一章

 窓の反対側の寝台にそれを投げ出すと、潦史 [ ラオシ ] は、半ばその反動にしたがって、隣の寝台に体を投げ出した。

 自分よりもふた回り以上は大きそうなヒトガタのそれを背負っての移動は、さすがに疲れた。禁呪 [ じゅごん ] を使って重さを禁じることで軽くはしたが、体積はどうにもならない。

 風の術でも使えば楽だったのだろうが、始末すべきかもしれない者の為に力を借りるのは気がひけた。かといって、潦史自身の術式では、長時間浮かばせた上の移動の維持は、体力の消耗が著しい。

 結局、直に引っ張って行くのが一番無難だった。

「あーもう。厄介事ばっか!」

 道観 [ どうかん ] に宿を求めると、潦史と似たような年だろう十六、七の青年が、黒い人のような物体を背負った潦史を見るなり、震える指で魔除けの印を結んだのだった。潦史はなんともなかったのだが、背から聞こえた弱々しい呻き声に、やはり [ あやかし ] の血が混じっているのかと、改めて納得した。

 その間も、青年は必死に結界強化に努めていた。普段から道観には魔除けがほどこしてあるが、強い力を持つ者には効かないこともあるので、怪しければ印を結ぶよう言われているのだろう。

 苦笑いして、潦史は背負っていたものを一旦下ろした。背負っていては、何かと自由が利かない。改めて青年に相対すると、明らかに怯えているのが判った。こういうことは初めてだったのだろう。

 潦史は、出来る限り真面目な、しかし人のいい笑顔を作った。

「失礼します。私は、道浩 [ ドウコウ ] 、字は潦史とい申します。東からの旅の途中なのですが、少しの間、宿をお借りできないでしょうか。荷屋でもいいので、せめて一晩、お泊め頂ければ有り難いのですが…」

「…人、ですか…?」

「はい、私は」

 そう言ってにっこりと笑んだ潦史を、青年は、ただただ呆然と見つめていた。

どうにか青年を言いくるめると、今日は私たち二人だけで心細かったんです、と人懐っこい笑顔で迎え入れられ、建物内にいたもう一人にも紹介された。二人とも、血のつながりはなく、孤児らしい。

 だが、春礼英 [ シュンエイレイ ] という十前後の少女は、いくら李v [ リイン ] 、字を旺共 [ オウキョウ ] と名乗った青年がなだめても説得しても、潦史とそのつれに怯え、旺共の背から出ようとはしなかった。

 一体今日はなんだ、厄日か、と愚痴の一つも言いたくなる。もっとも、人界に降りてからというもの、日々刺客に狙われ、妖を狩り、毎日が問題だらけではあるのだが。

 控え目に、戸を叩く音がした。

「道殿、入ってもよろしいですか?」

「ああ――はい」

 体を起こすと、素早く身なりを整えて立ち上がる。何事もなかったように笑顔で迎えた潦史に、旺共も笑顔を返した。

「食事はどうなさいますか? こちらに持って来た方が良いでしょうか」

「お願いできますか?」

「はい」

「申し訳ありません。長く、目を離しているわけにもいかず…。迷惑をおかけします」

「いえ、このくらいのことは。それでは、お待ちください」

「はい。ありがとうございます」

 寝台の上の黒いものに一瞥をくれてから、旺共は出て行った。戸が閉まったのを確認すると、潦史は、困ったように浮かべていた笑みを消した。

 人が妖になったものであり、戻す方法を調べる為に連れていると説明しているが、果たして信じているだろうか。信用させるために道士 [ どうし ] としての技量を示してみたりもしたが、信じているとしたら、こんなに素直でいいのかと、逆に心配にもなる。そしてそれ以前に、潦史自身、どうするつもりなのかもよくわかっていなかった。

 ぼんやりとしていると、足音と、続いて戸を叩く音がした。

「道殿」

「はい。すみません、ありがとうございます」

 二人分なので、怯えたままの礼英が、心細そうに旺共の後ろについている。礼英は、盆を置くと即座に、小走りで部屋を後にした。

「礼英! ――申し訳ありません」

「いえ。こちらこそ、迷惑をかけてしまって。厄介事を持ち込んで申し訳ありません」

「…今は、眠っているのですか?」

「はい。おそらく、そろそろ目を覚ますと…」

 潦史の言葉に合わせたかのように、寝台の上で身動きをした。びくりと、旺共の肩が撥ね上がる。そして、真っ青な顔をして、そそくさと出ていこうとする。退出の言葉を残せただけ、大したものだろう。

 旺共が出ていくと、潦史は息を吐いた。旺共という男、懐かれたのか探られているのか、それとも単に話好きなのか。門からこの部屋に移るまでの間にも、色々と話しかけられて正直、うんざりしていた。

「…う……」

「起きたか? お前、言葉はわか…」

 いつでも術式をかけられるようにしながらも気やすく声をかけて、潦史は硬直した。

 あのときは何も感じなかった。だが今は、滅多にお目にかかれないほどの力の持ち主だと、あらゆる感覚が告げる。心中密かに、自分や旺共よりも礼英の方が見る目があるらしいと、呟く。

 そうして潦史は、寝台の上でそれが起き上がるのを、じっと見ていた。下手に手出しすれば、まずいことになる。少なくとも、この建物が跡形もなく消え去るくらいには。

 黄金きん色の瞳は、少しの間部屋をさまよっていたが、潦史の上で止まった。

 次の瞬間には、それは跳び上がっていた。一片の無駄も躊躇もなく、的確に急所を狙ってくる。ろくに手当もしていないというのに、大した回復力だ。潦史は、それらを紙一重で避けながら、右手で印を結ぶ。

「縛」

「でっ」

 潦史の一言で途端に足の動きを封じられて動けなくなったそれ――二十歳前後の男に見える――は、派手に転んだ。潦史は、素早く食事の盆を抱えて反対方向に避難した。避ける際に、無理に体を捻ったせいで少し腰が痛い。

「てめッ」

「腹減ってんだから、邪魔すんなよな。しばらく、そこに居やがれ」

 そう宣言して、炒められた米を口に運ぶ。状況を一切無視して食事を始めた潦史を、男の姿をしたそれは、恨みがましく睨みつけた。

 そして、盛大に腹が鳴った。

「あ? お前、食ってただろ?」

「なにが! ずっとたべてない!」

 記憶がないのか、と、呟く。いつの間にか、威圧的な気は消え失せていた。

「じゃあこれ、食うか?」

 潦史が盆を示すと、男は、随分幼く見える仕草で、首を傾げた。

「なんだ、それ?」

 ――少し話してみて判明したことによると、男にとっての「食事」は、いつも同じ、変わらないものであるらしかった。

 その内容をどうにか詳しく聞き出して、似たようなもので大丈夫だから食えと押しつけると、少し警戒して、恐々と匂いをかぐ。一口食べると、あとは早かった。

 二人が黙々と食事を終えると、潦史が盆を持って立ち上がった。返してくる、と言って部屋を出る。その背に、「もとにもどせっ」という声がぶつかった。

 どうにも、調子が狂う。

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