七章

 姿を現した麗春 [ レイシュン ] は、にこやかな笑みを浮かべた。

「兄の友人でいてくださって、ありがとうございます」

 簡単に挨拶を済ませ、雑談になりかけた会話を打ち切って、麗春は言った。勧められた菓子を囓っていたヒラクが、不思議そうに [ まばた ] きをする。

 麗春は、微笑して蜂蜜湯の入った杯を手に取った。そこに顔を映すかのように、少し俯いた。

「私が心配するのは変なことで、分を超えていると思います」

 緩やかに上る湯気を見つめる様は、年齢よりもずっと大人びて見えた。祖父母も父母ももう亡く、叔父叔母はいるが実質上女主人なのだと聞いたことを、ヒラクは思い出した。

「けれど、心配になるのです。兄は、私を気遣って、辛くないように守ってくれます。名前を呼べばいつだって駆けつけるからと。凄く嬉しかった。でも、お兄さんは? そんな風に想ってくれる人はいるのかしら。…天界のことは良く知りません。だからもしかすると、全く必要のないことを心配しているのかも知れません。だけど、どうしてかしら。大丈夫だとは思えないのです」

 完全に二人きりになるのを避けて、わずかに開かれた扉からは、時折家僕 [ かぼく ] らの声や足音が聞こえる。

 それは、遠い世界の出来事のようだった。

「兄が守られることが好きでないということくらい、判っています。必要があれば受け容れるけれど、機会があれば飛び出そうとする。だから誰か、負担でなく自然に、肩を並べられる人にいてほしかった。何もできないけれど、ヒラク様と史明 [ シメイ ] 様がいてくれることに、とても感謝しています。本当に。ありがとうございます」

 一度顔を上げてから、杯を置いて、深々と頭を下げる。

 ヒラクは、そんな麗春にひどく狼狽 [ うろた] えた。思わず立ち上がって、意味もなく手を振り回す。

「あの、俺っ、そんなのじゃなくてっ、それに、あんたたちの方がずっと、ラオのためになってるから、ゼッタイ!」

「私では駄目なのです。 [ かせ ] にしか、なりません。だけど、ありがとうございます。…優しいのですね」

 柔らかく言われて、ヒラクは顔を背けた。

 潦史だったら、あるいは史明だったら、もっと上手く言えただろうかと、ふと思った。鈍い痛みがはしる。

「…そんなのじゃない。俺は、本当に迷惑しかかけてない…史明みたいに、相談相手にだってなれない。文句ばっかり、言われてるんだ」

「迷惑をかけない人付き合いなどありません。兄は、どうでもいいと思っている人と一緒にいることもないはずです。あなたは気付いていらっしゃらないかも知れないけれど、兄だってきっと、沢山の迷惑をかけているわ」

 転じて明るく、しかし淋しそうに言う麗春を、ヒラクはおずおずと見遣った。信じてもいいのかと、迷う仔犬のように。

「この私の居場所を教えたということからも、兄の信頼ぶりが判るわ」

 悪戯を仕掛けるような麗春の口調と表情に、ヒラクはきょとんとして立ち尽くした。麗春が、更に笑みを深める。

「滅多な人に存在自体を教えないくらいには、大切にされているという自信はあります」

 自信たっぷりに微笑む少女に目を見張り、次いで、ヒラクは吹き出した。さすがは潦史の妹だ。

 改めて促されて椅子に座り、また菓子に手を伸ばした。子供のような動作に、麗春が小さく微笑した。

 そうして、冷めてしまった飲物を取り替えさせ、ヒラクが本題に入ろうとしたときに、走ってくる足音が聞こえた。人影が、一度二人のいる部屋の前を通り過ぎ、引き返してきた。

 声もかけずに戸を開けて入って来たのは、薄色の長衣を身につけ、ヒラクに劣らず長身の青年、柳光柳 [ リュウコウリュウ] だった。面識のないヒラクが思わず麗春を庇うような位置に立ち、麗春でさえ驚きに目を見開いた。

 光柳は、睨み付けるような一瞥をヒラクに向けた。呆然としている麗春を、真剣な眼差しで見つめる。

「どんな事情であっても、早まってはいけません! いくら兄上の言であっても、今一度考え直すべきです!」

 私もどんなことであっても尽力しますから、と続ける光柳に、麗春はしばらく口を開けられなかった。気まずい沈黙が降り立つ。

「…あの、光柳さま」

「はい!」

「どなたに、何をお聞きになったのですか?」

「貴女が、無理矢理に婚約を強いられたと…」

 婚約だけなら、既に光柳としている。頭痛を堪えるようにして重ねて訊く麗春に、いささか訝しげに返答しかけて、光柳は不意に動きを止めた。

「…光柳さま?」

 突然の変化に戸惑った麗春が、近付いてそっと声をかけると、光柳は [ こうべ ] を巡らせて、襲いかかってきた。

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