一章
「なあ…」
「ん?」
湯を借りて汚れを落した二人は、寝室でくつろいでいた。
男は、髪を濡らしたまま潦史を見た。黄金にも茶にも見えた瞳は、今では薄い茶に見える。どんな法則で変わるんだろうと、潦史はぼんやりと思った。
今は簡単な術で神気を押さえてはいるが、いつまで保つか、あまり自信はない。
「お前、俺を殺すんじゃなかったのか?」
「はぁ?」
潦史は、訝しげに首を傾げた。まだ湿っている長い黒髪が、その動きに従って流れる。普段は束ねているから幾分ましだが、こうしてほどいているとやっぱり鬱陶しい、との思いが頭を過る。
だがそれとは関係なく、潦史は男を少しの間じっと見てから、ああ、と呟いた。拘束されたことで、最悪の事態を考えたのだろう。
「あのときはお前、俺を殺そうとしただろ。今はとりあえず違うみたいだし、真面目に戦ってたし、敵意はないみたいだから殺す必要もないだろ。何、死にたいのか?」
「いいや」
「じゃあいいじゃねーか」
「でも、なんであのとき剣なんか…」
「一対二や一対三より二対二のが断然楽だろ。悪い奴じゃないみたいだし、それで背中でも斬られたら、見る眼がなかったってことで」
あっさりと言い放つ潦史を、男は呆れたように見やった。あまりに潔いのか楽天家なのか。
「それでさ、お前何者? はじめ見たときは人妖かと思ったけど、変に人間じみてるし。親とか、どこで育ったのかとか、聞かせてくれるか?」
言葉としては依頼だが、実際には、有無を言わさぬ圧力がある。尋問と言った方が正しいだろう。
しかし男は、そんな威圧に気付いた様子もなく、首を捻っていた。
「オヤとかニンヨウって何だ?」
「…本気で言ってるのか、それ?」
「?」
潦史は、思わず頭を抱えた。まるで子供を相手にしているような気がする。成りがでかいだけに調子が狂う。
少しの間考えて、仕方ないか、と潦史は呟いた。
「しばらく、俺と一緒に旅するか? さっきみたいなのが時々――じゃないな、しょっちゅうあるけど。どうだ?」
「うん」
「じゃあ決まりな。俺は潦史。お前は?」
「…何が?」
「名前だよ、名前。俺は李浩とか李潦史とか道潦史とか色々あるけど、呼ばれるだろ、名前」
「ない」
「ない? それが名…なわけ、ないよな?」
「こうやって話をするのも、ほとんどはじめてだから…」
「お前、今までどんな生活して――礼英?」
戸口に立つ礼英の姿に気付き、潦史は眉根を寄せた。ひどく蒼褪めているのが、離れていても判った。近付くと、震えていると気付いた。
「礼英。どうした?」
「……李兄が…離れに…」
九妖によって破壊された離れに、幸いなことに旺共と礼英はいなかった。廟は、反対側だったのだ。その片付けは明日、日が昇ってからと言っていたのに、不用意に近付いて妖魅に捕まったと言う。それを聞いて、心の内でだけ舌打ちをすると、潦史は手早く髪をまとめて剣を取った。
「二人はここで…」
「いや」
礼英が、怯えた瞳を向ける。
旺共に聞かされた話を思い出す。礼英は、家族を妖魔に殺され、その後、持て余した村人から人買いに売られた。そこから逃げ出して、この道観に逃げ込んだのだ。
男が妖に関わりがあることは、黙っているよう旺共に言ったのだが、知ってしまっているのだろうか。それとも、残される、ということ自体が怖いのか。
「ラオ。俺が行く」
そう言ってごく自然に部屋を出ようとした男に神剣を渡して、潦史は礼英の目線に合わせて膝をついた。
大きく開かれた眼は、覗き込んでいる潦史を捕らえていない。まだ震えている。ここに報せに来るだけで精一杯だったのだろうと判る。華奢な肩に両手を乗せると、一瞬だけびくりと、身動きした。
「礼英。俺の声は聞こえているよな。俺は、旺共のところに行く。礼英はどうする? ここに残っても向こうに行っても、何にもお前を傷つけさせないようにする。守る」
一言一言、ゆっくりと、ちゃんと届くように。
礼英の瞳が、ようやく潦史を見る。
「礼英が選ぶんだ」
「私――行き、たい」
「よし」
優しく礼英の頭を撫でて、笑顔を見せた。ここで不安にさせてはいけないと、半ば自動的にそんな行動をしている。
潦史は、仙界で育った。人界での記憶は、八歳以降のものしかない。
周りにいるのは、姿形はともかく、そのほとんどがとてつもない「老人」だ。そのおかげで、潦史は神仙の中にいれば間違いなく「子供」だが、彼らの言動に触れているせいで、父に会いに人界に下りたときには、「大人」のような考え方をしていることに気付かされる。
それに、こういった対応は、妹で慣れてもいた。
「行こう」
「はい」
礼英の小さな手をとって、自身もまだ大人になりきっていない潦史は、部屋を後にする。
そうしてたどり着いた離れの中には、至るところに凝影が浮かんでいた。潦史と礼英が到着したときには、気絶している旺共を庇うようにして、男が剣を振るっていた。旺共を連れ出せればいいのだが、倒れた柱に挟まっているようで、無理に引っ張るのは危険だ。そして丁寧に助けようとすれば、凝影が障害になる。
俘虎を倒したときには姿を消していたから、どこかへ逃げたのだと思っていた。とんだ失態だ。
「まだ生きてるな?」
「どっちが?」
「お前は判ってるよ、馬鹿」
思わず苦笑しながらも、礼英を庇い、近付く凝影を短刀で斬る。
「礼英、結界張れる?」
「いえ…術も何も、学んでなくて…」
「きっと、やったら伸びるぜ。それじゃあ、これの源泉の位置は判るか? 何か変なところ、多分下の方だと思うけど。違和感だけでいい、気付いたら教えてくれ」
潦史自身も離れの中を見回して、源泉を探す。源や本体と言う者もいるが、とりあえずそれを潰せばいい。
凝影って嫌いなんだよな、強くもないくせに判りにくくって。溜息を押しつぶして、潦史は周囲の影を切り払っていく。この短刀も神気を帯びているから小さな結界代わりにはなるが、二人となるといささか心もとない。
凝影を退けながら神経を凝らすのは厄介だが、そうまでしなくても、礼英の「眼」は優れているという、確信があった。
ややあって、礼英は、自身なげに小さく指差した。
「あそこ…李兄の…下…中……?」
言われて目を凝らすと、確かに、一際濃い影が見える。
潦史は、礼英には気付かれないように溜息をついた。いっそ李旺が死んでいれば作業は楽なのだが、それは望んでいないし、時間の経過からみるとまだ望みはある。骨を折るだけの価値はあるだろう。
土中を好む凝影は、時として人の中にも棲みついた。
「礼英、これをしっかりと持っててくれ。鞘からは抜かないで。目もつぶってろ。いいな?」
頷くのを確認してから、短刀を鞘に入れて渡すと、潦史は一歩、礼英から離れた。短く、呪を唱える。これで、何もしなくても子供一人を守りきれるくらいにはなったはずだ。
潦史は、器用に凝影を避けて旺共たちに向かって歩いて行った。避け切れない凝影は、袂から出した符を当てると、符もろとも消し炭になる。
「おい、剣貸せ。で、危ないから、向こう行ってろ。避けるくらいできるだろ?」
「は?」
「そのままだと、もろに余波受けるぞ」
「え? な…ッ?」
男から神剣を取り上げると、もう見向きもしなかった。
必要なのは、集中力と根気と底力。剣の柄を両手で握ると、はっきりと凝影の源泉が見られるように目を凝らす。それと同じくして、口中で呪文を唱える。その間、身を守る術もなく、凝影の格好の餌食となった。力を吸い上げられて、脂汗が浮かぶ。
「――解」
最後の一言をはっきりと声に出して言って、旺共の心臓目掛けて剣を突き立てる。
どす黒い風のようなものが旺共の胸元から突き上げて、其処此処に浮かんでいた凝影の姿が消えた。
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