皓が羽山成皓になったのは、実は、二年も前のことではない。それまでの十数年間を、皓は、羽山成紅子という名と、完治の見込みのない病と寄り添い、生きてきた。

 羽山成家は、幕府の瓦解とともに名乗りを上げ、明治政府の成長とともに栄え、戦後の混乱とともに現状維持を続け、バブル成長とともに展開し、今に至るまで富を確立してきた。商いの神様でもどこかに潜んでいるのではないだろうかと、紅子だった頃に思ったことがある。

 その商いの神は、紅子に潤沢な金銭はくれようとも、幸福は与えてくれなかった。

 両親をなくし、いつ果てるとも知れない紅子を救ってくれたのは、日々発達する現代医療の粋ではなく、迷信・妄信の類に属するだろう、いわゆる「悪魔」という存在だった。

 死後の己の魂を担保に、紅子は、健康な体と、忠実な話し相手を手に入れた。

「響、お茶飲む?」

 既に二人分を用意した紅茶のセットをワゴンに乗せ、皓は、床に直接、盗聴器や小型カメラを山と積んだ名井響に、指し示して見せた。

 今現在、豪邸と呼んでも差し支えのないこの家に暮らすのは、皓と響だけだ。通いで家事をこなす者たちはいるが、夕食が終われば引き上げる。

 皓――あるいは紅この、両親が生きていた頃は住み込みの者も幾人かおり、親戚が泊まりに来ることもあったが、紅子一人になると、まずは祖父の弟の息子という、紅子にとってのはとこ一家が押しかけてきて、家のことを取り仕切った。そのときに、馴染みの住み込みの者らは、全て免職にされてしまった。

 それからは、職務熱心な医師と看護師に囲まれ、紅子は、半ば幽閉の身となった。もっとも、そもそもがよほど調子がよくなければ、一人で歩き回ることもできない身体なのだから、幽閉というのも違うが、本人のいないところで後継者の位置の取り合いをしているのを見ていれば、幽閉で間違ってはいなかっただろうと思う。

 医師たちはよくしてくれたが、それも、後継者が決まるまでのことで、決まって、数多くのものが後継者に継承されてしまえば、医師らの態度も変わるか、他の者に変えられるだろうと予想できてしまったため、打ち解けるまではいかなかった。

 年頃の男女が同棲なんて、という反論は、無視を決め込んだ。

「それにしても、諦めないものねー。外しても外しても仕掛けてくる。学習能力って、ないのかな」

 答えない響には構わず、二人分の紅茶を注ぎ、片方にはクロテッドクリームをたっぷりと浮かべ、もう片方には蜂蜜をたらすと、クリームの方を残し、ティーカップを手に取る。

「根競べとでも、思ってるのかな」

「業者の立ち入りを禁じるか」

 精密機械の山を一まとめに厚手の袋に放り込んだ響は、放置されていたティーカップを取り、機械的に呷った。

 よく火傷しないなと、ついつい見入っていると、真っ黒い瞳が見つめ返した。

 この、少しの茶が混じることもない瞳の色の奇異さに、気付く者はどれだけいるだろう。普通、圧倒的に黒髪に黒い瞳の多い日本人でも、虹彩は茶がかっている。しかし今までに、響の目に見とれる者はあっても、違いを指摘する者はなかった。

「おかわり?」

「…業者の立ち入りは禁じないのか」

「ああ、それ。無駄だと思うよ。ガスや電気なんかの点検の人は来ないと困るから、帰れとも言えない。そうすると、それらの人が頻繁に来るようになるね、きっと」

 実は人外の響を見やり、肩をすくめる。いたちごっこもいいところだ。

 ちなみに、日々掃いて捨てるほどに発見される器具は、いまや顔見知りとなった業者に流している。金の代わりに各種の情報を流してもらい、密かに役に立っているのだが、仕掛けている面々は、果たして知っているのだろうか。

「あ、そうそう。明日来る二人は、ちゃんとしたお客様だからね。丁重に対応してください」

「梅谷小夜子と梅谷真夜か」

「そう。響は、直接は会ったことないね。二人とも、紅子のときからよくしてくれてたから、問題なく帰ってほしい。…正直、真君と会うのは気が重いけど」

 幼い頃から知っている二卵性双生児の二人を思い浮かべ、皓は苦笑いした。

 一月の末になると、私立高校では、推薦受験が開催されるところもある。遠縁の皓よりもひとつ年下の双子は、梨園学園の入試試験を受けるらしい。皓が元気になったことでの急な対応策だが、宿泊にはホテルを取るが、挨拶だけでもしたいと言われては、無碍に断るのも失礼だろう。

 会社などの経営の多くまでを、血縁によって受け継ぐというのは馬鹿げた話だ。それを是正する機会はあっただろうと思うのだが、紅子の後継を争う者たちにとっては一括だった方が楽だったようで、結局、全てを皓が受け継いでしまった。もっとも、実際に管理しているのは響なのだが。

 それだけに、馬鹿馬鹿しい跡目争いは、皓の次代を狙う動きも少なくはなかった。響が障害になるかと思いきや、そのくらいでは怯まないらしい。

 昔馴染みの少年が巻き込まれるのは気に喰わなかったが、仕方のないことだという思いもあった。

「あーあ。明日は、遊園地に行く予定だったのにね」

「行けばいいだろう」

 あっさりと返された言葉に、思わず睨みつけてしまう。そんなことをしても怯む相手ではないと、判ってはいるのだが。

「あのね。推薦とはいえ、一応、受験を控えているの。遊びに連れ出すわけにはいかないよ」

「一人で行けばいいだろう」

 正確には、一人といっても響がつく。何が起きるかわからない環境の中では、響は、保護者兼ボディーガードという、万能の人材だ。人ではないが。

「挨拶に来るって知ってるのに、行けるわけないじゃない」

 怒るより、呆れる。

 響が皓と暮らし始めて二年近くが経つというのに、こういったところは、未だに理解に乏しい。むしろ、理解しながら無視しているような気もする。

 よくこれでコーチや経営のトップが務まっていると思うが、考えてみれば、無口で必要以上に口を開かずにいるために、ぼろが出ていないだけなのかもしれない。

 空になったティーカップを置き、小皿に盛ったチョコレートをつまむ。ふと思いついて、顔を上げる。

「生徒会企画、選ばれたらどうする?」

 訝しげな視線に、話していなかっただろうかと、首を傾げる。

「バレンタインのためにお菓子教室を開いたり、世界のチョコレート展示をしたり、キュピーット・サービスって言って手紙やチョコを届けたり。生徒会が、二月から十四日当日まで限定で、企画を立てたの。そのうちのひとつに、もらったチョコレートの数で上位三名を決定して、ステージに上げるっていうのがあってね。なんでも、選ばれたら好きな人を告白しなくちゃいけないらしいよ。響、選ばれたら、面倒がらずにちゃんと上がってね?」

「何故」

「お祭り気分に水を差しちゃ悪いでしょ。あ、ないと思うけど、私の名前を出したら駄目だからね」

 言いながら、本当にないだろうとは思う。響にとって皓は、ただの契約相手、下手をしたら捕食対象でしかないだろう。だが、面倒で慣れた名を出すことは大いに考えられて、釘を刺す。

 上位にならなければ問題はないのだが、山を張るために情報を収集している新聞部によれば、数学教師の田中と美術教師の谷中、生徒会長の二年秋山、初期の三年林、元野球部の三年桂川、現野球部の二年早川、弓道部一年の水島、それと合気道部と弓道部コーチの名井が、圏内との予想だ。

「皓も、誰かにやるのか」

「え? ああ、チョコレート? うーん、身内には。学校で誰かにあげるつもりはないなあ」

 この場合の身内は、血縁者ではない。皓にとって、家族と呼べるのは通いの使用人たちと、響くらいのものだ。

 皓は、小皿のチョコレートをかじる甘党の悪魔に、笑いかけた。

「チョコくらいいくらでも買えるんだから、心配しなくてもいいのに。別に、バレンタインを逃したからって、チョコレートが食べられないわけじゃないよ?」

「そうか」

「うん。去年は何もしなかったでしょ」

「そうだな」

 去年はまだ、地ならしの時期だったこともあり、それどころではなかったのだが、それよりも、その習慣がなかったためでもある。漫画や小説で存在自体は知っていても、あげる相手もいなければ、自分で選ぶこともできない状況で、習慣になるはずもない。

 いや、そういえば小夜子からもらったことはあるが、それも、食べた紅子が体調を崩してからというもの、禁止されてしまって一度きりだ。

 命を保つはずの食べることでさえ、死へと繋がりかねなかった当時の不自由さを、その心配がない今になって改めて、思い知らされる。

「ねえ。もし、響の正体がばれたらどうなるの?」

「…言うつもりか?」

「うーん、言っても普通、信じないと思うけど。でも響や私を怪しんでる人はたくさんいるわけだし、現に、盗聴器や盗撮機だってたくさん仕掛けられてる。今までは、それどころじゃなかったから気にしてなかったけど…こうドロンと、煙のように消え去ってしまう、なんてことはないよね?」

「皓次第だ」

「はい?」

 響を信用も信頼もしているが、言葉が足りないとは、度々思わされる。

 不満そうに首を傾げた皓を見ながら、響は、チョコレートをひとつ、口に放り込んだ。

「言っただろう。皓が最期を望むまで、俺は従う」

「それなら――例えば、知った人の記憶を消したり、存在そのものを消すこともできるの?」

「ああ」

「そのままにしておくことも?」

「皓が望むなら」

 どこまでも忠実だと、なぜか呆れる。

 しかしここで、勘違いをしてはならない。響は、能力の限りは皓に従うだろうが、その結果、響の能力の及ばない事態に陥ることになるとしても、止めはしないだろう。彼は、皓の生の終わる瞬間を待ち侘びているのだから。 

 魂を担保に願いを叶えてもらうという古典的な契約を結んだのだから、あまりにも当たり前のことではある。むしろこれは、優遇だろう。

 「ファウスト」という戯曲の中で、悪魔メフィストフェレスは、高潔な魂を持った学者ファウストの魂が堕ちることを望み、懸命に、好き勝手なファウストの願いを叶えるべく、奔走することになる。

 決して高潔などでない自分に果たしてそこまでの価値があるのか、皓は未だに疑問に思う。一度きり、限定された契約で、魂を奪われる話も多いというのに。

 とにかく、現在の快適さを失わずにいるためには、選択を間違えないことが肝要だ。

「…ごめんね、響」

 黒い瞳に見つめられ、皓は、微笑した。

「わがままにつき合わせてる。ここまでの分だけでも、たかだか私の魂に、それだけの価値があるとは思えないよ。…わかってるけど、ごめんね、まだ終わりにしたくない」

「人の一生は短い」

「ありがとう」

 本心なのか慰めなのか、あまり表情の表れない響の顔からは窺い知れない。だが皓は、心底思った。

 不意に、響が立ち上がった。そのまま廊下に出てしまった後姿に、懲りずに侵入者でも入ったかと思ったが、しばらくしてから戻ってきた響から聞かされたのは、予想外の話だった。

「高等部二年の女子が、まだ家に帰ってないらしい」

「まだ、って…」

 時計を見ると、日付を超えるかどうかというところ。

 電話の着信音が鳴らないうちに察知した、というのは、驚くことではない。電話の音が好きではないらしく、常に、鳴るか鳴らないかのうちに受話器を上げてしまう。それで丁度回線が繋がるのだから、かけた方も、コール音のなさに驚いていることだろう。

「連絡来るの、早いね。休みなんだから、学校を出たのが最後、なんてわけじゃないんでしょ?」

「部活に出て、五時には終了したはずが戻らないとのことだ。警察にも連絡してあるらしい」

「ああ、なるほど。校長先生あたりから?」

 生徒会の一件以来というもの、高等部の校長は、こまめに理事長に情報を流すようになった。生徒と直通の情報網ができたと思い、失態隠しを諦めたのだろうか。もっとも、今年度からは理事長自身が在籍しているのだから、下手な小細工をしてもマイナスにしかならないと理解しているのか。

 頷いた響が、先を続ける。

「様子を見るらしいが、とりあえず、担任教師と顧問も探しているらしい」

「電話は切った?」

「ああ。他に何がわかっているわけでもないようだったからな」

「そう。家出や、巻き込まれてるにしても軽い事故程度ならいいけど」

 せいぜい数時間の行方不明、と軽く見るつもりはないが、心配してどうなるものでもない。 

 窓の外に広がる暗闇を見るともなく見やって、皓は、紅茶をもう一杯ずつ、それぞれのカップに注いだ。

「その生徒の名前は?」

「森村薫。二年三組、美術部員」

「美術部…バレンタイン企画の垂れ幕を描いてたのか」

 ただ事実を呟いただけのそれに、返事はない。

 期待はしていなかったが、注いだ紅茶にクロテッドクリームがたっぷりと入れられるのを見て、悪魔は糖尿病とは縁がないのだろうかと、的外れなことを考えた。その心配は、夜中にお茶会をする皓自身にも、向けられるべきだろうとは思うのだが。

「森村先輩、か。無事に見つかるといいね」

 半ば呟きのそれは、すぐに叶えられることはなかった。むしろ、それが始まりだったと、思い知らされることになる。




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