二章
「…待ってるかな―。怒ってないといいけど」
上手い具合に人の間をすり抜けながら、潦史は小走りに駆けていた。午刻の鐘は、既に鳴り終えている。
潦史が急ぐ羽目になったのは、ヒラクとの約束に遅れたからだが、追っ手を撒くためでもあった。この追っ手は、潦史の出自に関係のある者ではなく、潦史を女だと思い乱暴しようとした輩だった。一人をのしたところ、仲間を呼ばれ、こうして追いかけられる事態になっている。情けない上に、腹も立つ。
無闇に術や術式も使えず、とりあえずはまいたつもりだが、そう大きくもない邑だけに、簡単に見つかるだろう。早いところここを出てしまおう。
不意に視界が開けて、木の幹に寄りかかるようにして立っているヒラクが見えた。一層、足を早める。
「悪い、待たせ…これ誰?」
「ごめん! たおれて、ほっとけなくてっ」
てっきり怒られるなら自分だろうと思っていた潦史は面食らって、ヒラクとヒラクの抱えている男を見比べた。
意識を失っているらしい男は、潦史よりも年上で、ヒラクよりは年下に見えた。柔らかそうな茶の癖毛と力が抜けて投げ出された手足に、どこか猫を連想させられる。
「小さな親切大きなお世話、って」
「え?」
「妖と渡り合うような生活だってのに、下手に親切心出して巻き込んだら悪いだろうが! 即、叩き起こしてどうにかしろよ!」
ヒラクが、困惑したように潦史を見た。その表情に、ああ、と呟いて、潦史は少し俯いた。やはり苛立っている。一度、息を吐いて気持ちを整えた。
「ごめん。遅れたことも。でもとにかく、起きてもらわねーと。揺すったら起きねー?」
言われてヒラクがおずおずと肩をゆすると、かすかに声をもらした。
やがて意識を取り戻した青年は、緑にも見える不思議な色合いの灰色の瞳をしていた。
「大丈夫ですか? 頭とか体とか、痛いところがあれば言ってください。そういや、ヒラク。どうやって知り合ったんだ?」
「ヒラク…?」
青年が訝しげに首を傾げたが、とりあえず無視しておく。ヒラクには、呟きすら聞こえていなかった。
「そこらへん見てたときに、隣で倒れたんだよ」
「そいつはまあ…って、まずい、逃げるぞ。あなたもとりあえず、一緒に来て!」
「見つけたぞ!」
女(と思い込んでいる)一人を追い回す情けない集団から逃げて、三人はあわただしく邑を後にした。近くの林に駆け込むと、さすがにどこまでも追いかけるつもりはないのか、男たちは渋々と引き返すようだった。
見知らぬ青年を巻き込むのは不本意だが、一緒にいるところを見られた状態で放って行くのも無責任だろう。運が悪かったと諦めてもらおう、と半ば開き直った潦史だった。
「あいつら何?」
「んー? 邑のごろつきってのかなー。女に間違われてしつこく迫ってくるから鬱陶しくて、つい手が出ちゃってさー。いや、参った参った」
ヒラクの呆れたような眼差しにふてくされながらも、買い込んだ荷物を地面に下ろすと、被り物を下ろして、編んでいた髪をほどいて束ね直す。
唐突に、青年が声を上げた。
「女の方だったんですか」
「違う!」
何聞いてんだよ、と、溜息をつく。時々女に間違われ、それを逆手にとりもする潦史だが、こういうときはいつも、三年後を見てろよ、と思う。しかしこれは幼少時からのことなので、実は、この先ずっとこんなだったらどうしよう、という不安も密かにある。
もう一度深深と溜息をつくと、潦史はその考えを頭から追い払った。
「巻き込んでしまってすみません。あの邑には、何か用が?」
「いえ、こちらこそ。倒れてしまったところをありがとうございます。陽に弱いもので、どうも…。邑には、見物がてら買い物に行っただけです」
「そうですか。しかし、申し訳ありませんでした。これ、良ければ使ってください」
潦史の被っていた生成りの布とは異なった色の布を青年の頭にかぶせる。そうして、返事を待たずに先を続ける。
「それでは、旅の途中ですので失礼します」
「え」
素早く荷を拾い上げて軽く一礼すると、潦史は林の奥に進んだ。慌てながらも、もう倒れるなよ、と言って、ヒラクもその後を追う。残された青年は、頭から布を被ったまま、呆気にとられたように立ち尽くしていた。二人の姿が、完全に見えなくなるまでは。
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