「ああもう、こんなに傷をおつくりになって!」
「どうせなら、大怪我をしなかったことを喜んでよ」
「冗談じゃありません!」
夜。自室で、アイリーンはひたすらに侍女に嘆かれつつ、手当てを受けていた。既に、湯浴みをして散々に体を洗われてのことだ。石鹸が、傷口にしみた。
一日中、アイリーンの身代わりをしていた次女は、周囲をだまし続けることと試合場で戦う主を見守ることとで、一時と指摘の休まることはなかったらしい。それは、申し訳なく思う。
「お願いです、どうかもう、辞退なさってください」
涙ながらの懇願に、心が動かないわけではない。この侍女は、気を許せる数少ない人物だ。幼い時分からそばにいてくれ、心からアイリーンのことを思ってくれていることも知っている。しかし、ここは退けない。
「そんなことを言ったって、あとは多くて二試合よ?」
試合続きの一日目と異なり、明日の二日目は、朝に準決勝が、十分に間をおいて午(ヒル)頃に決勝が行われる。
侍女は、きっと睨み付けた。
「もう十分です、お嬢様がお強いことは判りました! もうお止めください!」
「だけど、決勝戦で猪男と当たるかもしれないのよ? うまくすれば、自力で婚約を阻止できるわ」
「そのために参加されていたんですか」
驚いたような、きょとんとした顔が見つめてくる。
それで納得してくれるならいいかとも思ったが、考え直し、アイリーンは首を振った。
「ねえ、ヒルダ。どうして私が剣を使えるのか、不思議には思わない?」
「そ――う、言われれば・・・」
他の姫君の例に漏れず、アイリーンも、重いものは持たず、縫い物などのたしなみならいざ知らず、働くこともなく、きれいな飾り物かのように育てられてきた。アイリーンに、剣を学ぶ余地などない。はずだった。
「六人目の子供ともなると、案外目が届かないものなのよね。末っ子を猫っ可愛がりする人もいなかったし。おかげで、城内の兵士をつかまえて、剣を学ぶなんてこともできたのよね」
「――よくお隠れになると思ったら」
「ふふふ。隠れるの、上手でしょう?」
女と知りながら剣を教えてくれた物好きは、やがて、かの猪男の副官となった。
ちなみに、猪男は、右左軍あるうちの、攻撃が主の右軍の次長だ。単純に軍全体の地位で見れば、上から三番目や四番目くらいになる。
その副官である師は、騒乱を避けるために上官を立てているからか、単にものぐさからか、頭脳のみの優男との評価を覆そうとはしていない。しかし、今日一日で、その評価も変動しているだろう。彼も、明日の試合に残っている。一試合目で、猪男とあたるはずだ。
それらの一切合財を包み隠さずに告げると、気安い侍女は、眼玉を落としてしまいそうなほどに、目を見開いた。
「あの、シアラー様がですか? 気難しいと評判の、あの方がですか?」
アイリーンの師が爵位で呼ばれないのは、親しさからではなく、もっていないだけのことだ。上官者には珍しく、名もない家の出なのだ。それだけの実力者であり、機会に恵まれたということでもある。
アイリーンは、師の無愛想な顔を思い出して、思わず笑みがこぼれた。
「ええ。あの、コンラート・シアラーが。気付かなかった? あの人、今日は本名で登録していたのよ」
「お嬢様を見るだけで、心の臓のつぶれる思いだったんですよ。・・・あの方が。人って、見かけによらないものなんですね」
「まあ私も、本当に強いと知ったのは、今日になってのことなのだけどね」
そう告げればまた怒られてしまいそうで、ひっそりと心の中で呟く。
実際、あの師に勝てずにはいたが、こんなにも強いとは思っていなかった。毎年剣技大会の見物はしていたから、ある程度の技量があるとは思っていたが。その上、アイリーンに、いくら幼年時から教わっていたとはいえ、準々決勝を勝ち抜くほどの実力がついていたのも驚きだった。
そこではたと、侍女が首をかしげた。
「お嬢様が出場されたことと、どうつながるんです?」
「そう、それよ。約束をしたの」
「約束、ですか?」
「ええ。試合に勝った方が、ひとつ、何でも言うことを聞くの」
持ち掛けたのはアイリーンで、あっさりと承諾したと思ったら、師は、試合というからには立会人がいなければ無効と言い張った。内密に教わっている状態でそんなことを頼める心当たりもなく、事実上不可能ではないかと憤ったものだ。
しかし、剣技大会を思い出し、アイリーンは、身元が露見しないようにした上で、どこかで当たる可能性にかけて、師にも出場をさせた。
自らの結婚が絡み、決勝戦まで当たらないということは、想定外だった。後者に関しては、ありえないと思わないでもなかったが、その前に負けるものと思い込んでいた。もっとも、致死が禁じられているのだから、実力を出し切れていない者や、そのために失格になってしまった者もいることだろう。
「何でもって、お嬢様は何をおっしゃるつもりなんです?」
「私は・・・本当のことを言っていないから、私がアイリーン・リストと知っても、今まで通りに接してほしいと、お願いするつもりで」
ただ告げればいいだけのことで、そうするべきだと知っているのに、こわくてここまできてしまった。
侍女は、数度口を開閉させ、深呼吸をした。
「順に、お聞きしますよ」
「・・・はい」
「本当のことをって、今は何と名乗っていらっしゃるんです」
「あなたの名前を借りたの。ごめんなさい」
「わた――。そ、それで、シアラー様はどんな要求を?」
「まだ言われてないわ。私も、言っていないもの」
侍女は、額を押さえてがっくりと座り込んでしまった。アイリーンが、おろおろととりなすようにその手を取る。
数回深呼吸を繰り返すと、侍女は、アイリーンの手を強く握り返した。
「お嬢様。もう、何も言いません。明日も、好きになさってください。けれど、城を発てるだけの準備はしておいてください。改めて、クリフには馬を頼んでおきます」
「どうして?」
「私とお嬢様とでは、あまりに違います。シアラー様には、もうずいぶんと前から会われていたのでしょう? 言わなくとも、お嬢様がお嬢様ということくらい判りますよよ。夜会に出席されることもありましょう」
「・・・だけど、私はあまり夜会が好きじゃないし、コンラートだって滅多には」
「夜会でなくとも、知りようはあります。その上で何でもなんて、一体どんなことを言われるか」
「でもヒルダ、妙なことを言う人ではないわよ。それに、私が負けるとも限らないのだし」
じっと、侍女はアイリーンを見つめた。同じ年とは思えない、年経たような瞳だった。
「お嬢様。私は、元は貧しいところの娘です。姉が見初められて、今は貴族の末端にも数えられています。たまたま王妃様の眼にとまったから、こうしてお嬢様のおそばにもおりますが、本当は、お言葉をいただけることさえ身の程知らずなことなんです」
「ヒルダ、それは違うわ」
「違いません。そういうものなんです。私は、少しばかり箔がついただけで、周りの人たちがまったく違うものになることを知っています。皆がとは言わずとも、そうなんです」
「・・・ヒルダ」
「悪いことを予想して、備えをして、それが無駄になるならいいんです。だけど、用意ができたのにせずに後悔するのはだめです。それに、やはりあの猪男が勝者とならないとも限りません」
真剣な、心底心配をしてくれる眼差しに、返す言葉はない。アイリーンは所詮、籠の中の鳥だ。心地のいいこの場所しか知らない。
「そうね。お願いするわ。ありがとう、ヒルダ」
「いえ」
アイリーンが寝台に入るのに手を貸して退出を告げ、侍女は出て行った。その背を見送ったアイリーンには、もう、初めての試合に勝った喜びや、ちょっとしたいたずらを楽しむような気持ちはなくなっていた。
師と出会ったのは、七つのときだ。四年前に一度、十五の兵士志願にサバを読んで入隊しようとしたことで話題になった少年兵は、ちょっとした話題にもなっていた。好奇心から見に行き話しかけたのが、はじめ。侍女となる少女が来たのも、この頃だ。
明日は、決勝戦で対峙することができるだろうか。
コンラートは、何を望むだろう。
ヒルダの眼差しが、残っていた。
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