「いらっしゃい。試験勉強は大丈夫?」
どうせなら昼食を一緒に、ということで用意されたテーブルを挟んで、皓は、にこやかな笑みを向けた。玄関まで迎えに出てもよかったのだが、なんとなくこの場所に留まってしまった。
「作文と面接の対策なんて、一日でどうこうなるものじゃないよ」
「やぁだ、偉そうに。模擬面接でがちがちになっちゃってたの、誰よ。聞いてよ紅ちゃん、真ったらね」
「黙れよ」
元気に言い合う二人は、よく似ている。双子といっても二卵性なのだが、たまにいる瓜二つのきょうだいのように、明らかな血のつながりを感じさせた。癖のない細い髪に、心持つり上がった目尻。
髪は、小夜子は長く伸ばし、ゆるく束ねている。真夜は、最近の流行よりは短いが、女の子にも見えそうな長さで、昔から、鬘を被せれば小夜子との入れ替えができそうだった。
名前を変えたというのに、二人は変わらず、前の名を呼ぶ。
「経験者から言わせてもらうとね、羽山成縁の者と知られている以上、合格はまず決まってるよ。酔っ払って試験会場に行ったり、目の前で人を刺したりなんてことをしない限りは問題がないから、緊張なんてしなくていい。座ったら?」
従って椅子に腰を落とした二人は、だが、何かを押し付け合うように視線をやり取りし、押し切られて真夜が皓を見た。
その間に皓は、傍に控えていた響に、料理を出すよう指示していた。色々なところを転々としていたお抱え料理人は、菓子以外の料理はお手のもので、今日はフランス料理らしい。
「紅が、手を回したの?」
「私自身のときにも、そんなことはしなかったのに?」
一年と数ヶ月前、突然に、それまでの状態から考えれば異常にも健康になった紅子は、名を変え、それまでも名前だけは在籍していた中学校にも通うようになった。
しかし一度も通っていなかったために成績は一切ついておらず、高等部に進学するためには、高等部から入学する推薦入学の試験同様のものを受ける必要があったのだが、実際のところ、結果は問題になっていなかっただろう。
「ねえ紅ちゃん、家庭教師つけて、短期間で物凄く勉強したのよね? 一年くらい遅らせたら、わたしたち、同じ学年になれたのに」
「わがまま言うなよ」
「だって。その方が、絶対楽しいのに」
拗ねたように、小夜子がむくれる。皓は苦笑した。
しかし皓は、中学校はおろか小学校にすらほとんど通っていない。いくら、義務教育は出席日数だけでなく校長の判断で卒業もできるとはいえ、無茶が過ぎたとは思う。中等部に在籍していた半年ほどは、授業中が息抜きという勉強体制だった。
「紅ちゃん、梨園学園に通うようになったら、ここに住んでもいいでしょ?」
「小夜子」
真夜の口調から察するに、二人の間で既に、その話は出ていたのだろう。
否定を想定していないかのような小夜子の言葉とは裏腹に、その眼は、断られることを恐れていた。ごめんと、皓は先に胸の中で呟いた。
「悪いけど、人と一緒に暮らすのは避けたい。近くにいい物件もあるし、寮もそう悪くはないみたいよ」
「その人もここに住んでるって聞いたけど」
それぞれのグラスに葡萄のジュースをついで回った後、無表情に控えていた響を、小夜子がじとりと睨みつける。真夜の向ける視線も険しく、皓は、知らずに肩をすくめた。
「響はもう、身近すぎて家族みたいなものだから」
「…紅ちゃんが愛人を連れ込んでるって噂、本当だったのね。でもそんなの、どうせ、財産目当てなんだから! 羽山成を乗っ取って、そうしたら、紅ちゃんをぼろ屑みたいに捨てちゃうのよ!」
「俺も、それは否定できないよ」
険しい顔の二人に、悪いとは思うのだが、吹き出してしまった。よく似た顔が、ぽかんと、そんな皓を見つめる。
皓に常に付き従い矢面に立つことも多い響が、皓を操っているという勘繰りや、騙しているという噂は、既に耳に入っている。経営の実権を握っているところや、年少の少女を丁重に扱うあたりが、信憑性を持たせているのかもしれない。ホストのようだという陰口は定番だ。
しかしそれを面と向かって言われると、笑えてしまって仕方がない。
「知らなかったよ、響、実は凄い悪人なのね」
「さあ、覚えはありませんね。それよりも、食事を進めていただかないと、紅林がへそを曲げます」
遍歴の料理人・紅林は、作った料理が無駄になったり、くだらない(と判断される)理由で食べ時を逃されることを、とてつもなく嫌がる。一度、パソコンゲームに熱中して食事の呼び声を無視していたら、そのまま行方をくらまし、探し出すのに一週間近くかかった。
「それは大変。いただきましょうか」
にこりと笑い、皓は二人を促した。
皓の反応に説得は諦めたのか、昼食の話題は、他愛のない話に終始した。主には、学園生活のことだ。
幼等部から大学院までを要する梨園学園は、大学と大学院の敷地は離れているが、それ以外は一箇所に集まっている。始めは女学校が別にあったのだが、比較的早くに統合された。現在は、基本的には公立の学校と変わらないが、部活動や生徒会活動が盛んなことで知られている。
総じて、集団競技よりも個人競技に秀でているのが、特徴と言えば言えるだろう。
紅子、あるいは皓は学校といえば梨園学園しか知らなかったため、あの学園が一般的なものと思い込んでいたが、持ち上がりでない生徒との会話や他校との交流の際に、ずいぶんと自由な校風なのだと気付かされた。最近のことだ。
生徒会の個性にあふれすぎた面々の話にまで及んだところで、よく行く洋菓子屋で調達してきたデザートと紅茶が出され、電話が鳴った。即座に姿を消した響が、すぐに戻ってくる。
「皓さん」
「はい。ごめんなさい、少し外すね」
いつもながらに、他人がいるときの響の態度はむず痒い。しかしそんなことは一切表に出さず、部屋を出た。この間に二人は、何を話すのだろう。実は、皓になってから彼女らとゆっくり話すのは、初めてに等しい。
「誰から?」
「生徒会の秋山、と名乗っていた」
「秋山先輩? かけてくるなんて珍しい」
学校でこそ頻繁に顔をあわせ、お互いの連絡先も知っているが、今まで、電話をもらったことはない。急ぎだろうかと、厭な予感がした。
ちなみに、響が皓の位置を察知できることもあり、皓自身は携帯電話を持っていない。仕事関係は響の判断に任せているため、あまり必要を感じないのだ。友人らからの連絡は、あるとすればパソコンのメールで受け取る。
「もしもし、お電話換わりました。皓です」
『昨日から、うちの生徒が何人か消えてるのを知ってるか』
前置き抜きの発言の、その内容に目を見張る。
「美術部の森村薫さんが、昨夜の時点で帰宅していないことは聞いています。その他にも?」
『ああ。美術部で他に一人、写真部と新聞部が一人と、調理部が三人、生徒会からも一人』
「そんなに?」
秋山の言う通りなら、少なくとも八人が行方知れずということになる。いくらなんでも、尋常ではない。不審さが声に出たのか、秋山からは、いくらか不服そうな声が返った。
『今日、バレンタインの打ち合わせで集まって判ったんだ。そっちにも連絡が行くだろうけど、異常だ』
「何か共通点でも? 一緒に帰ったとかなら、揃ってどこかに拉致された疑いがありますね」
『いや、帰りはばらばららしい。女子ばっかで、他に思い浮かぶのは、バレンタイン企画の裏方ってくらいだ』
ちらりと、響を見る。電話の本体を置いた部屋の入り口になっているが、会話は全て聞こえているだろう。だが、何の反応も示さない。
「警察には、連絡しました?」
『今、各部の顧問と田中が保護者を呼んでる。親が気付いてなかったり今までにも無断外泊があったりで、森村のところ以外は、まだ届出は出してないらしい。だからまだ、本当に消えたとも限らないわけだけど――』
場を、生徒会顧問の田中ではなく、顔を潰さないようにしながら秋山が誘導しただろうと、想像がついた。そのくらい、お手の物だろう。
「確認は、取れてるんですね?」
『ケータイが繋がらなくって、今日の集まりに来なくて、家や友達のところにもいないって程度にはな。今の時点で警察呼んだって何もできないだろうけど、マスコミが嗅ぎつけたらやばいぜ』
「ですね」
直接学園が叩かれるわけではないだろうが、一度ついた不信感は、そう簡単には拭えない。
実のところ皓は、学校経営に思い入れがあるわけではない。だが、今現在生徒として通い、気に入ってはいる。それを乱されるのは、大いに腹立たしい。
しかしだからといって、一般的にはただの生徒の皓が駆けつけるのは、出すぎだ。だがそこは、秋山も理解していることだった。
『一年皆川聡美、香山由美、梨木茜、橋場有子、二年佐奈川瑠香、山並静、平山優奈。友達はいるか?』
「……梨木茜。クラスメイトです、確認の電話、私にもくれたってことですね?」
『生徒会室だからな』
「ありがとうございます」
友人を気遣っての行動になるようにと図ってくれた秋山に感謝し、受話器を置いた。実際、茜が行方不明と知れば、何もできなくとも気は急く。
それに、場合によっては、皓にも責任がある問題かもしれない。
理事長としてはさて置いて、悪魔と契約をした身は、妙なものを引き寄せる。この二年弱で、それまでの十年ちょっとで全く縁のなかった奇怪な出来事に、何度遭遇したことか。その余波が、生徒たちに及んでしまったとも、考えられる。
「響。すぐに出るよ」
頷いてすぐに車の用意をする響とは別に、皓は、食堂に戻った。二人には、帰ってもらうしかない。
制服に着替えた方がいいかと考えて、しかし、急いで駆けつけるならかまわないだろうと判断する。上着を羽織れば、私服でもあまり目立たないだろう。
そうして、この状態だというのに、食事が終わり、紅林が作ったのでないデザートになってからで良かった、と思った自分に気付き、皓は苦笑いした。どれだけ、人でなしだろう。
茜は、とりわけ親しい友人だ。皓はあまり友人関係に深入りはしていないが、それでも、親しさの程度というものはある。それでもこれかと、ふと、思う。
「小夜ちゃん、真くん、急用が入ったの。ごめんなさい、出かけないと。何時に戻るか判らないから、悪いけど、今日はこれで。ゆっくりして行ってね」
「ええっ?! そんな…わたしも行く!」
「駄目」
きっぱりと言うと、小夜子は、驚いたように固まった。隣では、真夜までが目を見張っている。紅子であれば取らない態度だったろうから、よほど意外だったのだろう。
「林さん、二人をお願い」
響の代わりにだろう、部屋に現れていた初老の使用人にそう頼み、脱いで椅子の背にかけていたカーディガンを取ると、部屋を後にした。
学園までは、車で行けば五分ほどだ。皓は、既に響が行っているだろう車庫まで、最短距離を走った。
「出して」
あらかじめ開けられていたドアから滑り込むと同時に言うが、言うまでもなかっただろう。滑らかに走り出した車内で、皓は、灰色の毛織のカーディガンを羽織った。
白いズボンの尻の辺りまでかかる長さだが、コットンシャツを着ているだけだから、少し寒いかもしれない。そう思っていると、皓の座る後部座席に、セーターが置いてあった。
「ありがとう。あ、響はどうする? コーチがいるのも妙だし、私だけ行って来ようか?」
「好きにしろ」
「うーん。そうね、とりあえず、一人で行ってくる。何かあれば、電話を借りて連絡するね」
「ああ」
話している間にも、一旦カーディガンを脱いで、セーターを着込む。少しもこもこするが、動きにくいほどでもない。
「校門の前で止めて。そうだ。そのうち、さっきの二人に良さそうな物件の、当たりをつけておいてもらえない?」
「わかった」
「ごめんね、ありがとう」
「礼の必要はない」
「言いたいんだから、言ってもいいでしょ?」
笑いかけたところで響の表情も態度も変わらないとは知っているが、それに付き合って、皓まで無表情でいる必要もない。もっとも、何を言ったところで受け取っているものには報えないだろう。最終的な代償が魂だといっても、不釣合いだと思えてしまう。
やはり滑らかに止まった車から半ば飛び降りようとすると、運転席から財布が投げ渡された。響のものだ。
「とりあえず、持っていろ」
「ありがとう」
セーターを取ってきてくれたなら、一緒に皓の財布も持ってこればよかったのにと、苦笑がこぼれる。勝手に触ってはいけないと思ったわけではないだろうから、忘れていたのだろう。
兎も角、車を降りた皓は、生徒会室を目指した。
そこでふと、見慣れない人物に気付いた。校門をくぐってすぐの、校庭の端と呼べそうな場所に、ドラマの不良刑事か探偵のような格好の男がいる。
年は、三十半ばといったところだろうか。切り損ねたように伸びた髪は、不潔な感じはしないが不精な感じはする。生活指導の山下先生が見たら床屋に行けと怒鳴りそうだ、と思ってしまって苦笑をかみ殺す。
「君、生徒会室はどこだ」
視線に気付かれたのか、振り向き、声をかけられた。後ろ髪同様に長い前髪の下からは、無愛想な両目がのぞいている。
「…校舎の中にありますけど、どちら様でしょう?」
にこりと笑って当たり前のことを言うと、厭な顔をした。それがあまりにもあからさまで、やはり可笑しくなる。
男は不機嫌そうに、よれよれになった米軍放出品のような、年季の入った上着の内側を探った。取り出した手には、掌からはみ出すくらいの大きさの、折りたたみ式のパスケースのようなものが掴まれていた。
「警察だ」
「警察手帳って、ちゃんと、写真の見られた身分証見せないと証明にならないんじゃないですか?」
「ちッ」
「今時、ドラマや小説で常識ですよ。ふうん、梨木巡査部長さん」
示された顔写真は、身なりに口うるさいものでもとりあえずは及第点を与えるくらいには、整っていた。写真を撮るときにレンズを睨んでしまう者は多いが、目の前の男の場合、写真撮りのときだけではないようだ。
皓は、そんな眼を覗き込んで、首を傾げた。少しだけ、怯まれた。
「梨木巡査部長さん」
「これ以上文句があるか」
「娘さんか親戚に、茜という名前の人がいませんか?」
不機嫌そうに、睨みつけられる。
そう簡単には認めないか、とひとつ嘆息し、皓は、無邪気そうに笑った。
「普通、事件に身内が絡めば捜査からは外されますよね? 苗字が同じなら、すぐに露見しそうなものだし。ねえ、違いますか、梨木巡査部長さん?」
「…邪魔したな」
「待ってください。私は何も、あなたが警察機構を無視してここにいるんじゃないかなんて、言うつもりはありませんよ」
「言ってるだろうが」
「あれ、付き合いがいいですね」
一旦は背を向けたにも拘らず口にした突っ込みに、思わず笑う。梨木は、渋いかおをした。
意外な付き合いのよさが茜を髣髴とさせ、親しい身内に違いないと、勝手な決断を下す。
しかし、休暇を取ってしまえば警察手帳は持ち歩けないはずで、職務放棄、つまりはサボりかと勝手に判断する。警察への届出か身内からの連絡で知り、飛んできたというところだろうか。
それならば、やる気はあるはずだ。
「あの、刑事さん?」
「なんだ」
「生徒会室までご案内します」
そう告げて歩き出したが、ついてくる気配がない。ある程度は予想していて振り返ると、どうしようもなく不機嫌そうに睨まれた。皓は、わがままをたしなめるように微笑した。いつまでもここにいては、目立ちかねない。
二人が立つのは、正門を入ってすぐの場所だ。
校舎へと真っ直ぐに伸びる道は、右手側に折れればテニスコートと夜間照明設備の併設された、第五運動場に出る。五番目の数字が冠されてはいるが、五つ目の運動場ではなく、四を忌み数として避けた四つ目の運動場に当たる。
この場所は、離れたところに聳え立つ高等部校舎からも運動場からも、丸見えだ。おまけに、帰宅通達などは出していないのか、聞こえる声から察して、部活動にいそしむ生徒もたくさんいるようだ。
「不審者だと突き出すなら、今ここでやります。校門に非常用の警報装置が設置されているんです。押せば、すぐに警備員が駆けつけます。でもそれは、刑事さんもお望みではないでしょう?」
不機嫌から警戒に、感情が変わる。
こんなに表情が読みやすくていいのか、とは皓は思わない。おそらく、気付かない人がほとんどなのだろう。どうも皓は、ひっきりなしに寝込んでいた紅子の体験や感情の表出の薄い響に付き合っている間に、人の感情の小さな表れも見逃さない特技が身についたらしい。人の顔色を読むのはほめられたことではないかもしれないが、便利には違いない。
「刑事さんを困らせるつもりなんてありません。茜さんたちを見つけ出してくれるなら、ただ形式だけの取調べをする人よりも、身内を気遣って規則違反も承知で駆けつけてきた人の方が、一生懸命にやってくれそうですよね」
「ガキと手が組めるか」
「そんなこと、思っても口に出さない方がいいですよ。黙っていれば、案内してもらえるのに」
「そこまで落ちぶれてない!」
そういう問題かなあと、首を傾げる。その反面、ここまで愚直だと生きにくそうだとも、おそらくは梨木の半分も生きていないだろう皓は思った。しかし、嫌いではない。
このまま梨木を引っ張っていくか、皓の身分を明かして協力を求めるか、どちらが得策かと考える。しかし、どちらにしても説得は大変そうだ。
そこまで考え、ああ、と手を打つ。
「刑事さん、携帯電話、持ってます?」
「はあ?」
「常時、警察署と連絡を取れるようになってますよね?」
「それがどうした」
「すみません、少し、貸してもらえませんか?」
「何?」
「連絡を取りたい相手がいるんですけど、私、携帯電話持ってないんです。無駄足を踏ませるのも気の毒だし、刑事さんがここで待っていてくれるなら、それでもいいですけど。駄目ですか?」
一瞬、呆けた。そこで、我に返る前にと素早く、皓は梨木の上着の右ポケットに手を突っ込んだ。携帯電話と言われ、いまし方、梨木がそこを抑えたのを見逃さなかったのだ。
「あっ、待て、何をする!」
「叫びますよ? 現職の警官が女子高生に襲い掛かるなんて、ワイドショーで報道されたら厭ですね」
「ぐっ…」
激怒するかと思ったら、意外にも、顔を真っ赤にしながらも黙り込んだ。しかし間を置いて、感情を懸命に押し殺したような低い声で、公務執行妨害、と言うのは聞こえた。
「公務なんですか? お借りします」
くすりと笑い、暗記している番号を押した。
歯軋りでも始めそうな梨木を見るともなく見ながら、どうにも、笑ってしまう。
こういった人物にも、紅子のままでいれば会えなかっただろう。茜や秋山も、それは同じだ。あのままでは、一年ももてばいい方だった。親戚たちも、順当に遺産の配分が行われさえすれば、紅子を親身になって救おうとはしないはずだ。
寝たきりの少女は、自分では家の外に出ることすら、それどころか時によっては、立ち上がることすら儘ならなかった。ただ寝台の上で、己の背にはりつく死に、怯えるばかりだった。
鳴れない携帯電話からは、コール音が鳴ったかどうかのところで、相手が出た。
『用か?』
愛想のかけらもなく単刀直入すぎる声に、笑みが浮かぶ。
相手が皓でなかったらどうするつもりかと言っていた時期もあるが、判っているの一点張りで、今では諦めてしまった。それどころか安心感さえ覚えるのだから、慣れとは恐ろしいものだ。
「すぐに、警察に連絡を取ってちょうだい。担当は高坂署で、今回の失踪事件に、梨木巡査部長と彼と相性が良さそうで冷静な人物をあてるように、要請して」
『ナシキ、下の名は?』
「ケンゾウ、さん。お願いね」
わかった、との返事もなく、話は終わったとばかりに通話が切られる。慣れている皓は平然と携帯電話を畳んだが、持ち主が、恐ろしい目で凝視しているのに気付いてしまった。紅子だったら、これだけで心臓が止まっていそうだ。
しかしそんなことはおくびにも出さず、にこりと微笑む。
「そういうことです。しばらくしたら、正式に捜査要請…で、いいのかな。下りると思いますよ」
「…権力があるのは、判った。何がしたい」
「言ったでしょう。茜さんたちが、無事に見つかること。それも、できる限り早く。望んでいるのは、それだけです。不愉快にさせたかもしれませんが、この際、個人の感情なんてどうでもいいです。よろしくお願いしますね」
一礼して、背を向けた。声がかけられるかと思ったがそんなこともなく、何事もなく、生徒会室に到着した。さて次は先生かと、溜息をつく。
「失礼します」
無難な言葉とともに引き戸を開けると、室内の人々の視線が集中した。
生徒会担当教師の田中と美術部顧問の谷中、写真部顧問の西野に新聞部顧問の山脇、調理部顧問の畠中。教師陣はこの五人と、出張中の校長代理で教頭の笹谷の合計六人。生徒の方は、それぞれの部活や生徒会に関わる者が全員いるわけではないようで、意外に少ない。しかしそれでも、教師陣の三倍ほど。
教師の中には、迷惑や困惑、心配といった感情がそれぞれの比率で混在し、生徒も同様だが、こちらは泣き顔も見られる。生徒会の和利だけが、一瞬、うっすらと共犯めいた眼差しを寄越した。
皓は、そうやって冷静に室内の顔ぶれを観察しながら、異様な雰囲気に気圧されながらも、切羽詰った表情をつくって見せた。
「あの、茜さん、梨木茜さんが、行方不明って聞いて…」
「誰から聞いた?」
田中教諭が、代表を買って出て顔をしかめる。横柄な声は、厄介事を、と言いたげだった。
基本的に、皓がこの学園の理事長だという事実は、理事や各部の校長以外には知らせていない。学園長の名、というよりも経営に関する場で名が出るときには、紅子の方を使っている。戸籍では皓に変更しているのだが、契約などの法律が絡まないものでの名乗りだから、問題はないはずだ。理事長の孫と見做されているのは、特徴的すぎる姓と古風な名による目くらまし効果かもしれない。
皓は困惑したように、不自然にならないように和利に視線を向けた。一瞬だけ見て、すぐに逸らす。つい見てしまったが迷惑はかけられない、ととってもらえたら上出来だ。
案の定、田中は和利を見据えた。
「お前か。いや、今はそんな問題じゃない。いいか、このことは黙っていなさい。今日のところは帰りなさい」
「でも」
「いいか、君がここにいても何にもならない。すぐに帰りなさい」
「田中先生、すみません、確認とろうとして口を滑らせたのは俺です。でも羽山成だって、心配だから来たんですよ。何もできなくても、迷惑にもならないなら、一緒にいさせてやれませんか」
するりと割り込んできた和利は、殊更に強調したわけではないが、「羽山成」の名を出した。その言葉で、学園に通う経営者一族の生徒の存在を思い出したものか、田中は少し、考えるように視線を泳がせた。この程度で、権力におもねっていると非難するのは厳しすぎるだろう。何分ここは、私学だ。
「そうは――」
「勝手なことしないでちょうだい!」
室内にいたほとんどの者が、田中の返答を待っていた。副校長がしゃしゃり出ようとしたのに、気付いたものもいただろう。だがそれらは、勢いよく引き開けられた戸の音と、憤懣やるかたないといった女の声に捻じ伏せられた。
「警察に言うだなんて! 事を大きくして、どうせすぐに帰ってくるに決まってるのよ、馬鹿なことしないで!」
若作りの窺える中年女性はそう言って、ヒールの高い靴を鳴らし、入り口にいた皓を押しやって、一番の年配だった教頭に詰め寄った。鶴のような教頭に対し、女は横に広く、一種の対称図のようでもあった。
だがそれらを表立って笑う者はおらず、呆然と女を見ていた。女は、とにかく警察への通報をなじり(しかし実際には通報は皓の指示を除けばまだだった)、プライベートの侵害だ、とがなり立てていた。プライバシーと間違えたのか故意なのかは、不明だ。
不意に腕が掴まれ、こっそりと、皓と和利は部屋の奥へと移動した。教頭もだが田中も、行方知れずの生徒の保護者だろう女をなだめるのに手一杯で、こちらまでは気が回らない。有耶無耶に、居座れそうな気配が濃厚だ。
「ありがとうございます」
「例には及ばんよ、裏切り者」
にっと笑って、和利は、情報提供者はばらさないのがセオリーだろうに、と軽い口調で囁いた。私は名前出してませんよと、皓は答えた。
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