久方ぶりに帰り着いた郷里は、年月というよりも戦乱で大きく変わっていたが、劉は、昔我が家のあった場所に行くのも宿を取るのも後回しにして、渭水の橋のたもとに足を運んだ。

 川は深く、流れも速い。さて、どうやって、おそらくは水の下にあるだろう蔡の実家にたどり着いたものか。

「まあ…龍神が、わざわざ俺なんかを騙すはずもないか」

 呟いて、目を閉じて橋の柱を叩く。鈍い音がした。

「どちら様ですか」

 返事があったが、近くには誰もいなかったはずと目をあけると、橋も川も消え、朱色の門の豪邸があった。門の向こうに、大小様々な楼閣が建ち並んでいる。

「うわ…」

 これが、噂に聞く龍宮か。

 唖然としてそんなことを考えていると、声の主らしい紫の着物の男が、両手を胸の前で重ねて組んで、敬礼をした。

「どのような御用でしょう?」

 格式張った使用人に、咳払いをひとつ落とし、慌てるなよと、自分に言い聞かせる。

「呉郡から来ました。お宅の若君の手紙を持っています」

「お預かりしましょう。少々お待ちください」

「いえ、用事はそれで済ん…おーい」

 予想以上の豪邸に、手紙を渡して帰ろうかと思ったのだが、使用人は、滑るようにして門の内に姿を消してしまった。

 仕方なく、豪邸の様子を半ば呆れ、半ば感心して眺める。それにしても、ここは地上なのか、水中なのか。息はできるが、地上にこんなものがあれば誰もが知っているはずだ。

 劉は、しばらくして戻ってきた使用人を、少しばかり意外に思った。金持ちの家の取次ぎは、長くかかると相場が決まっているというのに、随分と早い。これも龍だからか。関係ないか。 

「大奥様がお呼びです」

「いや、俺はこれで」

「どうぞ、こちらです」

 帰ろうにも、ついてきて当然とばかりに劉が動くのを待っている。ここで行かないのも失礼かと思い直すが、どうにも、龍というものは人の話を聞かないのかもしれないと、蔡の涼やかな顔を思い出して溜息をついた。あるいは、蔡一族の傾向か。

「そのー、大奥様は、どんなお人…って人じゃないのか。方ですか?」

「会われれば判ります」

 そりゃそうだ、という言葉は腹の中だけに収めておくことにした。

 案内された大広間では、その大奥様が待ち構えていた。四十歳ほどの年齢だが、美しい容姿をしている。服は全て、そろいも揃って豪奢な紫色だ。

 お辞儀をすると、丁寧なお礼が返ってきた。そうして、じっと劉の顔を見つめる。

「息子は遠くに行ったまま、長く便りが途絶えておりました。数千里の距離を経て、手紙をお持ちくださったことに感謝します。あれは若い時分に上官の機嫌を損ね、その恨みが未だ消えていないのです。逃げ去ってから、何年もの間音信が途絶えておりました。あなたがおいでくださらなければ、心配は尽きなかったでしょう」

 そうした長い礼を述べると、劉に座るように勧めた。そこでようやく、口を挟む余地が見出せた。

 家に入る方法が言われた通りだったのだから、他の忠告にも従った方がいいのだろう。

「息子さんと、兄弟の契りを交わしました。彼の妹は、すなわち私の妹です。妹さんにも、お目にかかりたいものです」

「息子も、手紙にそう書いておりました。娘は、今、ちょうど身支度の整った頃でしょう。間もなく、出てきてお目にかかりますわ」

「お嬢様が参られます」 

 突然に、青い服の者が先触れに訪れ、足音のなかったことに驚いた劉は、しかし、すぐにそれどころではなくなった。

 姿を見せたのは、十五、六の少女。皇帝さえ射止めそうなほどの美貌で、見るからに頭が良さそうだ。うっかりと、見とれてしまう。

 少女は、挨拶を済ませると母親の側に座り、食事の用意をするよう命じた。あっさりとしたつれなさは、蔡に通じるものがある。さすがは、兄妹。

 手が込んでいる食事を向かい合って食べていると、夫人は、劉をじっと見つめた。みるみる目が赤く染まる。龍にはよくあることなのだろうか、一体何事だろうと思っていると、少女が、慌てて母親に話しかけた。

「兄様が頼んで来て下さったのよ、しばらく礼を守ってくださいな。まして、愁いを解消してくださったのですよ。動揺させてはなりませんわ」

 そうして、美しい笑顔を貫詞に向ける。

「兄の言いつけでは、十万の銭をお贈りするようにとのことですが、重くなりますので、軽く致しますわね。今、椀をひとつ差し上げます。その値が十万に相当します。如何でしょう?」

「既に、私達はきょうだいです。ただ手紙を持ってきただけのことで、どうして贈り物を受け取れるでしょう」

 慣れない言い回しを口にしてはみたが、今度は夫人が口を開く。

「あなたが、手元不如意で各地を渡り歩かれていることを、息子は詳しく述べています。あれの言い分に沿いたいと思います。断ってはなりませんよ」

「はぁ…ありがとう、ございます」

 気圧され、つい礼の言葉を口にしてしまう。

 そうすると夫人は、使用人に命じて椀を持ってこさせた。やはり、龍は我を通す。それとも単に、俺が流されやすいのかと、疑いを抱く劉だった。

「どうぞ、召し上がってくださいませ」

「はい…いただきます」

 そうは言ったものの、夫人は、またもや目を瞠ってじっと劉を見据え、目を赤く染め、口の両端から涎をこぼしている。劉が声をかけるよりも先に、娘が、慌てて母親の口元を袖で隠した。

「兄様は、心から信頼して手紙を人に託されたのですよ。このようなことをしてはなりませんわ」

 少女は、母親に言い聞かせ、困ったように劉を見つめた。

「母は年で、気の狂う発作が起きて、きちんともてなすことができません。お兄様は、しばらく外でお待ちください」

 そうして、心配そうにしながらも青い服の召し使いに椀を持ってこさせると、少女も劉について行き、椀を手渡した。

「これは、m賓国の椀です。m賓国ではこの椀で災厄を鎮めるのですが、唐の国の人がこれを得ても、使い道はありません。十万を得るために、これを売って下さい。それ以下では売らない方がいいでしょう。私は、母の病のために、いつも側にいます。申し訳ありませんが、最後まではお見送りできません」

 そう告げて、お辞儀をして屋敷に戻っていく。

 あっさりとした別れに未練がましく姿が消えるまで見送り、劉は、椀を持って外に出た。

 ところが、数歩進んで何気なく振り返ると、豪邸と門は姿を消していた。深い川も高い橋も、一瞬たりとも姿をくらましたことはないと言わんばかりに、はじめに見たときと同じ姿で在った。

 思わず、瞬きを繰り返す。

 夢でも見たかと思うが、椀がある。もっとも、両掌に収まった椀を見てみると、ただの黄色い銅の椀だ。どうみても、三〜五銭がいいところだろう。

「うーん。あの子の思い込みなのかなぁ」

 そうでなければ、価値観が違うのだろう。龍だからか、母親も少し様子がおかしいようだったから、何か気を患っているのかもしれない。

 そうは思ったが、せっかく善意でくれたものだ。試しに、市に持っていってみることにしよう。もしかすると、本当に値がつくということもあるのかもしれない。何しろ、龍のくれたものだ。



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