あれ、ここは?
 ああ、そうだった。真っ直ぐに歩くのだった。出口は、着けば判るからって。
 後ろを振り向いちゃいけないって。
 真っ直ぐ、歩いて行きなさいって。



「あー…後ろ、振り向きたくなってきちゃった」

 冗談めかして、わざわざ声に出して言う。

 そうでもしなければ、不安に押しつぶされそうだった。ここで座り込んでしまうか、振り向いてしまうか。

 ただでさえ、随分と長いと思える時間を、この暗闇を歩いているのだ。前も後ろもないような暗闇を、多分前だろうと思う方向に向かって。

 彼と出会ったのは自室だった。

 紅子は、寝台に横たわって医療器具に繋がれたまま、何度目か数える気にもならない生死の境をさまよっていた。詰めているはずの医師たちは、紅子が意識を取り戻し、彼の姿を認めたときには、見当たらなかった。

 彼から話を聞いて、即座に、先日読んだばかりの物語を思い浮かべた。

 驚くほどに病弱で外出もままならない紅子にとって、読書は最大の娯楽で、時間の消化の仕方だった。もっともそれも、長時間は困難という制約がついていたが。

 見上げれば彼は二枚目俳優のように整った顔立ちで、なるほどと、なぜか納得した。

「つまり、あなたがメフィストフェレスで、私がファウスト博士というわけね?」

「………まあ、そんなところだな」

「あら、あなたもあの話を知っているの? 悪魔も、本を読むのね」

 沈黙の後に、渋々といった体で返された言葉に、紅子は目を見張って言った。先ほどよりも長い沈黙の後には、溜息だけが聞こえた。

 そうして、この暗闇に連れてこられた。

 暗闇の中でも、紅子たちは少し話した。相手の姿はおろか自分の姿さえも、見えなかった。

「悪魔って親切よね」

「…そうなのか?」

「そうよ」

「何故」

「だって、報酬は後払いでしょう。ずる賢いと聞くから、詐欺まがいで命だけ掠め取られたら話は別だけど。先に願いを叶えてくれるのだから、親切よ」

「…そういう、ものか…?」

「ええ。だって、報酬が先払いだったら、自分の願いが叶うところを見届けられないじゃない。私はね、あの人たちが舌打ちするところを、しっかりと見届けたいの。そうして、嘲笑ってやるわ」

「親族を殺すのが、お前の願いか?」

「まさか。簡単に楽になってもらっては困るわ。あの人たちは、私がいて、抜かりなく財産を見張っているだけで十分に迷惑なのだもの。それなら、散々迷惑をかけて、私自身は毎日を楽しむの。私が非の打ち所がないくらいに健康で、誰にも邪魔を去れずに、厭になるまで私自身が楽しく生きることが望みよ。もちろん、羽山成の当主になって、散々、親戚一同に迷惑をかけてね」

 そうして、契約のために出された条件が、この暗闇から戻ること。そして、後ろを振り向くと、どうなるかはわからないと言われた。

「だけど、駄目よね。禁止って、まるで、破らせるためにあるみたいなんだもの。娘が見ないでくださいって言って機を織っていたら見ちゃうし、開けるなって言われた扉は開けるし、押すなって書かれたボタンは押すのよ」

 やはり声に出して言って、紅子は、足を速めた。

 一切光のない闇のせいで、時間感覚など、疾うに麻痺している。それでなくても、自分の足で歩く機会すら少なかったのだ。

 はじめこそ、歩いても歩いても息切れもせず、倒れることのない体に喜んだが、ここまでくると不安が勝る。少し、飽きたということもある。人間、何にでも慣れるものだ。

「駄目よね、駄目。後ろを見たってどうせ、何もないんだから。ああだけど…」

 ぴたりと足が止まったのはもう十回ほども、そんなことを一人で呟き続けた後のことだった。

「大体、ここまで来ちゃったら前も後ろもないわよ…ね?」 

 止まって、ゆっくりと、恐る恐ると首を動かす。三度ほど躊躇った後、思い切って体ごと振り向く。

「…あら?」

 一瞬、鏡があるのかと思った。しかしすぐに、違うとわかる。手が伸びてきて、紅子の首に触れた。

 殺されると、そう、思った。

 咄嗟に、後ろに倒れ込む。思い切り打ち付けたお尻が痛いが、それに顔をしかめるよりも、向かいに立つ「自分」に目を見張る。それまで見えなかった、自分や相手が見えることに驚く暇もない。

「ええと、離魂病? ゲーテ尽くしなのね…なんて、言ってる場合じゃないみたいだけど…」

 更に手が伸びてきて、逃げたいのだが、しっかりと腰を下ろしてしまっているため、動けない。そもそも、これまでの人生の多くを寝てすごしてきた紅子は、体を動かすことに慣れていない。

「どうなるか知らないって、こういうことなの。自分で自分に直接殺されるなんて、ちょっとできない体験よね。離魂病だって、直接じゃなかったはずなのに」

 気が動転して、いっそう口数が増える。

 それでも紅子は、無表情に見下ろす「自分」を、目を逸らすことなく見つめていた。

 死はあまりにも近すぎて、そのものへの忌避は薄い。ただ――それが唐突なものとは知っていても――わけがわからずに終わるのは、好みではない。

「あら?」

 喉に絡みつく手にろくに抵抗もせず、紅子は、その目を覗き込んだ。

「あなたの眼。悪魔さんに似てるわ」

 手が、力を込める寸前で消えた。手だけでなく、もう一人の自分そのものがいなくなった。

「え? 何?」

 次いで、闇が消える。慌てて見回すと、そこは自室で、いつものように寝台に寝ていた。急に頭を動かしたものだから、幼い頃から馴染みの、きつい眩暈が起きた。

「契約には、血を使う」

「え?」

 ゆっくりと顔を上げると、寝台の横には彼が立ち、感情のないような表情をしていた。暗闇に入る前の状況なのだと、気付くのに少しかかった。

「悪魔さん…?」

「何だ」

「私、どうして帰って来られたのかしら。後ろを振り返ってしまったのに。自分に殺されるところだったのに。そういえばあの私は、あなたに随分と似ていたわ」

「お前は、条件を満たした。だから契約を…」

「待ってよ。だから、満たしてないわ。出口を見つけてないし、後ろだって振り返ったのよ」

 困惑したまま、紅子はか細い声で反論した。それだけで、息が上がる。彼が、溜息をついた。

「あれでいいんだ」

「…どういうこと?」

「あそこから帰ること。出した条件は、それだけだっただろう」

「でも、後ろを振り向くなって…」

「どうなるかわからない、としか言ってない」

 では、もう一人の自分が彼だと、見抜いたから戻れたのだろうか。気付かなければ、ずっと歩き続けたか、そのまま殺されたか。そんなところだったのだろうか。

「…嘘、ついたの…?」

「悪魔はずる賢いんだろう?」

「騙された…?」

 呟いて、溜息をつく。そうして一度、深呼吸をした。

「いいのよね、私は損なんてしてないし」

「契約を」

「ええ」

 静かな夜の、出来事だった。




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