日常
丹念に術の気配を消し、埋もれさせた上に、晩餐の残り物を置く。周囲は静まり返り、真夏と言えど朝晩はそれなりに冷え込むため、上着代わりに魔導士のローブを羽織っている。
術はごく単純なもので、むしろそれを隠すためにこそ高度な技術が使われている。しかしそれは、エバンスにとっては慣れたものでもある。
術の目的は、この頃城内を荒らし回っている、鼠の捕縛。――平和だ。
「あーいたいた、イヴ、ちょっとこれ…寝てる?」
人気のない厨房にひょっこりと姿を現したキールは、隅の壁に寄りかかって目をつぶっていたエバンスの姿に、声を潜めて呟いた。
勿論眠ってなどいないエバンスは、目を開けても尚薄暗い空間に目を凝らした。思っていたよりも人影がはっきりと判り、今日は満月だったと思い出す。窓から、月明かりが差し込んでいる。濃い緑の瞳だけが、光を浴びてか宝石のように見えた。
「起きている。今度は何をしているんだ」
壁を押して反動で背を離し、入り口にいるキールのところへと危うげなく移動する。
色々と問題ごとが山積みだったキールの身柄は、今も厄介で問題だらけには変わりない。とりあえず捕獲ということで軟禁扱いとしているが、実際のところ、客人とさして変わりない。
それでもそれなりに日々は移り、やたらと雑事にばかり時間を取られるエバンスの日常も復活した。ただし、雑事の量は一層に増えて。
その根源は、いつものようにへらへらと笑った。近付けば、表情も読み取れる。
「やー、忙しいならいーんだけど。明日じーさまたちでも捕まえて訊くし」
「…何だ」
この城内で、それどころかもしかすると国内ですら、エバンスを除くリーランドの宮廷魔導士二人を「じーさま」などと呼ぶ者はいないに違いない。この問題児以外。そしてエバンスは、できればキールにあの二人とは接触してほしくなかった。政治的立場云々ではなく、単純に、何か仕出かしそうでエバンスの心臓に悪い。同じ理由で、兄――国王とも離れていてほしい。
しかし、国の重要人物の上にある意味で最重要危険人物である三人は、少なくともエバンスの知る範囲内では、すっかりキールのことを気に入ってしまっている。この頃胃が痛むのは、決して気のせいではないに違いない。
明日には死刑、という事態になってもおかしくない、日々不安定な情勢の中で暮らしているはずの居候は、笑顔のままで肩をすくめた。
「やっぱやめとく、怒られそうだし」
「そんなことを言われたら聞かないわけにはいかないだろう」
「あ、やっぱり? んー、いや、でもいいや」
「…吐け」
「わっ、首絞めるの反則!」
襟首を掴むと、大袈裟に暴れて見せる。これで本当に同い年だろうかと、少し呆れる。
しかしエバンス自身も大人気ないと自覚して、手を離す。どうにも、キールといると調子が狂う。この間、廊下でキールを怒鳴りつけたときに居合わせた下女の顔はいっそ見ものだった。
後方に二、三歩後ずさって距離をとったキールは、で、と顔だけ突き出した。
「こんなとこで何やってたの」
「鼠捕りだ」
「…あんたさ、宮廷魔導士だよな? 結構なお偉いさん相手にでかい態度しても怒られないくらい権威あって力だの技術だのもあるんだよな? なんで、そんな下男みたいな仕事やってんのさ」
言っていることに腹は立たないが、権威と言われると嬉しくない。それは、宮廷魔導士に就いたことも含め、実力ではなく血筋に負うのだから。
思わず苦い顔になったのを怒ったと思ったのか、わずかに心配そうなかおになったのを見て、苦笑が洩れる。キールが実家にいた頃よりも表情を隠すのが下手になっているのは、ある意味では良いことだろう。
「どんな鼠取りにもかからない、賢いやつらしいんだ。残飯はもとよりシーツや枕だの仕舞い込んでいた礼服だの、やたらと被害が出ているということだから、目新しい方法を取ったらどうかということになって」
「どーせ、それもあんたから言ったんだろ。それでなくたって色々抱え込んでんのに、わざわざ仕事増やすなよ」
「このくらい、増えたうちにも入らない」
「塵も積もれば山となるって言葉知ってる? 俺、ここ来て数ヶ月も経ってないけどさー、あんたが丸一日休んでる日って見たことないんだけど?」
キールが監視対象であり、エバンスがその責任者と目されているだけに、何かと一緒にいることは多い。その上でそう言われてしまうと、誤魔化しようがなかった。
忙しいだの仕事を回しすぎだのと言いながらも、何かやっている方が落ち着く。だがそんなことを言えば更に呆れられるだけだろうので、口をつぐむ。それぞれの合間合間や移動時間は空いているといえないこともなく、そう自分の時間が少ないとも思わないのだが、今言ってもいいわけのようにしか聞こえないだろう。
言葉を探しあぐねているうちに、軽く肩を叩かれた。
「とりあえず、今日はもうそれで終わりだろ? とっとと寝ちまえ、満月真上超えてんだぜ?」
ほら行った行った、と背を押され、逆らう理由も見つからずに厨房を後にした。いや、しようとしたところで、術の発動に気付いて振り返る。
「んん?」
はっきりとではないにしても、何かしら気付いた様子のキールも体ごと振り向き、濃緑に発光する魔法陣に目を丸くする。
「かかった」
肩の手を振り払って戻ると、キールもついて来た。別に構わないのだが、小さな魔法陣の中にちんまりと鎮座した黒いもこもことした塊を見たときに、つい、振り返ってしまった。不思議そうに見返されただけで、キールもそれが何か、答えを持っていないことが知れた。
単独で行動することの多かったエバンスは、そういった一連のやり取りに違和感を覚えながらも、塊に目を戻す。ついでに、片膝をついて顔を近づける。
「…綿埃の塊?」
「すくなくとも、術にかかった以上生き物ではあるはずだが…」
動いた。
俊敏に走ったかと思うと、結界の見えない壁に遮られ、深緑の燐光を撒き散らしながら陣の中央に引っくり返る。
二、三度繰り返したところで、隣でキールが噴き出した。実際、ほのぼのと笑いを呼び起こす動きではある。
塊は、上を向いた。もこもこの奥に光るものが見え、瞳かと気付く。一つしか見えないのは、片方は埋もれているのだろうか。
エバンスが手を伸ばすと、さっと避けた。
「…人の裏を掻くほど賢いなら、殺す気がないことにも気付け。とりあえず大人しくしてろ、酷い目に遭わせるつもりはない」
「いやー、いくらなんでも通じないだろ?」
「大人しくはなったな」
手を伸ばしても、もう逃げようとはしなかった。ただ、じっとエバンスを見つめる。
もこもこの正体はキールが見破った通りに埃で、一度は間違えて埃だけを掴んだが、改めて、その下の毛皮をつまみ上げる。大人しく引き上げた謎の生物を、手の平に落とす。埃が落ちた。
「とりあえず、洗うか」
キィと、鼠らしい甲高い声が抗議めいて上がったが、エバンスは無視して立ち上がった。急いで、キールがその後に続く。
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