最後の試験終了を告げる鐘が鳴り響き、うめき声とも歓声ともつかない声が、方々で上がる。

 鉛筆を置きなさい、という定番の声がかかり、それぞれの列の最後尾の生徒が答案用紙を回収していく。

「終わったねー」

「…ねー」

 解けない問題がありながら時間が余るのは、精神的に疲れる。ぐったりとした司は、昨日知り合ったばかりのルナの笑顔を、力なく机にへばりついたまま見上げた。

 今日の髪形は古風に編み込みで、髪形をいじるのが面倒でショートカットにしている司からすれば、力一杯の拍手を捧げてもいいと思える作品だ。朝にそんなようなことを言うと、大袈裟だなあ、と、また笑われた。

「お疲れさま。あと一時間だよ、頑張って」

「うー、ホームルームもういいから帰りたいー」

 本日最後の授業は、主に明日からの合宿の説明に費やされる予定のホームルーム。早速こき使われるらしく、委員長と副委員長とに選ばれてしまったクラスメイトは、職員室へと出て行った。

 司の前の席の人物が委員長で、だからルナは、遠慮なくその椅子を借りた。

「ねえ司、本読むの好きだよね?」

 昨日、初日から図書室に足を運んでいるのだから、そのくらいは当然の推測だろう。だがそれがどう繋がるのか予想がつかず、司は、頷きながらも首を傾げた。

「読書部ってあるの、知ってた?」

「そうなの? よく知ってるね。部活動説明会、合宿明けじゃなかった?」

「入学事前説明会で、部活の一覧表もらったでしょう? とにかく、読書部があるんだけどね、週明けに入部試験するらしいんだ」

「へえ、大層な。読書部って、ただ本読むだけじゃないの?」

 司には、せいぜいが読んだ本の感想を言い合うくらいしか活動内容の想像がつかないが、そんな部に試験があるとは驚きだ。そんなことをすれば、部員が少なくなって困るのではないのか。それとも、偏屈者揃いなのか。

 そう言うと、半ば呆れ、半ば楽しむような反応が返ってきた。

「ヒントを挙げると、図書委員の競争率が高くなってるってことかな」

「はい?」

 基本的に、図書委員になりたいという生徒は、クラスに一人や二人はいる。本を読むのが好きで、それなら図書室に入り浸ろう、好きな本に関わることをしよう、と思う面々だ。しかし、せいぜいが数人で、競争率が高いと言うほどのものではないはずだ。

 だがそこで答えがわかり、司は溜息を落とした。

「九重効果?」

「あたり。顧問ってわけじゃないけど、活動場所が図書館だし、副顧問みたいな感じらしいよ」

 かわいい笑顔で肯定され、がくりと肩を落とす司。

「どーこがいいかな、あれの」

「司、九重先生のこと、何か知ってるの?」

「知ってるっていうか」

 相棒です、とは口が裂けても言えない。

「小中と縁があったし、遠縁だけど親戚だし」

「あっ、司、三中だよね。用務員さんしてたんだよね、あそこで。そっか。え、でも、親戚?」

「うん。何だったかな、はとこより遠いくらいの関係だったと思うけど。つか、昨日の帰りに見かけただけの人の情報を既に掴んでるのにびっくりなんだけど。情報屋とか目指してる?」

「このくらい、女の子のたしなみだよー」

「いやだ、そんな恐ろしいたしなみ」

 司の呟きに、ルナが楽しげに笑う。少なくとも、今は本当のところを話してくれそうにない。まあ、優秀な趣味というのもありだ、と司は考えることを放棄した。

 ただ、要注意、と心の中に付箋を貼る。下手を打って、狩人の仕事を気取られれば厄介だ。

 諒との縁戚関係(ということにしている)程度なら、同じ小・中学校の生徒なら、知っている者もいる。元々、ある程度は故意に流した情報だ。天圏を後見人としているのと同じ偽装にすぎない。

 そんな内情を知っているはずのないルナは、にこにこと笑う。

「でね、その試験内容、興味ない?」

「…ある」

「だよね! 読書クラブで試験って何、って思うよね! 作者と題名を結ぶとか、感想文とか、そんなところ?」

 いかに本を知っているかが鍵になるのか、それとも語れればいいのか、一体何を基準に採点するのか、どんな問題でそれを計ろうとするのかは、どうでもいいことだが少し興味はわく。

 でも大半の人はそんな興味すら持たないだろうと苦笑しながら、司は、楽しげなルナを見た。

「えーっと。一緒に受けてみない、ってお誘い?」

「うん。とりあえずわたしは受けてみるつもりだけど、興味があるならどうかなと思って」

 勧誘というよりは、情報を教えてくれたらしい。その距離感に、司は好感を抱いた。

 そもそも司はこの十五年と数ヶ月を生きてきて集団行動に向いたためしがないのだが、女子特有の「グループ化」は、天敵とさえ言ってよかった。

 小さな集団に分かれ、その他のグループと敵対はしなくとも、一線を引く。その意味がわからない。その時々に向いた付き合いはあるはずで、適宜対する相手を変えるのが、裏切りと呼ばれるのは何故だ。べったりと、何もかもを共有しようとするかのような関係にもうんざりとする。

 ルナがそのあたりをどう感じているのか、一度訊いてみたいと思った。珍しく友達になりたいと思っているなと、司は、人事のように自分の感情を推し量る。要注意、と、再び警告が灯る。

「来週末だった? うん、何もなかったら受けてみたい。放課後?」

「らしいよ。図書室だと迷惑になるからって、隣の視聴覚室借りるみたい。つまり、それだけ人が多いってことだよね」

 視聴覚教室は、一学年揃っての集会にも使われる、広い教室だ。四十人前後なら普通の空き教室で事足りたはずだから、ルナの言うとおりだろう。

 そんなことを話しているうちに始業の鐘が鳴り、また宮凪の話を聞き損ねたと心中でぼやく。

 昨日欠席だった、元不登校だったという宮凪花林は、佐々木教諭の言った通りに今日は登校してきている。合宿も参加するらしい。だから当人に直接話しかければいいのだが、先程の休み時間までは試験に切羽詰ってそれどころでなく、今に至っている。

 途中、声をかけたものもいるのだが、大半につれない対応をとり、同じ中学出身か、揶揄するような声は全てばっさりと無視していた。そのため、まだ一日も終わっていない現時点で既に、近寄り難い空気をかもし出している。

 用事もないのに声をかけられない自分の性分を知る司は、おかげで、今のところ全く縁がない。五十音順の席の配置のため、姿を見るのにもわざわざ探さなければならない始末だ。

 ところがひとつ、縁ができた。

「悪いけど、勝手に係割り振ってるからね。確認して、向こうに行ったら仕事して」

 決められた部屋割りに、それに基づいた係。食事係だのシーツ係だの勉強係だのとついたそれらの中で、司は、宮凪とともに風呂係になっていた。

 仕事内容は、石鹸やシャンプーなどの不足がないようにすることと、決められた時間通りに入浴させること。そんな仕事に二人もいらないだろうと思うが、どの係も似たり寄ったりだから、仕事をさせること自体はさほど重要でないのだろう。一応、名ばかりとはいえ親睦合宿だ。

 それ以前に、宮凪は怪我人だから、実質の仕事は司一人でしろということなのかも知れない。

「さて」

 クラスの女子と明日のための買出しに出かけるというルナに手を振り、放課後の教室で、司は呟いた。

 昨夜、天圏は三件に優先順位はないと言ったが、引継ぎの件は明日以降でないと手が出せない。ただ、颯か天圏に詳細を聞きに行くことはできるのだが、病院の桜を見に行くのと、人に紛れ暮らしている椚太郎に話を聞きに行くのと、どれをすればいいのか。

 諒に相談したいところだが、ルナの話から察するに、今頃、見物人がひしめいていそうだ。しばらく経てば落ち着くのだろうが、間が悪い。

「あ…沖田さん?」

「はい?」

 急に名を呼ばれ、振り向くと、か細い声のよく似合う、生地の厚い制服を着ていても華奢と判る女子生徒が立っていた。ジャケットの襟に校章とともに留められる学年章のバッジは二つ上、つまり三年生のもので、先輩だ。

 どちらかと言えば冴えない容貌で、一切手を加えていない制服は、野暮ったく見える。顔を隠すような長い前髪が目にかかり、呼びかけながら、目を逸らしているような感じがするが確証はない。

 やがて彼女は、思い切ったように顔を上げた。背は、少しばかり司の方が高い。

「沖田さんって、『夢戦』の」

「待ったッ!」

 上級生、ということもまだ数人のクラスメイトが残っていたことも頭から吹っ飛び、司は、彼女の口を塞いだ。そのまま、空いた片手で腕を抱え、逃走する。目指すは、屋上の出入り口手前の踊り場だ。

 鍵がかかっていればこんなところには誰もいないだろうと、一階分の階段を一気に駆け上った。

 変な汗をかいている。

「何、の、用…ですか」

 ようやく手を離して向かい合うと、彼女は、困ったような顔をした。困っているのは司だ。

「その…ごめんなさい、やっぱり内緒だった…?」

「何が、ですか」

「その…沖田さんが、『夢戦』の作者の源彼方さんだっていうこと…」

 ああやっぱりと、司は、喉の奥で唸った。彼女は、申し訳なさそうに顔を伏せている。

 『夢戦』は司が中学二年の夏に出版された小説で、自費出版を主としている出版社で賞をとって日の目を見たものだ。幕末に材を取ったと窺える、どちらかと言えばファンタジー寄りのライトノベル。地味に売れて、驚いたことにこの間、増版がかかったとの連絡も受けた。

 冗談だろうと、その電話口で言った。勿論、否定されたのだが。

「どうして、そんなことを思ったんです?」

「だって…受賞のときに写真が一枚掲載されたきりで、出身地も何も…。ごめんなさい…」

 素性を隠していることではなく司が作者と断定した理由を訊いたつもりだったが、外れながらも答えは得られた。

 彼女は、あれを見たのか。

 プロフィールの一切を非公開とし、写真も断りたかったのだが押し切られた。伸ばしていた髪は、その直後にばっさりと切り落とした。そもそもがマイナーな出版社だし、本自体には著者近影もない。本を出したことは誰一人気付かれることなく、諒や颯が時折、就職の話をしたときに作家になればいいのに、と言うことと、編集者が未だに連絡を取ってくることくらいが、変化だと思っていた。

 司は、醒めた思いで彼女を見下ろした。

「何をどう判断されたのかわかりませんが、関わりたくありません。すみません、失礼します」

 反応を待たずに、階段を下りる。数段降りたところで彼女が泣いていると気付いたが、足を止めるつもりはなかった。

 厄介な人がいた。でも三年生なら、そう接点はないはずだ。言いふらされたら、そのときはそのときだ。

 本になった文章を書き始めたのは、丁度、狩人になったあたりからだった。直後はそんな気力もなかったが、全てにある程度の目処が立ち、弟が留学という形で家を離れると、何かよくわからない感情が湧き出て困った。そのはけ口に、気付けば物語りめいたものを書き散らしていた。

 元々本を読むのは好きで、多くを読みこなしていれば、ある程度の文章くらい書けるようにもなる。感情を、直接にではなく婉曲に折りこむことで、なんとか安定した。

 そんな、心理治療用の箱庭めいたものを出版社に送りつけたのは、気の迷いとしか言いようがない。読書好きの例に漏れず、司も、作家には憧れめいたものがある。そこまでの距離はどのくらいだろうと、思ったのだったかもしれない。

 受賞が決まり、本になるのは嬉しかった。だが、出来上がったものを読んで、当時の自分がさらけ出されていることに気付き、恐ろしくなった。読者は、何も気付かないかもしれない。だが、これほどに内面をさらしている自分の文章に嫌気が差し、恥ずかしくなった。

 まだ本を読むことは好きだし、物語めいたものも書き散らしている。しかしそれを、どうにかしようと思うことはなくなった。

「司」

 気付かないうちに自転車を押して学校前の坂を下っていた司は、交差点で呼び止められ、はっと我に返る。たまたま車通りのない信号の向こうで、見知った顔が手を上げていた。

 ぎこちない笑みを浮かべ、信号が変わるのを待って、渡る。これでとりあえず方針が決まった。

「太郎さん。仕事?」

 黒い細身のスーツに白いシャツとネクタイという、サラリーマンの見本のような格好をした長身の青年は、見栄えのする顔にいつも通りに無愛想な表情をのせ、首を振った。

「非番だ。水鏡のに連絡をもらったから、お前を待っていた」

「あ、そっか。ごめん、待たせた?」

「いや」

「せっかくだから、喫茶店でも入ろうか。パフェが食べたいな」

「また奢らせるつもりか」

「いいじゃない、独身貴族の高給取り」

「阿呆、刑事は薄給だ」

 言いながらも、既に歩き始めている。目的地があるのかとついていくと、十分ほど歩いたところに、「気球屋」とメルヘンに書かれた看板が上がっていた。入ると扉の上につけられたベルが鳴り、所狭しと吊り下げられた、小さな気球の数々。

 メニューを広げると、コーヒーや紅茶、ミックスジュースにチョコレートパフェといった無難なメニューに続いて当然のように、「気球乗りの冒険」「気球乗りの休日」などなどの謎のメニューが並んでいる。一応下に小さくカッコつきで、(本日のケーキとお好きなドリンクにクリームかアイストッピング)(ホットケーキの果物ソース添えとお好きなドリンク)などの説明書きがある。

 悩んだ末に司は、「北極の気球乗り」という、プリンパフェとアイスコーヒーにアイストッピングの注文をした。ちなみに太郎は、「気球乗りの決戦」という、クラブサンドとホットコーヒーを注文した。

「そのプリンパフェ、アイス山盛りだぞ」

「だから北極か! え、て、よく来るのここ?」

「ネーミングセンスはともかく、量が多いからな。案外、愛好家が多い」

「さよですか…」

 司は未だに、太郎の性格が掴みきれない。その正体を知った時期はともかく、付き合い自体は諒よりも長いというのに。あまり人間が好きではないのに、紛れて暮らしているというのも不思議だ。いくら生きにくくはなっていても、まだ、山奥で暮らせないこともないはずなのだが。

 太郎は淡々と、小型のメモ帳を開いた。警察手帳ではなく、司が誕生祝にあげた安物で、少し申し訳ないような気もするが嬉しい。

「被害者は、室山康昭。二十四歳。家の酒屋で働いていた。殺害時刻は、昨日の十八時ごろだ」

 そんなことを話していいのかと店内を軽く見回すが、ぽつりぽつりと埋まった席に座った人々は、気にする様子もない。そこまで声が届いていないのだろう。太郎は、よく通る声をしているが、潜めるのも上手い。

「今日あたり、ニュースでもやるだろう。何しろ、全身が傷だらけだ。噛み切られて落ちていた肉塊も多い。そのほとんどが生きているうちにやられたらしいから、残虐だと評判になっている。死因は、大量出血と痛みによるショックだそうだ。発見されたのは、南方の町立公民館付近。気の早い話だが、秋祭りの相談で寄り合った役人たちが発見した。通報時刻は十七時四十二分。八時集まりだったらしい」

 話すのをやめたかと思えば、両手で持つお盆一杯に、注文した品が運ばれてきた。

 パフェを見た瞬間に司は、飲み物はホットコーヒーに生クリームのウィンナーコーヒーにすべきだったかと、軽く後悔する。通常のパフェの一・五倍はありそうな容器には、お約束のコーンフレークと生クリーム、缶詰らしい果物各種に、大量のアイスが投下されている。一番上にはプリンが鎮座し、周辺は生らしい各種果物と生クリームで飾り立てられている。

 ちなみに、どんな区別なのかわからないが、「南極の気球乗り」はケーキパフェ。こちらも、大量のアイスが主役なのだろうか。

「いただきます」

 パフェ用の長いスプーンを持って手を合わせる司に対し、太郎は、既にクラブサンドに手をつけている。こちらも豪快な量で、コンビニの市販品なら、軽く二袋分ぐらいにはなりそうだ。

 黙々とそれらを平らげてしまった太郎は、ようやく三分の一くらいを攻略した司を前に、ゆっくりとコーヒーをすする。

「悪い、昼飯を食べ損ねてな。遺体の切り口なんだが、獣が齧ったんじゃないかといわれている」

「獣?」

「ああ。それらしい唾液もついていた。イヌ科だろうということだ。だがそれにしては、食っていないのが妙だろう? ――悪い」

 かすかな振動音がして、上着の内ポケットに入れていたらしい携帯電話を引き抜く。無表情に、二つ折り式の携帯電話を開き、通話ボタンを押す。

「はい? ――ああ、判った。すぐに戻る」

 被害者の五つ上、ということになっている太郎がため口を聞くのだから、相手はそれ以下の年齢だろうか。そんなことを考えながら、司は、短い通話を終えた太郎をみつめる。

「仕事?」

「ああ。元々、捜査本部が立ったのに、無理に休みをねじ込んできたんだ」

「よく通ったね。無理でしょ、普通」

「まあな。ああ、お前のためじゃない。いい加減、洗濯物が溜まってたんだ。暖かくなってきたから、下手をしたら異臭を放ちそうだったしな。それを片付けていたら昼を食べ損ねた」

 先回りの回答に苦笑して、すぐに打ち消す。

「二件目?」

「おそらく。今、向かっているらしい。市立病院の看護師だ」

「――ついて行ったら駄目?」

「俺の関係者を主張するなら諦めろ。素人探偵の入る余地はない」

「推理しようなんて思ってないけど。ま、いいや。行ってらっしゃい」

「ああ。質問ならメールを送れ」

 言い置いて、急ぐ風でもなく伝票を手にレジへ向かう。そう言えば司は、太郎が慌てふためいているところを見たことがない。機会がないだけだろうか。

 それにしても、と、司はアイスをすくった。この調子では、今日中に私立病院の桜を見に行くのは無理だろう。そうなると、引継ぎの話を聞きに行くべきか。期せずして、選択肢は絞られた。

 どうにか完食すると、ごちそうさまと言って店を出た。

 金森堂の看板を目にする頃には、アイスで膨れていた腹もこなれた。道中、桜を存分に目にしてきたこともあって、気分はいい。

 夕暮れの空を見上げ、嘆息する。なんて世界は綺麗なんだろうと、半ば大袈裟に半ば本気で、思う。

「いらっしゃい、司ちゃん」

 店の前で声をかけられ、司も笑い返した。小学生くらいにしか見えない、司よりもずっと年上のはずの少年が立っていた。

「ちょっと話、いい? 夜久に行って何すればいいのか聞いてなかったから」

「ああ、それ。早かったら明日、でも多分明後日に、放棄の式をやるから、司ちゃんは前任者を守ってくれたらそれでいいんだよ?」

 スタンドを立てた自転車の荷台にひょいと飛び乗った颯を眺め、司は、少し憮然とした。

「と、言われても。その、早かったらとかってのも謎だし」

「まだ後継者が決まってないって言ったでしょ? 今、向こうも探してるはずで、僕もこれから行って合流するんだ。それで、明日中に見つかったら問題ないけど、見つからなくても、明後日には放棄だけはするんだ。本当に、もう体力が持たないらしくてね。本人がそのまま死んでも構わないって言ってるんだからそうすればいいのに、向こうの補佐が、それは駄目だって言ってて」

 さらりとそんなことを口にするのは、別段、颯が冷たいというわけではない。むしろ、夜久の補佐の反応が珍しい。

「えーと…時間帯、とかは? あたしのときと一緒?」

「うん、同じ。夜中だね。長引いたら、明け方まで」

「そーか…うー、宿を抜け出さなくちゃいけないのか」

 寝不足になるのは慣れている。問題は、いかにばれずに抜け出すかということだろう。学校旅行の夜更かしは定番だ。

 不意に、夕焼けに染まる颯を見て、司が声を上げた。

「諒に気をつけろって、どうして?」

 逆光で顔がよく見えないが、動いた口元で、颯が笑ったのが判った。

「兄様、探してるんだ。昔、親しくなった人がいたらしくってね、その人も狩人だったんだけど。任の途中で命を落としてしまったらしくて。その人を、探してるんだ」

「…探すって言ったって、死んだんでしょ?」

「そう。でもきっと、生まれ変わってくるはずだって。どうしてそんなことを考えたのかわからないんだけど、本気で思ってるらしいよ。それで、再会できたら今度は絶対に、何があっても守る、って」

 はあ、としか言えない。信じる信じないは勝手で、あえて感想を言うなら気の毒とでもなるが、それが司に関わってくる理由がわからない。

 困惑顔の司を見て、颯は無邪気に笑った。

「司ちゃん、ちょっと似てるみたいだよ」

「はい?」

「兄様は言わなかったけど、他の知ってる妖たちが言ってた。だから、兄様もそう思ってるんじゃないかな」

「えーと…? でもだからって、気をつけて、になる意味がわからないんだけど?」

「兄様は、あれで執着が強いからね。もし司ちゃんが生まれ変わりだと確信したら、危険がないように、思い余って軟禁しちゃっても不思議じゃないなって思って。それに、そんな目的で補佐をやっているからか結構手抜きもあるんだよ。源さんがやめることになった一件って、司ちゃん、知ってた?」

 颯の声はどこまでも無邪気な子どものものに聞こえて、それが余計に不安を煽った。司は、平静を装うのに苦労しながら、声を押し出す。

 刻一刻と変化する空は、夕焼けの茜色を押しやるように、藍色が広がっていっている。

「動物殺してる連中がいて、山犬を殺して。それを見てしまったゲンさんの恋人も巻き込まれて、でも、復讐しようとした連れ合いと子どもの山犬はなだめて、一人怪我したけど、連れ合いの方がゲンさんの送り狼になって、片はついた…て、聞いてたけど」

「うん。あのときは凄かったなあ。源さんとしては、山犬と一緒に復讐したかっただろうね。恋人、植物状態で入院したままなんだから」

 それが、源が東雲市を離れない理由。

 知ってはいたが改めて聞かされると、やりきれないものがある。お互い身内には恵まれず、源が狩人として稼いだ金銭全てが、入院費に充てられているという。本当であれば、結婚とその後の生活を支えるはずだったものだ。

「源さん、狩人の条件に、お金と一緒に恋人の身の安全も言ってたんだよ。でも、兄様は彼女を助けることよりも、山犬が誰を狙うかを特定する方を優先した。源さんは、兄様が間に合っていたとは思わなくて、ほとんど自分を責めていたけどね」

「――でもそれは、そっちの立場としては間違ってないんじゃない?」

「僕らは、約束は守るものだよ。それに僕は、司ちゃんは大好きだしね」

 だから、と颯は続ける。

「兄様を、あまり信用しないで。司ちゃん、そもそも僕らには関わっちゃいけなかったんだよ」

 笑ったのは判ったが、夕闇に紛れ、表情は見られなかった。



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