三章

「あっ、無事じゃん。よかったよかった。さ、行こうぜ。おじさん」

「だから李史明 [ リシメイ ] ! 呼び捨てで許してやるからおじさんはやめろ!」

「あー、はいはい。後でまとめて呼ぶから」

「お前なあ…」

 史明は、深深とため息をついた。どうして、自分の半分ほどの年齢の奴にあしらわれる羽目になったのか。己の不運と見極めの甘さを嘆きつつ、史明は立ち上がった。

「何が起きたんだ?」

「儲け話とんでごめん。ヒラクが娘連れて逃げるはずだから、おじさんは俺とな」

「いいとこなしだな俺」

「あれだけ仲間ごと殴られといて、何を今更」

 二人は、並んで走り出した。ヒラクにはかなわないが背の高い史明と潦史 [ ラオシ ] では、やはり頭一つ分くらいの身長差がある。

 史明は、再びため息をついた。自分の子供でもおかしくはないような年齢の少年だ。何の因果でこんなことになっているのか。はじめの印象は、ただの無邪気に過ぎる、世間知らずの坊やだったというのに。

 ――俺もそろそろ、引退すべきかねえ?

 そんなことを考えていた史明は、突然腕をつかまれ、転びそうになった。潦史がやや呆れたように向ける視線を無視して、正面を見据える。そこには、二人の姿を見ても戸惑うばかりの他の使用人とは異なり、一人の男が立ちはだかっていた。

 潦史とヒラクの会った、偽の主人だった。突き放すように、潦史が言葉を投げかける。

「あんなのに命張っても仕方ないと思うけど?」

「道士様に。お嬢様を、どうか――」

 恋というには狂おしさはなく、忠誠心にしては柔らかい。不思議そうに目を細める潦史に、史明が囁いた。病に苦しむ少女は妾から生まれ、構わぬ父などではなく、ほとんどこの男と妻に育てられたようなものなのだと。

 ああ、と潦史は声を漏らした。そうか。

「伝えとくよ」

 目に見えて安堵した男の横を抜け、二人は屋敷を後にした。

 屋敷を出ると、潦史は屋敷から離れ、木陰に座り込んだ。待ち合わせ場所とも離れている。木の幹に背と頭を預け、目を閉じていたが、閉じた口はわずかに、ほころんでいた。

「おい、何がどうなってんだ?」

「ああ――。おじさん、もういいよ。ありがとう。ここまでつき合ってくれたら十分だ。儲けがなくて悪いけど、酒飲むなら、夜にあの酒家 [ しゅか ] でな。それくらいはおごるから」

「ここまできてそれはねえだろ」

 苦い顔で、史明は潦史を見下ろした。こちらは立ったままだ。

「こうなったら、最後まで見届けてやるからな。教えろ。お前らは何者で、何をやろうとしてるんだ。それにお前、なんで笑ってんだよ?」

「え、笑ってる?」

 途端に驚いた表情になって、潦史は体を起こした。ぺたぺたと、自分の顔に手をやる。そうやっていると年齢以上に幼く見えて、史明は思わず笑みを漏らした。それに気付いた潦史は、怒ると思いきや、明るく笑った。

「駄目だ、俺。あの人ツボだ。声かけてきた人。馬鹿だ、大馬鹿者。愚直だよ、正に」

「…楽しそうだな?」

「うん。家族ってのに幻想持ってるからさ。嬉しい」

 そう言って、無邪気に笑う。

 史明は、それにどこかが痛んだ。奥底の、押し殺したはずの「どこか」。つい、潦史から目を逸らしていた。

「お前の相棒と娘は?」

「おじさん、物好きだな。知ってるか? 好奇心を起こして見ちゃいけないものを見た奴は、だいたい、大きなしっぺ返しを受けるんだぜ」

 猫か、虎のような笑い方をする。史明は、そう思った。

「上等」

「…ほんっと、物好き」

 一瞬俯いて表情を隠したが、すぐに顔を上げると、身軽に立ち上がった。 [ たもと ] に手を入れて二枚の大きな薄布を取り出すと、一枚を史明に差し出す。

「一応。まだ追っ手はつかないだろうし、ついたらこれで誤魔化せるとも思わねーけど」

「どこに持ってたんだ、こんなもの」

「袂」

「…入んねえだろ。どうなってんだよ、その服」

「機密事項にて黙秘」

 いたずらっぽく笑って、ふわりと布をまとう。頭から胸元にかけてはすっかり覆われてしまい、乾燥地の住人のように見えた。史明もそれに倣うが、どうも上手くいかない。ただ布を被るだけなのに、どうしても「人目を忍ぶ怪しい男」になる。

 どうすりゃいいんだとぼやくと、横から手が伸びて、どうにか見られるようになった。

 そうして行き先を知っている潦史がわずかに先を行き、すぐ後ろに史明がつく。それはそれで、被保護者と守護人のように見えた。

「どこに向かってんだ?」

「おじさんと交渉したとこ。多分、二人はもう着いてると思う」

「何故すぐに行かなかった?」

 突然飛び出してきた子供を避け、遅れた数歩を早足でうめる。

 まだ追われていないのだから、殊更に分散する必要もなかったはずだ。史明を置いて行くためかとも思ったが、その割には、忘れられていた気がする。そもそもそれなら、声をかけて連れ出しに来ることもないだろう。

 潦史は、無造作に肩をすくめた。

「さっきから質問ばっか」

「それだけ何も言わねえんだろ、お前らが」

 商店の並ぶあたりを抜けると、人通りがいくらが減る。潦史に肩を並べると、布の端をもてあそび、ひらひらと揺らすのが目に入った。

「だって」

 短い沈黙の後の唐突ともいえる言葉は、むくれているようにも聞こえた。

「俺、腹立ってたから。きっと、ヒラクに八つ当たりしてた。そんなの情けないだろ」

「…」

「なんだよっ」

 まだ子供だなと微笑ましく思ったのだが、そんなことを言えば間違いなく、怒らせるだろう。拳くらいとんできそうだ。史明は、不完全に笑みを殺し、何でもないと言った。

「俺には意地張らなくていいのか?」

「自分より経験少ない奴に情けないとこばっか見せるのはいやだけど、逆だと、まあ仕方ないかなと思うから。それに俺、あんたのこと結構好きだし?」

 そうやって笑い飛ばして、史明が疑問を口にするよりも先に、二人は待ち合わせの場所に辿り着いていた。予想通り、少女を連れたヒラクが先についていた。

 ヒラクは、ぐったりとした少女を壁にもたれさせて座らせていたが、なぜか、その肩を抱いている。

「惚れたか?」

 期せずして重なった潦史と史明の声だが、からかうような調子まで同じだった。しかし言われた方は、面白くなさそうに唇を尖らせた。

 子供っぽい仕草と大人の外見がなんともそぐわないが、本人の知ったことではない。

「手を離したら、なんか苦しそうになるんだよ」

 へえ、とやはり面白そうに片眉を上げる史明に対して、潦史はあっさりとそうだろうな、と言った。不思議そうに二人が見ると、うーんと唸っている。

 そうして、不意に。

「つけられた感じ、しなかったんだけどな?」

 その言葉に応じたかのように男が数人、武器を持って取り囲んだ。瞬時に、近い一人を殴りかけた潦史は、しかし寸前で拳を止めた。目前の拳に、危うかった男は硬直している。

「お前…」

「何やってんだ、お前ら! ――治工 [ チコウ ] ?」

 史明は、自分に背を向けて守るように囲んでいた男たちの中から、一番近くにいた男の名を呼んだ。その素っ頓狂な響きに、治工と呼ばれた男は、心外といった表情になった。

「あなたのために来たんじゃないですか!」

「俺?」

「そうですよ」

 一度、潦史とヒラクにのされた顔も混じる男たちは、武器を潦史やヒラクに突きつけるに突きつけられず、下ろすに下ろせず、困惑した表情で互いに目を見交わした。  

 その様子に、潦史はとりあえず拳を下げた。少女を置いて立ち上がっていたヒラクも、少女の苦しげな声に気付いて、慌てて肩を抱く。史明は、その全てを見て溜息をついた。

「勘違いだ。剣を下ろせ。潦史、ヒラク、こいつらは俺の仲間だ」

「だよな。俺、さっきこいつ殴ったもんな」

 気付かぬうちに再び拳を突きつけられていた男が、思わず一歩引きかける。

 先程もだが、史明と共に潦史とヒラクを襲撃したときも、男たちには、動きすらろくに視認できていなかった。畏怖の念を抱かずにはいられないのだろう。それなのに、こうやって刃向かってくるのだから、史明はよほど大切に思われているらしい。

 そう考えた潦史が微笑すると、男は、人喰い虎が嗤ったのを目撃したかのような表情になった。おかげで潦史は、どうにかこらえたが、もう少しで大笑するところだった。

 その間に、史明は治工と向き合っている。

「連絡入れるの忘れてて悪かった。つい、な。お前らも、怪我だけさせて。悪ぃ」

「いえ、まあ…無事のようだから大目に見ますけど、説明は聞かせてもらいますよ。それと、あまり軽率な行動は避けてくださいといつも…」

「…なんでオマエそう、俺より若いのにいつもじじ臭いんだよ」

「あなたのせいでしょうッ!」

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