一章
そう広くない建物のはずだが、潦史は盆を持ったまま、食房を探してさまよっていた。
「あっ!」
視界の隅をよぎった少女を追い、小走りになる。少女は、怯えて立ち竦み、逃げることも出来ないようだった。潦史はそのことには気付かない振りをして、笑顔で話しかける。
「ごちそうさま、ありがとう。これ、どこに戻せばいい?」
「……こっち」
今にも泣き出しそうな瞳が逸らされて、俯いたまま、礼英は歩き出した。しかしその肩を、潦史が掴んで止める。少女の、怯えた瞳が見上げた。
「ごめん。これ、頼む。それと、結界張って…いや、廟にこもってるんだ。旺共と一緒に。できるよな?」
少女は怯えながらも、こくりと肯き返す。
潦史は、盆を渡すとその肩を、元気づけるように軽く叩いた。
「よし。――巻き込んで、ごめん。じゃあ、またあとでな」
それだけ言って、後ろも振り向かず、あの男のいる部屋を目指して急ぐ。食房の位置が判らず迷っていただけなので、出てきた部屋の位置は判る。そして何より、目印がある。
「――なんで、神気なんか立ってんだよ!」
吐き捨てるように呟く。焦りが、もどかしい。
神気とは、文字通り神の気、あるいは気配を指す。しかもその発信元は、丁度男のいる部屋の、男のいる辺りだ。神の誰かが降りて来たと考えられないこともないが、潦史の知らない気配であり、よほど、あの男自身が発していると考えた方が有り得る。
学識の見立てが外れていたか、足りなかったか。天狗や神龍どころではなく、神そのものの血を引いているのではないか。案外、人との間に子を為す神は多い。潦史がざっと思い浮かべるだけで、十は心当たりがあった。
そしてまずいことに、神気に惹かれる魔物は多い。
「外、出ろ!」
戸を開け様に怒鳴りつけると、入り口近くにいたために戸に頭を打ちつけた男は、薄茶の瞳に涙を滲ませていた。だが潦史は、構わずその腕を掴んで引っ張る。建物ごと攻撃されたら、防ぐだけで手一杯になってしまう。しかし、潦史は逆に引っ張られて、のめり込むようにしてこけてしまった。
「ふざけるなよ、おい」
「ふざけてないっ! オマエがやったんだろ!」
「あ。――解呪」
自分に呆れる間も惜しんで、男の額に右の掌を当てて言う。男の足への束縛は消え、今度は潦史に引かれるままに、窓から外に出た。力では勝るだろうに、案外素直だ。
「なんなんだよ、いきなり」
「訊きたいのは俺の方。とりあえず、その神気なんとかしろ」
「ジンキ?」
「…無自覚かよ」
苦く呟いて、気を探る。一時的になら、封じられるかもしれない。
潦史は口早に呪を唱えると、左手で自分の長い黒髪を一本、抜き取った。そして、わけがわからないまま見ていた男の首に巻きつける。驚いて身を引きかけた男の胸倉を、素早く掴んだ。
「いいか、外すなよ。無駄に妖を呼ばれてたまるか」
「へ?」
「自覚がないのは判るけどな、だからって責任がないわけじゃない。しっかり働けよ」
「は?」
「ほら、来た」
そう言って潦史が示した先には、巨きな虎がいた。まだ遠いが、巨き過ぎて近くに見える。それが、裏の山から下ってくる。そして、地からは黒いもやのようなものがいくつも沸き出て、宙に浮かんでいた。
「なんだ、あれ?」
「触るなよ。浮虎と眷属の凝影だ。凝影――黒いやつは、触れると力を吸われる。何か、武器は持ってるか?」
無言で、拳を見せる。ラオは、溜息をつく間も惜しんだ。
「使うなよ、死ぬぞ。ほら、これ貸すから。丁重に扱えよ。そっち、任せるからな」
肌身離さずにいた神剣を、抜き身で渡す。自分は、それとは別に短刀を抜く。
まあ、一組で済んで良かった――と思った潦史は、甘かった。浮虎とも凝影とも、潦史たちとも離れたところで爆風が上がる。潦史は、唇を噛んだ。廟にいればある程度は結界で護られるはずだが、二人とも、無事だろうか。
「目標外してんじゃねーよ、方向オンチ」
低く毒づく。
潦史は、周囲を見た。凝影は、次々と沸いてくる。神剣で斬ればすぐに形を失うが、源泉を見つけなければきりがない。しかしとりあえずは、数を減らさなければ身動きが取れなくなるだろう。
潦史が短剣で凝影を斬ると、呆気なく霧散した。それに倣って、男が神剣を振るう。剣を使ったことがないらしく無駄の多い動きだが、凝影を避ける身のこなしには目を見張るものがあった。
凝影が半数ほどに減った頃に、ようやく浮虎が到達した。巨きな虎は、四本足で歩く割に、妙に人間臭い表情をした。
「ああん? どっちだ、俺のメシは?」
死角を減らすために背中合わせで立つ二人を見下ろして、虎は言った。しきりに鼻を動かしているのは、気配などを嗅覚として感じる性質からだろう。そこに、どこか間延びした高い女の声が響く。
「あらあ? どうして二匹もいるのかしらあ?」
声に続いて姿を現した美女に、潦史は頭を抱えたくなった。白い羽根を持った人形の妖、九妖だ。厄介なと呟きつつも、凝影を切りつける手は休めない。二体の妖同士、相打ちでもしてくれれば楽だが、そう望むには中途半端に知性がある。
虎が、ぎろりと女を睨みつけた。
「なんだあ? こいつらは俺のメシだぞ」
「その言葉、そのまま返したいところだけど。ねえ、半分ずつにしない?」
「ああ?」
「私たちが争えば、その間に逃げちゃうでしょう? あんたの眷属も役に立ってないみたいだし。だったら、一人ずつで我慢した方が良くないかしら?」
「うーむ」
「私は、小さい方でいいから」
九妖の性質として、汚れたものを嫌う傾向がある。だからだろうなと思いながらも、小さいと言われた潦史の機嫌は、降下の一途をたどっていた。まだ成長途中だ悪いか、と、そんな状況でもないのに怒鳴りたくなる。
ただでさえ刺客の来襲に気分を害し、突如襲われたことに腹を立て、その上に得体の知れないものを担いで道観に押しかけて堅苦しく会話をし、無自覚に妖を呼ばれ――。
自分たちを殺してから「話し合い」をしようなどと言う選択肢を考え付かなかったことを後悔させてやる、と、こんなときにまで回りくどいことを考える。だが実のところ、憂さ晴らしの八つ当たり対象でしかない。
「そっち、頼むな」
「え?」
「剣刺しゃ、死ぬ」
短く言って、走り出す。九妖の近くまで行くと、跳躍して屋根に駆け上がり、九妖に接近した。
「あらあ、わざわざそっちから来てくれるの?」
笑う女に、薄い笑みを返す。そして、短刀を閃かせる。だが九妖は、やはり余裕の笑みを浮かべていた。
九妖の体液は、高い酸性を持っている。しかも、水に混じれば毒に変化し、地に浸みれば作物が育たなくなる。また、その爪には、触れただけで死に至る猛毒がある。だから、人の多くは九妖を傷つけることは避け、傷つけようとしたところで、武器は途中で溶けて無力化し、その毒爪に倒れることが多かった。
しかし、潦史は笑った。
「相手が悪かったな、不美人」
冷ややかな潦史の言葉に言い返す間もなく、九妖は絶叫した。神剣と同じ性質の短刀は、妖には甚大な被害を与える。それを、心臓に柄が埋まるほどに深く突き刺したのだ。毒に負けるほどやわではない。
男に神剣を持たせて注意を向けさせ、故意に気を押さえてはいたが、気付かない方が間抜けなのだと、潦史は考える。
「燥天子の名に於いて命ず、炎よ、燃やし尽くせ! 急ぎ急ぎて律令の如くせよ」
苦しみもがいて中空で体勢を崩した九妖の体が、一瞬で炎に包まれる。
それが炭になって地に落ちたときには、浮虎の体も、神剣に貫かれて地に伏していた。実のところ差して期待はしておらず、少し驚いて見遣ると、男と眼が合った。
「やるじゃん」
にっこりと、潦史は笑顔を向けた。
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