

 歩きながら、潦史は星空を見上げた。月の光に押され気味ではあるが、溺れるほどの小さな光がある。足の動きに従って、身を包む布や、ゆるく編んだ髪が軽やかに揺れる。

 その隣で、史明は溜息をついた。

 今は顔も頭もさらしているのだが、そのせいでどうしても、潦史の紅をひいた唇やつり気味の切れ長の眼、長いまつげなどが気になってしまう。こんなことなら、手元にあったからといって、遊んで紅をひかせるのではなかった。

 髪を整え服を替え、豪奢な腕輪にひかれた紅。気付けば、隣を歩くのは「少年」ではなく「少女」になっていた。しかも、その上に「美」の修飾語がついてもおかしくない。本物の美少女なら役得とも思えるだろうが、これでは意識してしまう自分が虚しいだけだ。

 自業自得とはいえ、しっかりとヒラクと残った治工 [ チコウ ] が、少し恨めしい。

「いっつも、不思議になるんだよな」

 星の光に目を奪われたまま、潦史はぽつりと呟いた。

「星神っているだろ。人は、星の化身が星神なんだと思ってる」

「違うのか?」

「違わない。星神は確かに、あれらの星の化身だ。そのものだって言っていいかもしれない。直接聞いたから、多分それはそうなんだ。でも…でも、別物だと思うんだ」

 史明が黙ったままでいると、語を次いだ。

「星神は星で、星がなくなれば死ぬ。でも星は、星神がいなくても変わらないんだ。星神が先に死んでも、何ともない。でもそれも、変な話だろ? 全く同じなら、そのときに星だって死ぬはずなのに。…神々は、何から生まれるんだろう。人が元になってる神もいる。人から神に、人から道士に、仙人に。でも、そうじゃなくて始めから神の奴は? それそのものでもないのに、じゃあ何なんだろう。――そこらへん、妖と似てない?」

 あまりの言葉に絶句する史明に構わず、潦史はようやく視線を前に戻した。 

 史明は決して信心深くはなく、道士はともかく仙人や神となると、いたからどうしたとしか思えない。しかし妖は、割合身近だ。そしてそれがもたらすのは破壊だけであり、神と同一にできるものではないと、深く考えもせず思う。

 しかし潦史は、続けた。真っ直ぐに前を見据えながら、淡々と。

「強いのになると人の言葉も話せるし、頭も切れる。能力だって、神とそう変わらない者だっている。生まれも判らない。どうなんだろ。神との違いは、どこにあるんだろう。残虐で思慮のない神だっているのに」

 史明は、それまでの自分の思い違いに気付いた。この少年は、ただのちょっとくらいは腕の立つ道士なのだと思っていた。薬や厄除けを売り、祈祷や妖退治も行う道士。そんな、腕が立つ点では珍しいが、ありふれた存在なのだと。

 しかし、そんなはずがない。

 考え方そのものも変わっているが、何より星神に直接聞いたと言った。奇跡や努力の末ではなく、ごく当然のように。むしろ、口を滑らせている風ではないか。それは、ただの道士や巫女であれば、考えにくいことではないか。

「――って、変な話したな。ごめん、忘れといて」

 急に、悪戯の見つかった子供のような調子になる。

 そう言われたところで忘れることもできないのだが、史明はとりあえず肯いた。訊きたいことはたくさんあるが、自分でも不思議なくらいに、不安定ながら居心地のいい今の状態を崩したくないと思っていた。一度壁を造ってしまえば、史明と潦史の立つ場所が違うと思っていると知られてしまえば、今の状況はなくなるのだと、何故か確信していた。それなら、丸ごと認めている振りをするくらいは容易い。

 努めて、呆れた声を出す。

「しかしなあ…お前、俺にそんなに喋っていいのか?」

「言ったじゃん。俺、あんたのことけっこー好きだって。話しやすいんだよなー」

「そういう問題か?」

 下手をしたら、何かしらの立場を悪くするのではないか。そんな史明の考えを察したかのように、潦史は右の口の端を引き上げて笑った。今の格好では、妖艶さすら漂う。

「それに俺、本当に知られて困ることは口にしない。基本的には、誰も信じないから」

 あまりに淡々とした声に思わず顔を見たが、その表情にも、特に変化はなかった。自分は、このくらいの年齢で表情を隠すことができただろうか。鈍い痛みとともに、史明はそんなことを考えた。

 その間に、潦史は足を止めて史明を振り仰いだ。

「おじさん、行き過ぎじゃねーの? これ以上行くと [ むら ] 出ねー?」

「ん? あ、ああ。そう…何の音だ?」

 史明が通り過ぎかけた破れ小屋の辺りから、低い、振動や地鳴りに似た音がしている。

 周の持つ土地や建物を中心に歩こうと言われてここまで来たのだが、こんな音に心当たりはない。地震か、と思いもしたが、地面は揺れていない。気付いて、もしかしてこれが、と潦史に訊いた。

「うん。そこら辺、立って」

「何だ?」

 言われたままに、いくらか小屋から離れた場所に立つ。その間も、音は続いている。

「結界張る」

 短く言って史明の足下の地面に、指で円を描いた。その上から更に糸を引き結ぶと、四方向に一つずつ、四色の玉を置く。最後に、史明に黄色の玉のついた指輪を渡した。

「これ持って、声は出すな。それと、この線から出ないでくれよ。瓦礫なんかは大丈夫だけど、妖が倒れてきたら、全力で逃げてくれな。そのときは宿で落ち合おう。無防備な状態で下手に近場にいたら、邪魔だから」

「…なんか、随分な言われようだな」

「それくらい危険だってこと。まあ、死んだら、葬式はちゃんと出すからさ」

「おいおい…」

 冗談とも本気ともつかない口調に、史明が情けない表情になる。それでもどこかで、大丈夫のような気がした。潦史は、ただ肩をすくめた。

 徐々に大きくなっていた音がいよいよ高まる。邑の人々が起きてこないのが不思議なところだが、それも、小屋が崩れて、止んだ。逆に、痛いほどの静寂が訪れる。しかし史明は、それよりも、小屋のあった場所に立つ異様な影に呆然としていた。

 直立した牛、というのが一番近いだろうか。尾が蛇に似ていたり鴉に似た小さな羽がついていたりいやに尖った牙があったりするが、全体を見ると牛に似ている。背丈は、史明の四倍くらいはありそうだった。そうすると、潦史に至っては五、六倍はあるだろう。

「こんな奴見たことねーけどなー…」

 呟きを残し、潦史はその場を離れた。恐れる風もなく、化物に近寄る。

 観察に十分とはいえない月明かりだが、潦史には、瞳が赤いことまではっきりと見て取れた。赤い瞳が、潦史を捕らえる。その濁った双眸は、人のもののようにも見えた。

 尤尤 [ ユウユウ ] 綸可 [ リンカ ] にも似ているが、違う。潦史は、訝しげに眉をひそめて見据えた。相手が巨体なので小人になったかのような気がするが、そのことに留意はしても、怯えはしない。それでは、意味がない。保たない。

 妖は、にたりと笑みを形作った。

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