「やはり、地図か案内人が必要だな」
* * *
借りた一室に荷物を運び終えると、幸は、窓辺に寄りかかる陸を振り返った。 「ちょっと用があるの。下に行って来るわね」 先ほど食事をした場所の、二階が今日の宿だ。一階が酒を出す酒家で、二階が宿屋になっているつくりは、そう珍しくはない、らしい。 幸は、瑠璃色の瞳にじっと見つめられ、怪訝そうに見つめ返した。 先日の戒の目論見が当たり、それまではいつも突っかかっていた戻に対しても、陸の態度は丸くなっている。それと一緒に、今のように、何も言わずに見つめることも増えた気がする。 「何?」 「下にいたの、知り合いか」 「どうして――」 「顔色が変わった。いい相手じゃねェなら、俺も行くか。虚仮脅しくらいにはなるだろ」 視線は違うところに向いているが、苛立っている様子もなく、言葉は淡々としている。 幸は、少し迷ってから口を開いた。 「虚仮脅しとか、自分を見くびらないなら来てもいいわよ?」 「本当のことだろ」 「あんたね、落ち込むなら見えないところでやりなさいよ。慰めてほしいわけ?」 こちらを見た陸が、笑ったように見えた。軽く、どこか吹っ切れたように。紙一重で、投げ遣りにも見えるように。 幸は思わずまじまじと見詰めたが、それはほんの一瞬で掻き消えた。そこにあるのは、いつもの無愛想顔だ。 「今の俺は、お前や空どころか、戒や――戻よりも弱い。いくらなんでも、そのくらいわかってる。で、どうする?」 「え?」 今度ははっきりと、陸は苦笑した。 「大丈夫なら行って来いよ。適当に寝てる」 「――平気よ。人目のあるところで妙なことなんてしないでしょうし。すぐに戻るわ」 気付くと早口で言い終えて、幸は部屋を出ていた。何故か落ち着かないが、気のせいということにして階下に降りる。 先ほどと同じ席に、その男はいた。 今度ははっきりと幸に気付いたようだが、先ほど隣にいた見知らぬ青年は姿を消している。 「よ」 さも当然のように片手を挙げ、空いている隣を示す。幸は、それに逆らって真向かいに腰を下ろした。 「どういうつもり?」 「折角の再会だっていうのにつれないな。ほら、しかめっ面すると美人が台無しだぜ?」 にやにやと、茶色と鳶色の髪と瞳をした男は笑う。以前見たときも見事に周囲に溶け込んでいたが、今も、旅慣れた商人あるいは旅人然としている。おそらくは、一人の長かった幸よりもずっと、馴染んでいる。 幸は、軽薄を装う男を睨みつけた。 「聞いたわ。戻の親戚ですって? あたしに近付いて、どうするつもりだったの。今だって、こそこそと付いてきて、どういうつもり」 幸は詳しいことは聞いてはいないが、戻が血縁者に恵まれていないということくらいはわかっているつもりだ。 実際、比較的最近明らかになった血縁者は、戻にとってはまず、赤の他人よりも厄介な存在でしかない。 その筆頭は今は亡き父と戻を目の敵とする異母兄で、この二人に対しては憎しみを持つことさえ辞めたいほどに、関わりたくないと思っているくらいだ。 淋烈という名のこの男は、戻の叔父に当たる。戒にそう聞いてはいたが、見れば見るほど、幸には皇族だとは信じられない。もう少し、威厳めいたものがありはしないのか。 烈は、にこやかに笑って卓上のつまみをすすめた。幸は、それをきっぱりと無視する。仕方ないなあ、と笑って肩を竦められたところが癪に障る。 「本音と建前、どっちが聞きたい?」 「両方」 「そいつは強欲な。まあ、幸ちゃんが美人なのに免じて今回だけ、特別に教えてあげよう」 水のようだが度は強い、この辺りでは一般的な酒をぐいと呷り、烈は笑った。 「戻ちゃんが見事辿り着けたとしても、よほどの証拠がなけりゃ、突っぱねて終わりだろ? そいつは偲びないから、見届け役を買って出てやったってわけだ」 「セイとかいうのとは別口ってこと?」 戻と知り合いだったらしい軍人の名を出すと、烈は、色々なものを笑顔に隠したまま酒を流し込む。 「別口別口。静ちゃんたちは、見届けるんじゃなくて妨害役だからなあ、どっちかと言ったら」 「…それが建前? 本音は?」 「傷心の子どもが、あれよあれよという間に強い味方を集めて大冒険に出かけるんだぜ? 特等席で見なくてどうするよ」 幸は、背筋を走った寒気から無理矢理目を逸らした。一見うまく隠しているが、この男は何故こんなにも――虚ろなのだろう。 全てを見透かしたような、何も映していないような鳶色の瞳が、幸を映し出している。 「まあ、そう警戒することもないって。俺は、美人と子どもには弱いから」 烈の言う「子ども」には誰までが入るのだろうと、幸は思った。 そうして幸は、陸がいなくて良かったと思い、やっぱり付いて来てもらえば良かったとも、同時に思った。 * * *
まだ道士として半人前でしかなく、込み入ったものになれば呪符すら自作できずにいる戻は、順調に補充を終え、通りに出た――ところで、人にぶつかった。 「っと、悪い」 「いえ、こちらも――空?」 何故か驚いたように目を見開いた空に気付き、戻は訝しげに名を呼んだ。だが空は、戻のぶつかった青年を凝視している。 青年は、戻と同年代だろう十代後半ほどに見え、癖のない髪を束ねて背に流している。簡素なありふれた道衣を身に着け、身長は戻よりもごくわずかに低い。瞳は髪と同じ黒。別段、注目するようなところはない。 「―――」 「空!」 聞き取れない何かを声にして、空は倒れた。 咄嗟に伸ばした戻の手は届かず、代りに、青年が難なく抱き留めた。脈を見る余裕すらある。 「病持ちか?」 「いや、そうは――」 聞いてはいないが、そもそも空のことをよくは知らない。空自身がわかっていないということもあったが、知ろうとする余裕にも、欠いていた。 その事に、今更気付いた。 「――月割草の、副作用が残っていたのかも知れない」 「月割草っていうと…あれか。体に力が入らなかったり、記憶が混乱したり。今までにも?」 「一度だけ」 その一度の対処で、全て消えたものと思い込んでいた。その言葉を飲み込み、戻は黙り込んだ。打ち消す効果を持つ唐草を乾燥させたものは持っているが、宿に置いて来てしまった。 一度、戻るべきか。だが、その間に取り返しのつかないことになったらどうするのか。 「この子の名は? お前は?」 「何故?」 「呼ぶのに不便だ。ああ、俺はリー・ラオ。ラオでいい」 ありふれすぎているが、古の神にあやかったよくある名であるだけに、本名かもしれない。 ひとまず、通行の邪魔にならないように空を抱きかかえて歩き出したラオになす術もなく従い、やせ細った木の陰に移った。 「俺は瞬戻。彼女は空だ」 「空」 ラオはぽつりと、呟くように名を口にした。地面に横たえられた空にばかり意識を向けている戻の耳には、届かない。 袂から薬包と竹筒を取り出すと、ラオは空から視線も逸らさずに戻に問いかけた。 「空との付き合いは長いのか? 月割草はどのくらい使ってたんだ」 「――数ヶ月ほど前まで、数年ばかり、下手をすると毎日のように…」 「そうか。それで倒れたのが一度だけなら、体への影響は少ないみたいだな。これは、記憶の方の問題だろう。俺の顔に仰天して倒れたんじゃないだろうな、まさか」 軽い口調で言いながら、てきぱきと粉末を竹筒の水で空に飲ませる。意識を失っているというのにこぼすこともなく慣れた手つきを、戻はただ、見ていた。 筒を戻すと、ラオは戻を見て苦笑した。 「何てかおしてんだよ。大丈夫、このくらいなら問題ねーよ」 「…詳しいんだな。今、飲ませたのは…」 「唐草の汁を乾かしたやつだ。ただ乾燥させたやつより作り辛いけど、即効性があるからな。俺は、まあこれで喰ってるようなもんだし? お前も詳しいみたいじゃねーか」 「いや」 また、目の前で喪うのかと思った。 己の過信に気付いて、未だ無力だったと思い知らされて、戻は知らずに拳を握り締めていた。無条件に慕ってくれている空を助けることすら、見知らぬ他人に任せるしかできなかった。 「おい」 不意に、頭を抑えられた。驚いて顔を上げると、ラオにぺしりと額を叩かれる。 「たまたま俺がいて運が良かったな、次がないように注意しとけ。落ち込んでる閑なんてねーだろ、皇奏国は遠いぜ?」 「――何故」 「睨むなって。さっき酒家にいただろ、俺もいたんだ。話が聞こえた上に目立つ奴らだなーって覚えてたんだよ」 殊更には隠していない空や陸の髪も、戒の瞳も、ついでに挙げれば見目のいい幸も、一人でも目立つが集まれば尚更だ。ない話ではない。 戻は咄嗟に、まだ意識の戻らない空に視線を向けた。今すぐ、どうにかしてラオから離れるべきだろうか。 だから次の言葉を口にしたラオの表情を、戻は目にしていない。 「良かったら案内人、俺を雇わないか。ついでだから、薬なんかのことを教えてやってもいいぜ。知識、足りてないと思ってるんだろ?」 「――目的は」 空の身体をできる限り引き寄せ、戻はラオを睨みつけた。いくらなんでも、都合が良すぎる。 ラオは、にっと笑った。 「鋭い。ちょっと探してるものがあってな。お前らのとこから気配がしたんだ。旅の間必要なものはそっち持ちで、妖なんかを相手にすることになっても、基本的には俺は手を出さない。その上でそいつを譲ってくれっていうのが条件だ」 「気配?」 「ああ。大きさまでは判らねーけど、青い石だ。元の持ち主がちょっと特殊で、強くはねーけど力を帯びててな。元は一個だったのがいくつにも割れたんだけど、集めてるんだ」 「教えるというのは」 「弟子を持つのもいいかと思ってな。ああ、師匠だのなんだのって呼べなんて言わねーよ。ラオでいい」 本心の見極めにくい笑顔を見つめ、戻は、迷った。 * * *
「お邪魔しました」 仲介所を出て、溜息を呑み込んだ――ところで、戒は素早く身を避けた。締めたばかりの戸に、小刀が突き刺さる。 小刀の刃は捩れ、柄は赤い。今や廃れたと言っていいほどに少数になっている集団が使っているものだが、戒は、その持ち主に心当たりがあった。 小刀の飛んできた方向に目を転じれば見極められるだろうが、一瞬だけ考えてから背を向ける。 「待てよ、死に損ない」 「どちら様でしょう? 寡聞にして私は、二周りも年下の娘に懸想したものの接し方がわからず結局気味の悪い人だと思われるような方は存じ上げないのですが」 「…黙れ、クソガキ」 「おやすみません。人かと思っていましたが、言葉の意味もわからない熊でしたか」 戒がにっこりと笑みを向けると、がっしりとした体躯の男は、あからさまに厭そうな顔をした。 この男は、戒の親戚の鈴という少女に岡惚れしてからというもの、戒を目の敵にしている。まさかこんなところで出喰わすとは思ってもいなかったが、それは相手も同じだろう。 南方の血が混じっているのか浅黒い肌をした男は、小刀を懐に戻すと、忌々しげに戒をねめつけた。 「大店の店主サマがなんだってこんなところに居やがんだ?」 「私用です。そちらは、商用とかこつけて女性への贈り物でもお探しで?」 「このガ…うあぁあああッ!」 突然、男が大声を上げる。戒のものとは比べ物にならないほどに太い右腕を持ち上げ、「腕が」と、繰り返し叫ぶ。 眉を顰めて男から更に距離を置いた戒は、ごく自然に隣を抜けていった青年の動きを、これも自然に、見つめた。 長い黒髪を戒よりも根元に近い部分で束ねた青年は、今や意味を成さない言葉を吐き散らし太く頑丈そうな両腕を闇雲に振り回す男に気安く近付き、首筋に手刀を叩き込んだ。軽く見えた打撃はだが、確実に効き、男は重そうな音を立てて地面に崩れ落ちる。 次いで青年は、通りを行き交っていたり建物の中にいた人々が遠巻きに見守る中、倒れた男を囲うように糸で楕円を描き、男の上に、はらりと符を落とした。 「招、浄炎」 青年が、張り上げたわけでもないのに凛と響く声で言い放つと、糸の円の中を青い炎が覆った。 周囲から悲鳴じみた声が上がったが青年は涼しい顔で、やがて、両手を打ち鳴らす。そうすると途端に燃え盛っていた炎は消え、糸だけを灰にすると、焦げ目一つない男の姿が残った。 「あの男は?」 「――戻さん」 「知り合いか? 案内人候補なら介抱するが」 「いえ、違います。ただの知己です。用事は済んだのですか? 空ちゃんは…」 「先に宿に戻した」 不意に現れた戻は、一人で立っている。戒は、多少怪訝に思いながらもそうですか、と言うに留めた。 そうしている間に、戻と同じく道士だろう青年が、先ほど戒が後にした仲介所の人間に、何か指示をしている。手早く終えると、何故かこちらを向いた。 「ただの中毒だ。幻覚作用のある茸の胞子をくっつけて来てたんだな。体についた分は焼き払って、飲み薬も渡したから問題ないだろ。…ところであいつ、紅刃か?」 「紅刃?」 急に声をかけられ戸惑う戒の隣で、戻が平然と訊ね返す。戒は、内心で驚きつつも、とりあえず平静を装った。 「知らねーか。昔々、誓直子って神様がいて、それを祀ってたちょーっと行き過ぎた集団なんだけどな」 「ああ…苦手なのか。ラオ、だからか?」 「ま、そんなとこだ。さっき、特徴のある刃物が見えてなー。紅刃なら放っときゃ良かったなんて小さいことは言いたくねーけど、うーん、気分は良くねーなー」 「…戻さん、こちらは…?」 二人の関係がつかめず、仕方なく声をかけると、戻よりも先に青年から、あっ悪い、と声が飛んだ。 戻と並ぶとどことなく似ているのは、道衣のせいだろうか。青年は、とりあえず移動しよう、と提案して歩きながら、リー・ラオと名乗った。 「ラオって呼んでくれ」 そこでようやく、先ほどの会話が腑に落ちた。 リー・ラオは、本名かどうかはさておき、李潦史という医術と武術との古くからの神にあやかった名だろう。かつて、世界を滅ぼそうとした誓直子という、こちらは今となってはほぼ名のみしか伝わっていない神を斃し、民衆の絶大な信仰を得た。 取り分け、皇奏国があったとされる近辺では、その建国に手を貸した、病の民を一手に引き受け治療した、という伝説が残るため、あやかった名を持つ者は多い。その分、紅刃の肩身も狭くなりそうなものだが、祀る神の名が構成員以外にほぼ秘されているためか、案外そうでもない。むしろ、全体として減少している中では、多いほどだ。 しかし、それはさて置き。 適当な茶屋で足を止めると、ラオがまとめて三人分をたのみ、戻が淡々と、他がなければラオに道案内を頼もうかと思っている、と告げた。 戒は、表情を動かさず静かに驚き、訊きたいことはいくつもあったが、とりあえず呑み込んだ。そうしている間に、湯気の立った茶が運ばれる。花茶らしく、甘酸っぱい匂いが広がる。 「ただ、条件があるらしい」 「あんたが持ち主なんだって? 青い石、持ってるだろ? 指輪になってるらしいけど。それを譲ってもらうのと、道中の費用はそっち持ち。あと俺は、妖や何やが出てきても、極力手は貸さないからそのつもりでいてほしい」 費用は当然としても、戦闘能力がないのかと考えかけ、そんなはずはないと思い直す。先ほど、我を失い暴れる男に躊躇なく近付き、抑えた。その上、道術も使える。それで無力とは、信じろと言われても無理だ。 指輪に関しては、父の残したものではあるが、特に思い入れがあるわけではない。父の遺品は、他にもある。 「戻さんが決めたのであれば、かまいませんよ」 「悪いな」 「いえ」 苦笑を返して、茶碗を手に取る。赤い色をしたその茶は、戒の地元であれば珍しいがこの辺りでは一般的だ。一口含むと、匂いに違わずわずかに甘く、酸い。 戒はふと、ラオに見つめられていることに気付いた。 「何か?」 「いや。雇ってもらえるみたいだから文句を言うのもあれなんだけどさ、あんたのそれ、信頼? 盲信?」 その瞬間を、戒は覚えていない。 気付けば、ラオの髪と道衣が薄赤く染まっていた。湯気も、上がっている。 あまり呑んでいなかった茶を、憤りに任せて頭から浴びせたと気付くまでには大分間があった。 「戒」 戻に呼ばれた名は、あまりに平淡で感情を含んではいなかった。呆然と眼を向けると、そちらからも呆けたような視線を向けられていた。 何かを言わねばと焦ったが、言葉がない。こんなことは何年ぶりかと手繰る間もなく、近くで笑い声がはじけた。 これには、青年が一人湯気の立つ茶をかけられたことに気付かなかった人々も、視線を向ける。だが当人は、愉快そうに笑っていた。頭から薄い赤に染められ、薄く湯気を立てながら。 「案外、考えるより先に動くんだな、若いんだから、そうこなくっちゃな。自覚してるなら、ま、いーんじゃねーの?」 戒よりも若いはずの青年はからからと笑い、でも勿体無いなこれ、と、残念そうに付け加えた。 |
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