暗くなるのを待って、司は家を出た。

 司が暮らしているのは一軒家で、防犯対策はろくにしていないが、今のところそれで問題はない。もっとも、入られても、電化製品や家具くらいしか盗って行く物はないかもしれない。

 四年ほど前に相次いで家族を亡くして以来ほぼ一人暮らしで、あまり高価なものはない。家だけは古いが、まさかそんなものを盗むわけにもいかないだろう。残念ながら、伝来の家宝といったもにお目にかかったこともない。

「今日明日くらいが見頃、か」

 出掛けにニュースで聞いた言葉を呟き、じゃあ次は八重桜か、と口にする。

 実のところ司は、国を挙げる勢いで騒がれる染井吉野よりも山桜の方が好みなのだが、基本として、桜全般が好きだ。

 散歩はよくするが、桜のおかげもあって、今の時期はただひたすらに楽しい。

 畦道じみた土路にも街灯が立っているが、闇が勝っている感がある。しかし頭上に月が昇り、暗いながらも道を踏み外すほどではなかった。

「今日の子、何て名前?」

「誑かすなよ」

「うわー、俺信用ないなー」

 ふらりと現れて狭い道で肩を並べた諒は、今は眼鏡をかけていない。無造作にシャツを着込んだ格好で、どこか繊細な手を、ひらりと翻した。

 ぼぅと、青白い火が浮かぶ。

 司はそれを見て、眉をひそめた。

「見られたらどうするの。もう誰も、狐火だ、人魂だ、なんて納得してくれないのに」

「この頃、みんな夜が遅いしなあ。窮屈な世の中になったもんだ」

 そう言ってもう一度、手のひらを返す。そこには、安物の懐中電灯が納まっていた。

「で、名前は?」

「本借りたときに判るでしょ。中学のときみたいに、ハーレム作るなよ?」

「俺は何もしてないもーん。勝手に向こうから言い寄ってきたんだもーん」

「…気色悪」

 半ば本気で顔を背ける。見た目以上に年を取ってるはずだろうに、という呟きは、どうにか呑み込んだ。

「酷。なんで司はそう、俺には冷たいんだ。颯とか、甘やかし放題なのに」

「颯は可愛いから。諒は全っ然可愛くない。大体、甘やかしたら甘やかしただけ増長しそうだから厭」

「えー?」

 暢気な会話を交わしながら、たどり着いた先は、今にも潰れそうな古書店だった。

 道楽か年金生活の補助にしかなりそうにない店で、汚れきった「金森堂」という看板だけが、どうにか店らしさを主張している。知らなければ、ただの民家と通り過ぎるだろう。

 開店も閉店も店主の気分次第の店だが、さすがに今は、「準備中」の札が表を向いている。準備って何を、というのは、見るたびにこみ上げる司のツッコミだ。掃除でもするのだろうか。

「お邪魔します」

 ひっそりと呟くように言って、静かに開けた入り口から店内に踏み入る。鍵はかかっていない。

 入店の際に諒に先を譲り、その服の裾を掴んだのは、明かりを消した店内では司の眼が利かないからだ。

「どうせならこう、抱きついてくれてもいいんだけど?」

「ヤダ。それなら本棚に頭から突っ込む」

「…なんか今ざっくり来た。うわー心が痛い」

 言いながらも、危なげなく歩を進める諒は、棚からはみ出たものでもあれば、きちんと注意を促してくれる。懐中電灯は姿を消していた。光が必要なのは、司だけだ。

 明かりが漏れたところで、店主が探しものをしていると思われるくらいだろうが、何かの間違いで他人にやってこられては面倒だ。一応、後見人の元に来た、といういいわけは用意してあるが、見つからないにこしたことはない。

 外よりも光のない暗闇を、前を行く諒の背中だけをどうにか見極めてついて行っていると、思い出す記憶がある。

 闇に沈んだ森の中を――そうやって、走った。

「司?」

 何、と言うのに間が開いても、茶々はなかった。ただ、やさしく頭を撫でられる。

「行くぞ」

「うん」

 店の突き当たり、居住区に繋がるはずの戸を引き開けると、そこには黒い穴が待ち構えている。普段は板を載せて塞いであるが、外せば、アリスのウサギ穴よろしく真っ逆さまだ。

 穴の位置を確認して、先に落ちて行った諒を追って飛び込む。もう慣れたもので、そのこと自体に恐れはない。ただいつも、「地球の裏側まで繋がっているのかしら」という、『不思議の国のアリス』の言葉が頭をよぎる。

 地球の中心を通るなら核熱で溶けることは確実だが、ではそれを外して穴を開ければ、真裏には到着できないだろうが、とにかく違う地上へと、たどり着くことはできるのだろうか。しかし地球の重力作用を考えると、どうなのか。

 どうでもいいことを真剣に考えようとするのは、逃避したいときだ。だが、そう冷静に判断している時点で、実現できていない。目を開けても閉じても変わりない暗闇で、司は、密かに溜息を落とした。

 闇をひたすらに滑り降りると、急に光のある場所に飛び出る。光と言っても青白く、蛍火や水族館の灯りに似ている。飛び出た先の地面は、ふかふかと弾力があるのだが、マットが敷いてあるわけではなく、どうも、苔や茸らしい。

「いらっしゃい、司ちゃん」

「いらっしゃいましたよ。明日実力試験だってのに来ましたよ。労働基準法の導入とか考えてほしいね」

「ジツリョクシケン? ロウドウキジュンホウ?」

 颯は、笑顔のままどこか面白そうに、首を傾げた。少年の整った容貌では、それは、十分に絵になる。

 司が、笑い返す。

「労働基準法は辞書引いて。ちゃんと説明できる自信ない。あ、言ってるのは未成年の就労だから、とりあえず。実力試験ってのは、学校の試験の一種。どのくらいの学力が身についてるか調べるってお題目で、長期休みの後にやることが多い」

「ふうん。どうして明日それだと、来たくなかったの?」

「気持ちだけでも勉強しないとって気になるの。多分、やらないけど」

「じゃあいいじゃない」

 まあね、という司の言葉で、とりあえず会話は終わる。その間諒は、司の下で潰れていた。

「…いい加減のいてくれー」

「あ、ごめん。道理でいつもと感触が違った」

「早く気付けよそこ!」

「うん。こんなに座り心地悪いのに」

 がくりと顔を伏せた諒から降りると、司はさっさと、颯と歩き始めた。何事もなくとも月に一度は訪れる場所だから、熟知とまではいかなくても、慣れている。

 慣れているのに、毎回決まって、あのときのことを思い出すのは楽しくないが、どうしようもない。

 少し歩いた先にあるのは、大きな水鏡だった。

 鍾乳洞のような開けた場所の中央に据えられた、小さな泉のような水溜り。淵に五段ほどの石の階段があり、水面を見下ろすには、登る必要があった。

「来たか」

「こんばんは、天圏さん。お早い呼びで」

 笑顔をつくるのは、勿論、ただの嫌味だ。

 司が笑みを向けた先にいるのは、小柄な老人だった。髪やひげに埋もれそうな顔をした老人は、着物を着込んでいる。外見の印象に反して背筋は伸び、垂れた眉の下から覗く眼は、強い力を持っている。ただし、その眼は普段は埋もれてほとんど見えない。

 今は、真っ直ぐに司を見ている。

「司」

「わかってます」

 司よりもよほど、天圏の方が苦々しい思いでいるに違いない。

 司は、金儲けと割り切ることもできる。だが天圏は、それこそ断腸の思いだろう。

 天圏と颯や諒と司では、明らかに立場が異なる。見ようによっては、彼らは被害者側で、司は加害者側。あるいは、彼らが加害者側で、司は被害者側。それはそのまま、人外と人との図式だ。

 司が諒を覗く彼らと出会ったのは、今から四年ほど前になる。そしてそれはほぼそのまま、司の一人暮らしの年数にもなる。

「映してください」

 身軽に階段を登った司は、水鏡の縁ぎりぎりで足を止め、見下ろした。

 頷いた天圏が目を瞑り、その額に、見る見る汗の玉が浮かぶ。横目でそれを見ながら司は、いつも、山伏の祈祷ってこんなのかなと、どこか的外れなことを考えてしまう。むしろ天圏は、調伏されるほうではないのか。

 雑念を頭に浮かべたまま、司は、水面を覗き込む。

 くらりと、わずかに眩暈が掠める。立ちくらみや貧血は度々起こす司だが、この眩暈は質が違う。水溜りのもたらす作用だ。人によっては、そのまま落ちてしまうだろう。そうすれば、二度と浮かび上がっては来れまい。

 どれだけ深いのか。水底は見えず、ただ、蒼い闇だけが揺らめく。

 その液体が、例えばウツボカズラの溶液のように、溶解能力を持つと言われても驚かない。そうであればこの水面は、どれだけの生き物の成れの果てだろうか。

 不意に、その水面が揺らいだ。揺らぎ、花を咲かせていない桜の木を映し出す。

「これ?」

 それなりの年齢を経ていそうな木は、蕾すらつけていない。それでも桜の木と判るのは、背景に見覚えがあるからだった。

 この近隣で最大の総合病院。市営のそこには、司も、何度も足を運んでいる。中庭のベンチの裏に佇む木の下で、花見をしたことさえある。

「今の映像ですか? 花が咲いてないですけど」

 返事はない。大まかにでも状態を把握しているのは天圏くらいなのだが、説明は後だ。喋る余裕はない。

 だからこれは、半ば司の独り言になる。諒も颯も天圏でさえも、司が眼にしている映像は見えていない。

 そして水面はまた、揺らいだ。

「え」

 思わず、声が漏れる。

 蒼い水鏡に映し出されたのは、一面の赤。力任せに噛み千切られたようなばらばらの人の体の下に、絨毯のようにあふれている。ごろりと転がる首が正面を向いて見え、何が起こったのかわからないかのように、不思議そうにこちらを向いていた。

 それも揺らいで消え、次いで、百鬼夜行絵巻を見るような、異形の者らの集会が映し出される。

 夜の、森なのか山なのか、とにかく木々が生い茂っている。そこに、気ままにいびつな円を作り、多種多様の者らが集まっている。一様に、その顔は笑みに歪んでいた。

 ふうと異形たちは姿を消し、静謐な水面に戻る。

 司が天圏に視線を移すと、老人は、膝をついて肩で息をしていた。傍らには颯が立ち、介抱している。諒は、二人から少し離れたところで所在なげに立ち、司が見たと気付くと、軽く肩をすくめた。司も、すくめ返す。

「あのー、なんか今回、多い気がするんですけど? それともこれ、三つとも繋がってるんですか?」

 階段を使わずに飛び降りると、諒が近付いてきていた。気にせず、天圏に歩み寄る。

「何が見えたんだ?」

「咲いてない桜の木と、ばらばら殺人事件現場と、魑魅魍魎の会合」

「なんだそりゃ」

「や、それはこっちが訊きたいんだって」

 何なんですあれ、と、司の声はいささか素っ気無い。

 膝をついたままの天圏の傍らで、颯が、細い首を傾げる。

「とりあえず、お茶でも入れようか?」

「ココアがいいな」

「じゃあ俺は、」

「ドクダミでも煮出そうか」

「…お前、兄をなんだと思ってる」

 過去には、魔除けの意も込められたドクダミ茶。毒出しの効能があるとも言う。

 諒が泣き真似をしているうちに、三人は、更に奥へと移動している。文句を言いながらも追いついたときには、司を先頭に、障子を引き開けて畳に上がったところだった。

 地下洞窟の奥に仕切られた小部屋は、和風の造りになっている。

 四畳半の広さに、四月だというのに仕舞われていない炬燵。ちゃっかりと、みかんや饅頭も置かれている。部屋の隅には、小さな書棚やくず入れ、裁縫箱などが、雑多なようで整理されて置かれている。

 そして、やはり障子で区切られた向こう側には、小さないがらも給湯場。ミニ冷蔵庫も鎮座している。

「あー、やっぱり落ち着くなー。家のはもう仕舞っちゃったから、ちょっと寂しいかったんだ」

 早速炬燵にもぐりこみながら、司は、半ば呟いている。喉を鳴らす猫のように、嬉しそうに目を細める。

 天圏と諒もそれぞれにもぐりこみ、一時、沈黙が降りた。

 その間に颯が手早くお茶を用意してそれぞれの前に置くと、司の向かいに腰を下ろして一口飲んだ。

「天圏さん?」

 熱燗の湯気を受けた天圏は、ああ、と、呻き声ともつかない応えを返す。そうして、司に見たものを話すよう促した。

 あの水鏡に映像を映し出すのは天圏の仕事だが、見ることが適うのは、司だけだ。他の者は、例えすぐ横に立っていたとしても、そこに水以外を見出すことはできない。正確には、司ではなく「狩人」のみとなる。

 「狩人」はこの辺りでの通称で、他に、「バンニン」「マロウド」「キャクジン」「キャクニン」などなど、呼び名は豊富らしい。ただし、どれも内実は似たり寄ったりで、妖を狩る人間を指す。

「桜の下で、命を失う人間が増えておる。映し出されたということは、あの桜が招いておるのかの。殺人事件は、クヌギのに訊け。最後のは――隣町で一人、引退するらしい」

 司の話を聞き終えた天圏は、まずは酒を口に含み、ゆっくりと飲み込んでから解説を口にした。

 水鏡に映るものが、危険度が高いとされている。危険度というのはすなわち、妖の存在が人に知られる程度の高さ。

 狩人の仕事は、人に害を成す妖の退治ではなく、その存在を気取られかねないものを排除することにある。退治のように見えるのは、たまたま、それらが人を害することが多いためだ。

 必ずしも殺す必要はなく、まずは勧告を行う。だが、特に人を害し続けたものは、血に酔うのか毒されるのか、正気を疑うものが多い。

 狩人は、極言すれば、身勝手な汚れ役に過ぎない。自在の形を取る武器を扱える人間と、補佐の妖。その組み合わせが原則で、それとは別に、水鏡を操る妖との組み合わせが、最低限の組織となる。

 人であるだけに、代替わりもすれば、命を落として空白の時期があったりもする。

「引退、ですか? それが一体、何の関係が? 狩人は個別のものでしょう?」

 困惑や不満ではなく単純な興味と疑問から尋ねた司に、天圏はまた、酒をすすった。

「此度の奴は、病い故に退くらしくての。しかも悪いことに、次代がまだ定まっておらん。その隙を狙ってか、若手が躍起になって、総攻撃を目論んでおるらしくての。泣きついて来おった」

「はあ、それで百鬼夜行。…って、あの、もしかして隣町って…?」

「司ちゃん、学校の行事で泊まりで出かけるんだよね?」

「…やっぱそれですかー」

「え、それ俺行かないんだけど。自腹で行けってか?」

 湯気の立つ、妙に緑色の液体を湯飲みの中で回していた諒が、いささか不満そうに口を挟む。司書教諭の職についている分、身勝手が利かない部分もある。ちなみに、小・中学校では、用務員だったり警備員だったりした。

 こちらは司に合わせたものか、ココアを手にした颯が、しらっと司に笑みを向ける。

「僕が、向こうの補佐役と打ち合わせするから、安心してね」

「お前、それ俺の仕事」

「他との折衝は、天圏さんの仕事でもあるからね」

「ぐ」

 そう言われると、反論もない。つまりは、天圏の代理で颯ということだ。

 実際問題、合宿(親睦合宿ということになっているが、予定図を見ると明らかに勉強合宿のそれ)は平日だから、仮病でも使って休んだとして、万が一教師や生徒に諒の顔を見られればまずいことになる。

 実のところ、司の補佐は諒と颯の二人いるようなものだ。

「さて、もういいかの。年寄りを休ませてはくれんかね」

 日本酒の残りをぐいと飲み干し、天圏が一同を見回す。もっとも、その眼はやはり、埋もれている。

 あ、質問、と、司が挙手した。

「今回、勧告は?」

 水鏡に映った件の元凶の妖には、処理対象となったと知らせる勧告を出すことになっている。それで行動をやめれば、とりあえずはお咎めなしだ。

 しかし、水鏡の報せは親切ではなく、元凶が特定できない場合も多々ある。そのあたりの判断は天圏任せなのだが、彼は、うむと唸った。

「隣町には報せておこう。桜も、まあ良いか。しかし、あとひとつは誰か判っておらんからのう…。他には?」

「えーと、この三つって、優先順位あります? 今まで、こんな風に一緒に挙がるってありませんでしたよね?」

「さて…ないのではないかな。全て、至急じゃからの」

「あー…はーい。わっかりましたー」

 うわー面倒ー、と表情で言って、司もココアを飲み干した。そうして、ひょいと立ち上がる。ついでに、コタツの上の饅頭を二つ三つポケットに放り込む。

「じゃ、お邪魔しましたー。帰ろ」

 後半は、諒に向けてだ。

 こちらは、揺すり回していた液体はそのままに、暢気な様子で立ち上がる。

 そこまで送って行くね、と言って立ち上がった颯と並び、落ちてきた穴まで引き返す。行きは落ちるだけだから簡単なのだが、帰りは登る。

 穴からのぞく紐を引っ張ると、縄梯子が降りるようになっている。これをせっせと登るのだが、銭湯の煙突くらいは登れそうな筋力がついているのではないかと、司は時々疑う。

「兄様には気をつけて。――またね」

 耳元で囁かれ、え、と振り返った司に、無邪気に見える笑顔が返った。

 仲がいいのか悪いのかわからない兄弟だ、とは思っていたが、思い詰めたような声に驚いた。

 きょうだいか、と、今は離れて暮らす弟を思う。

 容姿はよく似ていたが、中身は違った。ひとつのことを追求することに長けた、凝り性のある弟。今はアメリカに留学中だが、忘れることは決してない。

 一生勉強するなんてぞっとしない、と、司ならば思う。知識のつまみ食いは好んでするが、突き詰めてはどうにも向いていない。

 例えば読書でも、弟は、読んでいるものを見れば、大体どういう流れで読んでいるのかが掴める。首を傾げるものが混じっているように思えても、理由を訊けば、この中に参考書で取り上げられてたんだ、といった返事がある。

 司は、目に付いた興味を持ったものなら片端から。ただし、読むだけだ。贋作を扱った研究書を読んでいたかと思えば、笑いに重点を置いたライトノベルを読んでいたりする。

 それでも多分、根っ子のところでは同じで、仲もいいのだと――思う。

「司?」

「――ん? あ、ああ、出たのか」

 気付けば、古書店の部分に顔を出していた。諒は声の通りに、怪訝そうなかおをしているのだろう。

「出たのか、って。成長したなあ、もやしっ子が」

「何それ」

「だってお前、はじめのときなんて、俺が担がなきゃ上がりきれなかったくせに」

 差し出された手を断って、ほとんど腕の力だけで体を持ち上げ、地上に引き上げる。後からあの二人も上がってくるのだろうが、とりあえず、蓋を載せておく。

「そりゃあ、成長もするよ。出動件数増えてるし。ここの昇り降りだって、月一としても四年だよ? 成長しなきゃ嘘でしょ」

 苦笑に逃げる。

 諒は何も言わず、ただ、手を置くように司の頭を撫でた。肘置きかい、と払いのける。

「ところで、ゲンさんに会いに行くけど、諒どうする?」

「はあ? こんな時間に?」

「だって、昼間行っても会えるとは限らないし。夜の方が率高いでしょ。遊ばれるのが厭なら、帰っていいけど?」

 ゲンさんこと、源弦一郎。

 橋の袂の掘っ立て小屋に住み込む彼は、司の前任者でもある。同時に諒の元相棒でもあるのだが、曰く、相性が悪い、のだそうだ。何度か二人の会話を聞いている司からすれば、同属嫌悪のきらいがある。

「あれのところに、お前一人で行かせるわけにはいかないだろ。襲われたらどうするつもりだ」

「あー、ないない。諒に襲われる方がありそう」

「…だから俺はお前の仲でどんな位置付けだ」

「エロ狐?」

「うわー、さらっと言いやがったー」

「ほら行って。見えないんだから」

 落ち込むふりをする諒をつつき、埃っぽい書架を抜け、店外に出る。真っ暗闇にいただけに、満月ではないとはいえ、月明かりがいやに明るく感じられる。

 月光を浴びると、なんとなく司は、夜の生き物になった気分になる。闇に紛れ、日の光を浴びると縮こまって逃げ出すような。まるでそれは、海の底の深海魚のように。闇の底に沈む自分を、実感する。

 そしてそれは、狩人には案外相応しい。

「諒?」

「ん?」

「こたえたくなかったらいいし今更だけど、どうして補佐をやろうと思ったの? かなり、長いって聞いてるけど」

「あー、それ」

 月明かりを遮る建物内を抜ければ先導はあまり必要ではないのだが、司の手は、未だに諒の服の裾を掴んでいる。

 諒が前を行くせいで表情は判らないが、声の調子で、苦笑したのは判った。

「まーなー、長いぜ? 大体の奴は、一人受け持ったら終わるからな。俺は、まー、侍とかのさばってた頃から、休み休みやってますから?」

「長いな」

「だろ」

「つかあんたら寿命いくつだ。不死とか言わないよな?」

「それを言うかお前が」

 ああそうだったざくざく殺してるよ、と、司がぼやく。物騒極まりない台詞だというのに、お互いに冗談でも言い交わしているかのようで、悲壮感が果てしなく薄く、その分空しい。

「ああ、それだけ前からならさ、諒、何かわかる?」

「何が」

「昔は、年に一回あるかないかとか、そのくらいの頻度だったって聞いたけど? 今じゃあ、月に四、五件あるのも珍しくないじゃない」

 水鏡に映し出される、対処すべき対象たち。司が狩人になった間だけを振り返っても、増えているような気がする。

「それは、時代の流れも大きいだろうよ」

 妖の存在をどう捉えるか、それにどう対処するか。それは、その時代の常識や武器で変わってくる。

 妖怪が出た、ではあそこには近寄らないようにしよう、あるいは退治しようと出てきても蹴散らせるのなら、存在が知れ渡ってもあまり問題にはならない。一種の縄張り争いだが、それが通用するのなら、それでいい。

 司の言う年に一度あるかないかだった頃は、だから、人に存在が知られることを防ぐためでなく、仲間内でも危険と見做された者への対処が主だった。

 どこか忌々しげにそう説明する諒に、司は首を傾げた。懐かしむならわかるが、厭う理由がわからない。

「何に腹を立ててる?」

「お前は平気なのか? 狩人ってのは、身内殺しが厭で人に責任を押し付けただけだろ」

 振り向いた瞳は、わずかな月明かりを弾き、光っていた。こういうとき、なるほど獣の眼だと、司は妙な納得をする。何しろ普段の諒は、司よりもよほど人間らしい。

 そう思ってつい持ち上がってしまった口の端を、諒はどう捉えたものか。

「押し付けられた側も、ただじゃない。お金をもらったり生活を保障してもらったり、中には、ただ生き物を殺めたい、なんてのもあったし。自分の大事な人を護るためだったり、集落の指導者としての威厳を示すためだったり。ただの利害の一致なんだから、目くじらを立てることはないんじゃないかな」

「…どうしてそう、言い切れる?」

「え。あれ、諒は知らなかった? ――つか、もしかして、みんな知らない?」

「何だよ?」

「えっと、これ。火月」

 無造作にふった司の右手に、一振りの日本刀が握られる。鞘のないそれは、無機物にもかからず鼓動をしているかのようで、諒は思わず、一歩引いた。その拍子に、裾をつかんでいた司の左手が離れる。

 司はお構いなしに、ゆるく弧を描く峰を、指でなぞった。

「使ってると時々、前の持ち主の感情らしいのがわかるんだけど。ほら、継承式のとき、扱い方とか頭に入るでしょ。あれみたいに」

「いや、あれみたいとか言われても」

「あ、そうか。うーん…プログラムインストールするみたいな? それか、どこかに古い日記帳があって、ぱらっとその一頁が読めるみたいな」

「…聞いたことないぜ、そんなの」

「えー? じゃあ、秘密だったのかな。うっわ、言っちゃったよ」

「秘密って言うより…司、お前が特殊なんじゃないのか?」

 何かを推し量るように見つめられ、司は、冗談気味に両手を上げて見せた。もっとも、刀を持ったままなのだからあまり意味がない。

 しばらくの間、二人はそうやって見合っていた。

 だが不意に諒が目を逸らし、司の手が下りる。そうして、司はまじまじと、闇と月明かりを反射する日本刀を見つめた。

「はい、仮説」

 諒から言葉の反応はなかったが、挙手したまま勝手に続ける。

「火月、つか、御守の記憶を、同調して読み取ったってのはどう?」

「…どう、って言われてもな…」

 妖側も狩人側も、「御守」と呼ぶ変幻自在の武器を、有効利用はしていても由来も原理も知りはしない。伝説めいた起源はいくつもあるのだが、ありすぎて手に負えない始末だ。

 雑談ついでに司が聞いただけでも、太古の妖の成れの果てだとか、気の凝り固まったものだとか、元はありふれた武器だったものが妖の血を浴びすぎて変化しただとか、神々が練成した特殊なものだとか、実はロンギヌスの槍も三種の神器も御守だ、などなど。また、その一つ一つに長い物語が尾ひれもつけているのだから、一層手に負えない。

 はじめの頃こそ興味本位で調べていた司だが、探求は疾うに放棄した。今となっては、気まぐれに千変万化な物語を楽しむだけだ。

 右手をひと振りして刀をしまった司は、一人で先に立って歩き始めた。

 月明かりもあれば、歯こぼれしすぎた櫛並みとは言え、水銀灯もある。例え、人工の灯りが逆に闇を際立たせてしまっているとしても、灯りは灯りだ。気をつければ、一人でも転ぶことはない。

 だが、遅れてきた足音は、すぐに司に並んだ。

「だから、諒は補佐になったの?」

「だから、の中身を言え、中身を。なんだってお前はそう、理解しにくく喋るんだ」

「あー、ごめん、わざとじゃないんだけど。こう、自分の中では繋がってるもんだから」

「俺には繋がってないぞ」

「人任せにするのが厭だから、自分も片棒担ごうって思った?」

 言いながら、田圃のあぜに落ちかけて諒に助けられる。危うく、レンゲを踏み潰すところだった。

「そう見えるか?」

「見えなくもないかも知れない」

「どこまで曖昧だよ」

 お互いに笑って、歩き出す。落ちかけたところを咄嗟に掴まれた腕はそのままで、司は安心して、空を見上げた。星が綺麗だ。

 危ないと注意され、ゆっくりと視線を下ろすと、真っ暗に見える山と、山裾に広がってぽつりぽつりと立つ家々と、今はレンゲ畑と化している田圃が見える。どれも、水銀灯付近はともかく、闇にうずもれている。

 駅近辺であればもう少しにぎわっているが、それでも、この地域は立派に田舎だ。司の周囲でも、すぐにでもこの町を出たいと言う者は多い。

 だが司は、残るつもりだ。狩人は、その地域を離れれば、何の力も持たない。旅行程度ならさほど支障はないだろうが、引越しとなれば、後任に譲るほかない。司には、そのつもりはなかった。

 つもりがないというよりも、狩人は恨まれる役目でもあるだけに、下手に非力になると、闇に葬られかねない。

 幸い大学は、電車で一時間半ほどかければ通えるところにひとつだけだがある。

 高校を出て就職してもいいのだが、おそらくはそれ以上の金銭を狩人の仕事で得ているのだから、急いで社会に出ることもない。時間を稼げるのなら、長い方がいい。

「あーっ、憂鬱だな、大学受験」

「何だ唐突に」

 諒の呆れたような声に、肩をすくめる。

「先のこと考えてたらさ。高校はどうにか受かったけど、大学はどうかなって。あそこ、何か微妙に人気あるんだよなあ」

「細工してやろうか?」

「遠慮しとく」

 人に紛れて生きる者らのコネや、特異能力などを駆使しての裏工作は便利で、数少ない司書教諭にまで収まってしまった諒という実例を目の当たりにしている分、心は揺らぐ。勉強して何か得たいものがあるわけでもないのだから、甘えてしまっても問題ないと囁く声もある。

 だが、それでは納得がいかない。なんとなく、据わりが悪い。

「一応、精一杯は生きてみるつもりでいるんだよ、これでも。人生なんて死ぬまでの暇つぶしだけど、真剣にやらない暇つぶしなら、やらなくてもいいってことになりかねないし。――でも、無理だったらお願い」

「聞いた声がすると思ったら。やあ司、相変わらずかわいいね」

 目的地に到着していたらしい。月を背に、ねずみ男に似た影が浮かび上がる。声を聞いて登ってきたものか、土手にいる。

「こんばんは。褒めてくれて嬉しいけど、ゲンさん、女の人には皆に言ってそうだから価値ないなあ」

「いやいや、僕は嘘はつかないよ」

 にこにこと笑う源は、体はがりがりに痩せているが、頬がこけているといったことはない。ただの、痩せ体質らしい。もっとも今の食生活は、豊かとは言えないだろう。

 司は、ポケットから饅頭を取り出し、源に手渡した。

「お土産」

「ありがとう。司はやさしいね」

 「は」が強調されている。諒は、源の姿を見つけてからというもの、むっつりと明後日の方を見ている。

 軽口しか言わないところや嫌がらせが好きなところが、よく似ていると司は思うのだが、少なくとも諒からは、同意が得られたことはない。

 不法占拠の掘っ立て小屋に、源は二人を招き入れた。

 源自身もだが、意外なほどに不清潔感はない。こぢんまりと整理整頓された小屋の中は、生活雑貨よりも本であふれていた。どれもぼろぼろなのは、古書店の捨て値コーナーやゴミ捨て場からの収集品だからということもあるだろう。

「それで、何か用かな? 送り狼が見つかった?」

 電池で明かりのつくらんたんのスイッチを入れて真ん中に置き、三人は車座に座った。源一人がどうにか寝れるだけの広さしかないため、かなり狭苦しい。諒の頭には、棚から突き出た図鑑が当たっている。

「ニホンオオカミは全滅したらしいですよ。ヤマイヌだって、もう少ない」

「でもねえ。庇護者がいないと厳しいんだよ、本当」

「庇護者なしで生き延びてきたんだから、この先も大丈夫じゃない?」

「時々怖い事言うねー司は」

 笑いながら、眼が笑っていない。

 しかし実際、狩人の任を降りながらその地に留まり、無事なのは珍しい。もっとも、二年ほど前までは庇護者がいた。

 送り狼、と現在で言うと男の性のような意味合いになってしまうが、元々は、呼び名の通りに送る狼だった。正確には、狼の他に山犬も含まれる。

 日の暮れた山道で、気付くと狼が後方にいる。家にたどり着いて、礼に飯でもやれば大人しく帰る。だがこれは、転べばたちまちに食い殺されるという。つまり、隙を狙って後をつけているのだ。またあるいは、獣や妖の多い山で、死後に遺体をくれてやると約束すれば、守ってくれる。これも送り狼だ。

 源が言うのは後者で、以前は一匹、源についていた。その狼が妖を牽制し、守ってくれていたのだが、病でころりといってしまった。

 以来源に護りはなく、いくら狩人の力を持つ司が度々訪ねるからといって、生き延びているのは稀有な例と言える。

「ゲンさん、知り合いがいるんでしょ? 頼めばいいじゃない」

「うーん。あの子にはまだ、やることがあるからね」

「…仇、まだ見つかってないんでしたっけ」

 母犬を殺された山犬。それが、源が最後に関わった件だと聞いている。そして先日までの源の守りは、つがいを殺された山犬。つまり、今は子どもだけが生き残っている。

 司は、少しばかり重くなった空気を払い退けるように、挙手した。

「話戻します。明後日から学校行事で、夜久に二泊三日で出かけるんで、その間、何かあったら諒にどうぞ」

「諒は行かないのかい?」

「うん、居残り。代わりに、颯が行く」

 思いっきり厭そうなかおをした諒を無視して、二人は会話を進める。

「ああ、颯君。諒の弟だったかな? 兄よりよっぽど冷静そうな」

「そうそう。愚兄賢弟ってこういうことかって思うね」

「確かに」

「颯が子どもの格好してるのって、諒が俺より年上に化けるなって言ったからとか」

「うーわー、それは最低だね」

「でしょ。炎ひとつろくに消せない実力しかないのに」

「待て。なんで俺の悪口大会になってんだよお前ら」

 にっこり、と嫌がらせのように笑う二人に、しまった罠だった、と、諒が身を引きかけ、本棚に頭をぶつける。その拍子に本が落ちてきて、埃が舞った。

 更に何か来るか、と身構えた諒の予想に反し、あっさりとした司の声が上がった。

「ま、冗談は置いて。そろそろ帰るね、明日テストだし」

 そう言って、身軽に立ち上がる。源は、やや呆気に取られたようにそれを見上げ、ああ、と、ぽつりと洩らした。

 遠くにあるものを見るように、司を見つめる。表情のこそげ落ちたかおをしていた。

「学生してたんだったね、司は」

「成績は良くないけど」

「よくやるよ。狩人なんてやってて、よく、まともに振舞える」

「見本がいらっしゃいましたから」

 源の感情のない眼を見つめながらの言葉は、皮肉ではない。しかし源は、どちらでも構わないようだった。

 虚ろな眼を、自分の目を閉じることで一旦、視界から追い出す。

 糸の切れた操り人形のようで、諒が源を避けるのはこのためでもあるだろう。体が無事でも、心までがそうとは限らないのだ。

「お邪魔しました。また来るよ」

 丁寧に頭を下げ、司と諒は、小屋を後にした。



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