一章
「お主の子を、わしに預けてみぬか」
潦史が生まれたとき、父はそう言われたらしい。厳しいはずの警備を飄然とかいくぐり、現れた老爺。神仙だと思ったという。
後年、そう語ったところ、息子はふくれっ面で、「それってさー、ほんとだったからいーけど、魔物だったら今頃俺、死んでんじゃん」と言い放った。薄情とのレッテルを貼られた父は、苦笑を返すに留まった。
裏面を言えば、たとえ魔物でも、一縷の望みをかけて託したかもしれなかった。王位に就くとの予言を受けて生まれた潦史は、兄やその母、母方の親戚などから命を狙われていた。その上、女官でしかなく後ろ盾のない、おまけに産後の肥立ちが悪く亡くなってしまった母をもったラオは、「神のうち」と呼ばれる七歳未満で殺されただろう事は、容易に想像出来たのだ。
八歳になってからは毎年一度は訪ねてくれる息子を、父は心待ちにしてくれていた――らしい。亡くなる、その最期まで。
父にはとても可愛がられていた。宮中しか知らない自分と違い、思うがままに生きる子を、羨ましくも思っていたのかもしれない。
しかしそんな父も、もうないのだった。
「あーっ、つっかれた――っ」
一面緑の地面に倒れ込むように寝転んで、潦史は梢で見えない空を仰いだまま、少しの間目を閉じた。
どれだけ金ばらまいてんだと、声には出さずにぼやく。多分に、呆れが混じっていた。
刺客を放ち、賞金をかけ、役所にも手配して。そこまでしなくても、という考えは、本人にとっては至極真っ当なものだった。
仙界にでもこもっていれば問題はないのだが、近年増えた妖狩りを行なう身としてはそうもいかない。この程度は覚悟のうちとはいえ、どうにも面倒で仕方がない。
溜息をつくよりも先に、思いついて言葉を探す。
「えーっと。天呼! 俺今、罪状どれくらい?」
潦史の呼び声に応じて、子宝祈願の人形のようなものが現れる。中空に浮き、手には巻いた書と墨のたっぷりと含まれた筆を持っている。
天呼には、人の死後の賞罰を決める材料となる善行や悪行を記す役目がある。ちなみに、人以外の生物を担当しているのは地呼だ。彼らが幾人いるのか、それとも一人なのか、個人的な付き合いもある潦史も知らない。
仙人として生死の輪から離れることもできる潦史だが、今のところは人として留まっているため、天呼も記録を続けている。
これは、ただの興味だ。
童結いの地呼は、外見に違わず、童子のような声を発した。
「凄いよ。善行悪行ともに、一般をはるかに越える数だよ。全部読み上げようか?」
「例えば?」
「えーと。今朝、宿でおかずつまみ食いしたでしょ。小石を蹴り飛ばして、人に当てたのに知らん振りを決め込んだ。道に投げ捨てた木の実、あれ、そのあと子栗鼠が齧ってのどを詰まらせたんだよ。それにね、えーと」
「それ、ろくでもないのばっか選んでないか? あー、もういい、ありがと。上で誰かに会ったら、『僕は今日も元気です』って伝えといて。特に、新羅天あたりに」
「…嫌がらせ?」
「おう」
ただでさえ問題児で、その上今回穢れ役となった潦史を、必要とはしても好ましく思っていない者は多い。その表立った一角が、新羅天と呼ばれる神だった。もっとも、飽くまで表立っては、の話だが。
「あ、天呼。いーもんやるよ。じーちゃんとお茶でもしてこい」
以前買っておいた果実を乾燥させた干菓子を、投げ渡す。
潦史を仙界へと誘った老爺、天敬尊は、度をこしかねない甘党だ。潦史が今回の任に就く為の推薦を承認してくれたのは、人界で甘いものを買い集めさせるためだったのではないか、との疑惑さえ抱くほどだ。
「ついでにこれ、李天塔に渡してくれねーか?」
知り合った人に譲ってもらった文鎮を渡す。掌にすっぽりと収まるが、見事な龍が掘り込んである。
李天塔と呼ばれる武神は、今や潦史の必須武器となった剣をくれた。便利な(と、潦史は認識している)神剣だ。その礼に潦史は、行く先々で李天塔の気に入りそうな細工物を見つけると、なるべく手に入れるようにしていた。
「それじゃあ、潦君、無茶はしないようにね」
両手に荷物を抱えて、福福しく笑った天呼は姿を消した。
寝転がったままだった潦史は、もう一度目を閉じると、反動をつけて撥ね起きた。地面に刺したままだった剣を引き抜くと、血や土をぬぐい取り、ぴくりとも動かない屍を見やる。今日目覚めてから一番の悪行は、これに違いない。
溜息をつくと、手際良く金品を取り上げ、枯れ木を適当に折って土を掘り始めた。
術で地神の坤天子の名を使ってその眷属に掘らせる、あるいは術式で穴をあけてもいいのだが、このくらいは自分でやりたかった。自己満足だとの自覚はある。しかし、自分が納得しなければ、前には進めない。
「とわっ?」
適当な穴を掘り、六人分の遺体を埋めようと跳び上がった潦史は、思わず奇声を発していた。近くに転がった死体を、蓬髪の薄汚れた人――のようなものが喰っている。
的確に急所を突いたためにさほど傷ついていなかった遺体が、無残に食い荒らされている。好きな部位でもあるのか、六つとも全て、同じようなところに、歯で噛み切ったような痕がつけられていた。
えーっと、と呟きかけて、慌てて言葉を飲み込む。無駄に厄介事に首を突っ込む気も必要もない。さてこの場合、どうしたものか。穴に戻って身をひそめるか、静かにこの場を立ち去るか、妖と判断して攻撃するか。
最後のは避けたいなあ、でも問題になっている妖だったりしたら、後で何を言われるか。人とは思えないけど、普通の妖とも思えない。厄介だなあ。
そんなことを考えていると、黄金色の瞳と目が合ってしまった。
「いや、俺通りがかっただけだから。じゃ。…って、ダメ?」
獲物を狙う獣そのものの相手に対して、潦史は深深と溜息をついた。面白くもない冗談でも言ってしまった気分だが、それを早々に切り替える。
「正当防衛だからな。――来々」
右手の親指を立てて、それに直角になるように中指と人差し指を伸ばし、薬指と小指を内側に曲げる。中指と人差し指を黄金の眼の者に向け、次いで、天に向け、短く叫ぶ。叫ぶのと同時に腕ごと振り下ろすと、その示す軌道に沿って、雷がはしった。
並の道士であれば、中指と人差し指の間に符を挟んで行う。「符揮」と呼ばれる術だ。
上級者になれば、潦史のように符なしでも行える。そのときに引き起こされる現象が召雷か召炎か、あるいはその他の何かか、また威力はどのくらいかというのは、全て術者にかかっている。符によって行なうときは、符の種類に依る場合が多い。
雷が落ちて、発火こそしなかったが、煙が上がる。
「…埋めるか」
身動きしない焼き焦げた物体を前に、潦史はそう呟いた。
先の六つの死体をまず、掘った穴の底に並べる。通常、体の一部を失った死体には代わりに布を詰めるのだが、潦史はそこまで親切でも閑でもない。これだけでも偽善がすぎると、自分でも思うほどだ。
飛び入りの七体目に手をかけたところで、潦史は動き止めた。蓬髪の汚れた顔を凝視して、おもむろにそれの首筋に手を当てる。そして、うーん、と唸って腕を組んだ。
しばし迷った末に、中空に目線を上げる。
「学識! 学識、ちょっと来てくれ」
「なんですかあー」
茶に呼ばれていたのか、先ほど天呼に渡した干菓子を両手で抱えて、やはり小さな人形のようなものが現れる。学者のなりをした人形だ。食べるのを邪魔をされたせいか、幾分むくれていた。
しかし潦史は構わず、落雷で気絶しているものを示した。
「こいつが何か判るか?」
「…どうしたんですか、これ」
学識は、大きく眼を見開いた。邪魔をされたことなど忘れたかのように、その瞳からは好奇心や探求欲といったものが読み取れた。
学識は、神仙界――天界の知恵袋のような役目を負っている。わからないことを訊けばまず答えてくれるし、わからなくても、本人の旺盛な知識欲で答を見つけるなり推論を立てるなりしてくれる。
その学識は、今、固い干菓子を握りつぶす勢いで掴み、倒れている者のあちこちを引っ張り、つつき、いじっている。
その様子に、潦史は苦笑をもらした。
「おーい、一応まだ生きてんだぞ」
しかし、潦史の言葉は学識には届かなかったらしい。学識がつつくのを止めて顔を上げたのは、随分と経ってからのことだった。興奮にか、わずかに頬が上気している。
「見たところ、雷獣と人と天狗と神龍を足して、三つに分けたような感じです。珍しいですよ、これは!」
「四じゃなくて三で割るのか?」
「はい。凄いですよ! 連れて帰っちゃ駄目ですかね?」
「止めとけ。多分、虎番が入れてくれないって」
律儀に忠実な門番を思い出してか、浮かれていた学識は溜息をついた。
弟子入りを認められた道士でさえ、少しでも不審なところがあれば追い返しそうになる虎番のことだ。妖の混ざった者など入れるはずもない。学識は、珍しいのに…と、残念そうに呟いた。
潦史は、それをあえて無視した。付き合っていては話が進まない。
「性格とか戦闘能力とか、判るか?」
「わかりませんよ」
あまりにあっさりと言われ、がっくりと肩を落とす。学識は、心外というかおをした。
「だって、もともとの素質はある程度予想出来たとしても、性格なんて育った環境がものを言うんですよ。当然、戦闘能力だってそれに付随するんです。そのくらい、潦君だってわかってるはずじゃないですか」
「ああ…そうだよな。ごめん、ありがとな」
訊いた自分の方が間抜けだったかと、潦史は素直に頭を下げた。それなりに付き合いのある学識は、にっこりと笑うに留まった。
「では、また何かあったら呼んでください」
空間に溶けるようにして学識が姿を消すと、潦史は溜息をついた。足元に転がるものを見て、再び溜息を吐く。
とりあえず、六つの死体を埋めるべく、潦史は立ち上がった。
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