思いつきアンケート

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雨舞い ・ 月光の炎 ・ 警告無用(仮) ・ 合わせ鏡の謀(仮) ・ 学校の放課後 ・ いつかを夢見る ・ お伽噺の幕引き ・ 生徒たちの思惑(仮)







雨舞い

<一日>
「秋衣ちゃん。秋衣ちゃん、起きてる? おーい、秋衣ちゃ…」
「寝てたわよっ、今度は何?!」
 まさかまた、ワニなんて拾ってきてないでしょうね。
 心の中で、半ば自棄気味に呟きながら、秋衣は戸を開けた。そして次の瞬間、絶句する。
 闇の中に、天使がいた。
 昼から降り出した雨は霧雨に変わっているが、霧夜はそれに濡れながら帰ってきたのか、ただでさえ艶のある髪が、絹のようなつやめきを見せている。
 そろそろ二十になろうかという年齢の霧夜は、少々童顔ではあるが恵まれた容姿だ。それにも関わらず、身なりには全くと言っていいほどに頓着しない。髪は邪魔になってきたら切るだけで、服も、あるものを気温に合わせて着込むだけ。
 今も、助手として働く医院で、ぼろぼろになって使わなくなった白衣を上着として羽織っている。
 秋衣はいつも、それでいいのかと言いたくなる。言ったところで、返事はわかりきっているのだが。
 それはいつものことで、とりあえずそこまではいい。
 注目すべきは、霧夜の背中で、金髪の少女が眠っているところだろう。十に届くかどうかという年齢が、余計に天使めいて見える。
 霧夜のみすぼらしい格好も気にならないほどに絵にでもなりそうな二人に、秋衣は言葉を失っていた。
 美少女と美少年の組み合わせに、妬むよりも呆れる。
 容姿にそう劣等感のあるわけではない秋衣だが、霧夜と比較するのは間違っていると思うし、この少女とも、比べようなどと思わない。
 しかし、今問題になるのはそんなことではない。正直なところ、少女が美女であっても、ふたと見られないような不美人でも、嬰児でも、問題は同じだ。
「…………まさか。その子まで、拾ったなんて、言わないわよね?」
 曖昧な笑顔で佇む霧夜に、秋衣は、盛大に溜息をついて見せた。

 ハーブティーをカップに入れて、霧夜は椅子に座った。冷えた体を温めるように、カップを両手で抱えて、湯気の向こうをぼんやりと眺める。
 この建物は、アパート状になっている。一階で四部屋、計八部屋の二階建て。一応、正式に霧夜の持ち物ということになっているが、この町では、書類上の持ち主などということに、どれほどの価値があるだろうか。
 霧夜と秋衣がそれなりに平穏に居を構えていられるのは、このあたりで――闇医者を数に入れなければ――唯一の医師の助手という、そこに何割かの理由がある。
 もう一人、半住人とでも呼ぶべき者もいるが、それが訪れると知る者の方が少ないのだから、こちらは関係ないだろう。
 改造したキッチンは、そこだけ壁を取り払い、二部屋分の空間を繋げてある。どうせ食事は一緒にとるのだからと、外へ出る手間を省いたためだった。
「あたしの分もいれて」
 向かいの椅子を引いて、秋衣が座る。秋雨に冷えた夜で、先程見た格好の上に、焦げ茶のカーディガンを羽織っていた。
 一方の霧夜は、濡れきった白衣を脱いでタオルをおざなりに肩に掛けただけで、立ち上がるとタオルが落ちてしまっていた。
 棚から秋衣のカップを取って、多めに入れておいたティーポットから注ぐ。それを秋衣に渡すと、先程まで座っていた椅子に座り直す。また、カップを両手で持つ。
「ありがと」
「――あの子は?」
「体拭いて着替えさせて、今はあたしのベッド。ずっとぼうっとしてたわ。一言も話さないで。…どこで見つけてきたの?」
「…道端で寝てたから。僕も、何も聞いてない」
 責めるような調子を崩すことなく、秋衣は霧夜を見て溜息をついた。
「拾うのは勝手だけど、あたしに面倒を見させること前提で連れて帰るのは、ちょっと図々しくない?」
「それは…悪いと思ったけど、でも、放っておくのも危ないし、女の子だから…」
 実際、秋衣には迷惑をかけ通しで、悪いとは思っている。
 そんな言葉を受けて、苦笑を浮かべかけて、押しつぶしたのが判った。秋衣は素直な分だけ、そういったことが判りやすい。
 隠すためにか、浅く溜息を吐く。
「事情が事情だから仕方ないけど、今度からは無しにしてよね」
「…ごめん」
「謝るなら、はじめから拾ってこないで」
「ごめん」
 それ以上に言える言葉もなく、俯く。
 霧夜の拾い癖はいっそ見事なほどで、犬猫は恒例、インコにアルマジロ。そうして、今度は人間。――いや、秋衣も、拾ってここにいるようなものだから、「今度も」となるのかも知れない。
 どれにも、最終的には落ち着き先を見つけるが、それまでの面倒は霧夜や秋衣が見ることになる。
「せめて、ありがとうくらい言ってもいいんじゃない?」
 秋衣の言葉に、思わず顔を上げる。次いで、そこに笑みが浮かんだ。
 本人に自覚はないが、秋衣が密かに「詐欺よ」と呟く笑顔だ。困ったように、秋衣は視線を逸らした。
「ありがとう、秋衣ちゃん」
「どういたしまして」
 ごちそうさまと言って、秋衣は、空のカップを流しに置いて、部屋へと戻っていった。
 その背を見送って、すっかりぬるくなったお茶を飲みきると、霧夜もカップを流しに置いて、ランタンの灯りを消した。
 ズボンは濡れていたものが体温で生乾きになって、余計に気持ちが悪い。シャツも湿っている。一応風呂の設備はあって、湯船にゆったりとつかるのに未練がないわけではないが、今は疲れの方が勝る。
 服だけ着替えて眠ってしまおう。――そんな素直な目論見は、しかし、寝室の戸を開けた途端に、総崩れの危機に瀕した。
 まず、灯りがともっている時点で異常だ。
「よう」
 ベッドの上でくつろいであぐらをかいているのは、上下とも黒の服を着た青年だった。ポケットには、黒眼鏡も差し込んである。素顔をさらした今は、人なつっこい笑みが浮かんでいた。
 ランタンに灯りを入れたのも、この青年だろう。
 しかし霧夜は、無言で、無断の侵入者に人差し指を向け、それを窓に向けた。出て行け。
「あ、ひでー。久しぶりに会う親友に、その態度はないだろー?」
「勝手に人の部屋に押し入るような親友なんて持った覚えはない。瞬殺されても文句は言えないはずだが、違うか」
「はあ。騙されてるぜ、秋衣ちゃん」
 半眼で睨み付ける霧夜を前に、いくらかふざけた空気を持った青年は、そう言ってわざとらしく溜息をついた。
 霧夜とこの青年との付き合いは、それなりに長い。知り合って、十年ほどが経ったことになる。霧夜のこれまでの生涯の、約半分だ。
「僕は疲れてるんだ。腐れ縁の馬鹿な先輩の長話につき合うつもりも義理もない」
「相変わらず容赦ないな、お前」
「容赦のいる相手じゃないからな」
 更に言葉を重ねかけて、ようやく、青年のペースに乗せられていることに気付く。霧夜は、疲れたあたまを振った。
「とにかく眠らせてくれ。部屋の鍵はそこにあるし、ここで寝るなら布団は隣だ」
「なんだ、本当に疲れてるのか?」
 追い払う口実だと思っていたのか、青年は、拍子抜けしたように霧夜を見遣った。    
「ああ。帰ってくれるなら大歓迎だ」
 いくら言っても動かない青年をベッドから追い払い、服を脱ぎ捨てて布団をかぶる。着替えはこの際、断念する。
 思っていた以上に疲れていたのか、すぐに、霧夜は眠りに落ちていった。既に、緊張の糸は切れていたのかも知れない。
「…眠るの早すぎないか、おい?」 
 一人残された青年は、寝入って身動き一つない霧夜を、呆れたように見下ろした。長いまつげの伏せられた顔を覗き込んでも、何の反応もない。起きていれば、とりあえず拳くらいはとんでくるだろう。
 少し馬鹿話をして、帰るつもりだったのだが。
「何か、こっちも面白そうなことになってそうだよな」
 青年は、そう言って笑みを浮かべた。
 普段は二人しかいない建物の中に、この夜は四人がいた。

<二日>

 寶医院は、昨日の急患のおかげで、今朝も混んでいた。
 昨日は、実に平常の十倍近くという患者が来院し、その多くが帰ったものの、元々基本的には入院患者というものがいないこの医院では、入院患者がいるというだけで、「混んで」いる。その上、昨日の余波で早朝に来る患者もいる。
 木曽寶の個人経営のこの医院は、三階建ての建築物の二階を丸々使った、専門無視のところだ。内科や外科やと、そんなことには構っていられない。もっとも、大半が外科――怪我ではあるが。
 入院患者に朝食を配膳していると、寶がやってきた。
「すまんな。飯まで作らせて」
 初老にはなるだろうが、まだ十分に元気な木曽寶は、タヌキに似た愛嬌のある笑みを浮かべていた。右手には、どろりと濃いコーヒーの入ったカップ。
 霧夜は、微苦笑を返した。
「先生に作ってもらうよりもずっと、材料に無駄が無くて安全ですから」
「ううむ、言ったな」
「言いますよ」
 近所の定食屋が休みで娘が外出していた時に、自炊しようとして鍋を二つ黒こげにしたのは、まだ記憶に新しい。
「なあ、俺もメシ!」
「先生、コーヒーにはミルクを入れて下さい」
「牛乳? あったかなあ、そんなもの」
「あります。貸して下さい、入れて持って行きます。行ってください」
「むう」
「里香さんが呼んでますよ」
 たった三人しかいない寶医院の構成員のうちの一人は、寶の娘だ。娘と言っても秋衣の倍ほども生きているが、やはり元気な人だった。
 手招きする娘の姿に、寶が溜息をつく。
「やれやれ。年寄りをこき使って」
「僕もすぐに行きます」
「ああ。急がんでもいい、と言いたいところだが、まあ、たのむ」
 コーヒーカップを取り上げられ、手ぶらで戻る寶から目を逸らすと、霧夜は早速、カップを持って身を翻した。
「なーあー、霧夜ってばー」
「呼んだか、羽澄」
 足を止めて振り返った霧夜の笑顔は、患者や秋衣たちに向けているものとは確実に違うものだった。はっきり言って、怖い。静かに怖い。
 いくらか見慣れているはずの羽澄も思わず、何度も呼んだのにという言葉を呑み込んで、椅子から腰を浮かせかけていた。しかし、脇腹の痛みがそれを押し止める。
「や、あの」
「用がないなら呼ぶな。そもそも、どうしてお前がここにまで居るんだ」
 二人は、病室――と言っても、一部屋に寝台が三つとソファーが一つあるだけだが――にいた。羽澄が座っている椅子は隣から引っ張ってきたもので、寝台もソファーも、怪我人で埋まっている。
 それらの患者が音さえ立てないように気遣っているのは、昨日のうちに霧夜の性格を思い知ったか、今の不穏すぎる空気に恐れをなしたかのどちらかだろう。
 羽澄は、引きつった笑みを浮かべた。
「…俺の朝飯は?」
「ない」
「そんなあ」
 不満の声は子どもっぽく、椅子の背を前にして逆向きに座っていることもあって、図体だけ大きな子どもかのようだった。
 実際、早くに出掛けた霧夜を慌てて追った羽澄は朝食をとり損ね、実は昨夜も食べていなかったために、空腹に、思考も多少短絡になっている。羽澄にとって、空腹は理性の敵だ。
「恩人に対してそれはないよなー」
 拗ねるようにして、何気なく呟いた羽澄を、行きかけた足を止めた霧夜が睨み付ける。
「誰が。恩人だって?」
「助けただろ、今朝」
「そうか、あれを助けたというのか。割り込みさえなければ、怪我人もなく済んだはずなんだけどな」
 眼光が、一層冷え込む。もはや、氷点下二桁の域だ。
 今朝、診療所に向かう途中でたちの悪い酔っぱらいに絡まれた。そして、その男の持つナイフは、羽澄の脇腹に突き刺さった。
 いつもなら軽くあしらえたはずの相手に霧矢が不覚をとったのは、やはり疲れていたのだろう。
 だが、傘を差していたのに、それで防ぐこともせずに、わざわざ身体を使って防いだのは――やはり馬鹿だ。どうしようもない大馬鹿者だと、霧夜は思う。
「霧夜、手を貸してくれ」
「はい」
 寶の声で、羽澄のことを意識の外へと追い出す。
 しかし、行きかけて足を止める。
「――残り物でいいなら、勝手に食べてろ。患者に何かあれば、すぐに報せるように。わかったな」
「おう。ありがとな」
 素直な返答に、なんとなく、霧夜は釈然としなかった。

 その日の夜も、霧雨が降っていた。
 この町では、雨の降らない日の方が少ない。いい加減、汚れきった空気を伝って降る雨が体に良くないだろうことは判っているが、それでも、霧夜は傘を差す気にはなれなかった。傘が嫌いなのか雨に濡れるのが好きなのか、よく判らない。
 傘を差さない霧夜の隣を、やはり雨に濡れた羽澄が歩いていた。
「付き合うことはない。差せばいいだろう」
「いやまあ、俺もそう好きじゃないからな」
 差し出された傘をまるきり無視して、羽澄は、頭の後ろで手を組んだ。軽く目を閉じて、瞼に細かな雨を受ける。
 上下ともに黒の服を着て、茶のジャケットを羽織った羽澄は、その色ごと、この町に馴染んでいた。
 廃屋に見える崩れかけの建物にも、まず間違いなく人が住んでいる。ごみの散らばった汚い町角は、夜ともなれば灯りは乏しく、人身売買を行なう輩も闊歩する。いや、それは昼であっても大差はなく、軽犯罪まで数に入れれば、この町には犯罪者以外はいないかも知れない。
 拒むことはないけれど、優しく迎え入れてくれることもない。それは、よくある町の姿だった。
 それでも霧夜は、そんなこの町が嫌いではない。嫌いならばもっと楽だったかも知れないと思うが、そうはならなかった。生きることに必死で、そのくせ退廃しているような。そんな空気が、妙に愛しい。
「そういや、三谷のおやっさんの娘が行方不明なんだと」
 何気なく唐突に、羽澄は言った。
 三谷というのは、大きな組織の、半ばお抱え医者の名だった。羽澄も霧夜も、多少の面識はある。
「見事な金髪で、それは愛らしい女の子だとか。薫ってんだと」
 含みのある口振りに、霧夜は睨み付けていた。しかし羽澄は、口の片端を上げて笑っている。
「ついでにおやっさんも、このところずーっと、金城のところにいるんだよなあ。今までは、日に一度は家に帰ってたっていうのにな」
 にやにやと笑う羽澄の視線の先には、数人の男たちがいた。どれも、酔っ払いや、あるいは人身売買を目論むといった風ではない。見るからに、どこかの下っ端。
 霧夜は、苦々しく溜息をついた。
「お前の職業を忘れていた」
「あっ、何それ、酷いなあ。俺、今日はずっとお前と一緒にいただろ。相棒を疑うなんて、そんな子に育てた覚えはないぞ」
「昨夜か」
 軽口を無視して断定すると、霧夜は男たちを見据えた。
 周囲はぐるりと取り囲まれている。この程度なら人数はあまり問題ではないが、もしも、秋衣たちにまで手が及んでいれば。がらくたを改造して、あの建物の周りはとりあえず守っているが、無事だろうか。
 何かあれば――羽澄といえど、ただでは済まさない。
 その気配を見取って、羽澄は口調を改めた。
「言っとくけど、俺、本当に何もしてないからな。俺の目論見は他にあるんだ。今は、こんなやつらは邪魔なんだよ。大体、お前の恨みを買うのだけはやめようって決めてるんだから」
「それを信じろと?」
「お前を怒らせたら、とてつもなく容赦がないって知ってなかったら、とっくに秋衣たち殺してでも今の生活なんか辞めさせてる」
「――そうか」
「ああ」
 終始、淡々と言葉を交わして、二人は男たちに声をかけた。安っぽい挑発は、すぐに効果をあらわした。

「やっぱさー。復職しねー?」
「もう、顔向けのできないことはやらない」
 誰にとは言わない。言わなくても、羽澄はおそらくわかるだろうし、わからなくても問題はない。
 霧夜が、本当に心底大切に想うのは、亡くなった姉と姪だけだ。五年前に失った、肉親。そうして、その喪失から引き上げてくれた秋衣や寶を、少なくとも自身よりは大切にしている。
 羽澄は、階段を上り終えた拍子に、一層、肩を貸している霧夜に体重をかけた。
「でもさー。俺、誰と組んでも長続きしないんだよな。なあ? 昔のよしみでさあ」
「無駄に喋るな」
 体調を無視して絡んでくる羽澄に言って、霧夜は戸を開けた。家に入るとすぐに、一旦羽澄を置いて、薬箱とタオルを探す。
 男たちを相手の立ち回りでは何事もなかったのだが、ついさっき、階段を上るときに足を滑らせて派手にこけ、羽澄の傷口が開いてしまっていた。元々、大きな傷ではないにしても、そう浅い傷でもないのだ。
「上がる前に、拭けよ」
「うん」
「お帰り――羽澄? うわあ、久しぶり。霧夜君と一緒だったの?」
 夕飯を作っていたらしい秋衣が、キッチンから顔を覗かせて、意外そうに首を傾げた。料理のために、いつもは下ろしている髪は束ね、紺のエプロンをつけている。
 羽澄は、それに気安い笑顔で応じた。
「おう、久しぶり。ん? そっちのちっこいのは?」
「ああ。薫、おいで。この人が霧夜君。薫をここに連れてきた人ね。そっちは、霧夜君の友達の羽澄」
「なんか、扱いに違いがある気がするけど?」
「気のせいでしょ」
 きっぱりと言いきられ、口の中で文句を呟くものの、秋衣の陰に隠れるようにして顔を覗かせた少女に、とりあえず、羽澄は笑いかけた。
 少女は、緑色の眼を大きく見張った。
「ユヅキ…?」
 少女の呟きに、瞬時、霧夜と羽澄が視線を交わす。しかし秋衣は気付かずに、少女を促してキッチンへと戻ろうとする。その際に、振り返って二人を見る。
「もう少し、時間かかるから。その間に着替えてよ、風邪ひくじゃない」
 咎めるように言い置いた秋衣と、一日足らずで秋衣になついたらしい薫とを横目に、二人はそそくさと奥の部屋へと向かった。   
 はじめは、そのまま入り口ででも手当をするつもりでいたが、話をする必要がある。玄関では、秋衣や薫に聞こえるかも知れなかった。
 一番奥まった部屋、寝室で、タオルを敷いて羽澄を座らせると、薬箱を開けた。「薬箱」とは呼ぶものの、実際には、ある程度の手当ができるだけの器具類も入っている。
「なあ。なんで、あの嬢ちゃんが弓月って名を知ってるんだ?」
「昔、三谷から仕事を受けただろう。そのときに、姿を見られたんじゃないか」
「じゃあ、やっぱり三谷薫って、…!」
 ぶつけた拍子に傷口に入り込んだらしいガーゼを引き剥がし、消毒液をかける。羽澄は、悶絶した。
「おまっ、わざとッ!?」
「涙目になってる」
 勿論わざとなのだが、霧夜はさらりと指摘した。その上で、動くな包帯が巻けないと言う。
「しばらくは、大人しくしていろ。なるべく動かずにいるんだな。傷が広がりかねない」
「そんな、折角面白そうなことになってるのに!」
「自業自得だ」
「足が滑ったのは俺のせいじゃない! 強いて言えば雨のせいだ!」
「日頃の行ないが悪い」
 きっぱりと断言されて、羽澄は泣き真似までして見せたが、霧夜は一向に取り合わない。ちくしょうぐれてやる、と呟くと、それ以上どうやってと、冷たく返された。

 その夜、霧夜の部屋には大量の酒が運び込まれた。
 夕食後、霧夜の忠告を無視して外出した羽澄が、大量に持ち帰ったものだ。よくも一人で運べたものだと感心しそうになって、霧夜は自分に溜息をついた。そういう問題ではない。
 突然の酒盛りに、秋衣も参加したがってはいたが、薫がいるからと渋々と諦めたようだった。
 壁とベッドの側面をそれぞれ背にして、二人は、床に座っていた。それぞれの手には、酒の入ったコップ。
「なんか、三谷のおやっさんが大きな秘密抱えてるって話だったんだよなあ。それ探ってたんだけど、娘がこんなとこにいるとなると。捕まってんのかな」
 無色の蒸留酒を水のように呷りながら、羽澄は軽く天を仰いだ。
 その向かいで、半ば無理矢理持たされた酒を嘗めながら、霧夜は無言だ。
「これは、あれだよなあ。下手したら、もう生きてないな」
「いや。まだ大丈夫だ」
「何を聞いた」
 まるで当然のように言う。やっと話す気になったかと、そう言いたげな表情を、いくらか悔しく思いながらも、霧夜は酒を呷った。
 一人で何もかもできるほど、霧夜は強くない。五年前に感じた無力はそのままで、今もまだ、あの頃の闇を引きずっている。
「――確認はしてない」
「この状態で裏までとってたら、俺、情報屋の看板下ろさなきゃだぜ? いいから、言ってみろ」
 悪までか類の利の羽澄に、ふうと、霧夜は息を吐いた。
「三谷は、何か組織に必要な情報を隠したようだ。引き渡す代わりに、金を要求した」
「あの人が? 金?」
「裏取りはお前の仕事だろう。それにおそらくは、三谷は自身の身の安全は求めていない。金というのも、目眩ましの可能性の方が高いだろう」
「嬢ちゃんのため、か――」
 揃って、息を吐く。
 期せずして、二人は同じ場面を思い出した。まだ、思い出にできるほどは遠くない、過去。
 二年ほど前まで、二人は組んで仕事をしていた。情報屋やスパイの真似事もしたし、必要であれば殺人も厭わなかった。わずか一年ほどで、それなりに信頼も得ていた。
 丁度、基盤が固まってきた頃に、二人は三谷からの依頼を受けた。それは、娘の――つまりは、薫の――母の殺害だった。
 薫の母はありふれた売春婦で、三谷との付き合いはあったが、薫の父親が本当は誰なのかは、判らないような状態だった。それでも娘として引き取り、育てた。押しつけられたのだ。それが、急に引き取ると言い出したのだった。
 愛情からであれば、三谷も違った手段を執っただろう。しかしその女は、偶然に見た娘が見栄えのする容姿であることを、使えると、金になるととったのだった。
 あれなら高く売れる。
 その言葉が、三谷に決断させた。そんな女が母だと、知られてはならない。
『私は、卑怯なんだよ。売春婦の死なんて、珍しくもない。捕まることだってないだろう。それでも――直にあの子の母を殺して、これまで通りに笑いかけることなんて、できない』
 懺悔するようだった言葉は、罪を押しつけることとなった羽澄と霧夜――弓月と遠夜へ宛てたものだったのか、自分を納得させるための独白だったのかは、今でもよくわからないでいる。
 クスリや生活の不摂生でぼろぼろになっていた娼婦の死は、よく降る雨のように、すぐにも人々の日常に紛れた。
 しかし、もしあの場を薫が見ていたとしたら。幼い少女は、それを日常とすることができただろうか。父が母を殺す依頼をしたことに、何らかの納得をしたのだろうか。
「ん? ちょっと待て、それでなんで『大丈夫』なんだ?」
「あの子が追われているからだ。まだ、人質の価値があるということだろう? さっきの男たちも金城のところの構成員だし、昨日会ったときにも追いかけられていた。よく無事だったと、むしろそういう状況だったな」
 相変わらず淡々と告げる霧夜を、羽澄は恨めしげに睨み付けた。
 このあたりから、二人の手酌は早くなっている。会話の合間に飲んでいるのか、飲んでいる合間に話をしているのか。
「それだけ判ってて、なんで俺を疑うかな」
「昨日の奴らはきっちり撒いたはずだったから。つい」
「場所で張ってたんだろ。ったく、そんなに相棒を疑うかよ」
「悪かった」
「おう。しっかり謝って反省してもらおう」
「しかし、疑われる羽澄の過去の行ないにも責任はある」
「なにぃ?」
「リゼル邸で、お前が勝手に囮にしたせいで、大変な目に遭った」
「だってあれは、俺の方には喰いついてこなかったし。大体、ちゃんと一言いっただろ」
「ああ。本当に一言で、しかも直前だったがな」
 昔のことも交えながらの話は、尽きない。学校に通っていた頃の話まで持ち出すと、いよいよ収拾がつかなかった。しかし不意に、羽澄が鋭く視線を投げかけた。
「で、どーするよ?」
 深く関わるつもりがないのなら、早々に手を引かなければ巻き込まれ、抜き差しならなくなる。そんなことは俺以上に判っているだろうと、わざわざ言い添えるのは、秋衣のために仕事を辞めた霧夜への、くだらない嫌味だ。
 霧夜の返答はなく、ただ淡々と、杯を重ねる。羽澄もそれに付き合うが、こちらは、色々と賑やかに言葉を連ねる。
「なあ。俺、他の奴と組んでも長く続かないんだって。ガッコからの付き合いじゃないかよ。なー、きりやー」
 ごねたり説得を試みたり、笑い話をしたり。
 それもやがては静かになり、その頃には、数ある酒瓶はほとんどが空になっていた。羽澄は、ベッドに寄りかかったまま眠ってしまっている。
「…お前のことは嫌いじゃないけどな」
 嫌いだったなら、もっと簡単だっただろう。
 この町に対するのと似た想いが、胸を突く。嫌いであれば、ただ切り捨てて、顧みなければいい。それができないから、厄介なのだ。とても。
 残りのコップの中身を飲み干すと、立ち上がる。と、よろめいて壁に手をついた。頭はそれなりにはっきりとしているのだが――その自己判定も、あんな独白を吐くようでは怪しいが――先に、足に来たようだった。
「こんなに飲んだのは、久しぶりだしな…」
 面倒になって、そのまま腰を下ろす。立てた片膝を抱くようにして、そっと目を閉じた。明日、起きると体が痛いだろうがまあいいかと、思う。やはり、酔っているのだろう。











月光の炎

 ――死色の髪に、血色の瞳なんだって。
 バケモノのはずの僕に平然と声をかけてきたその人は、不思議そうに、首を傾げた。
 そこには、蔑む色も、恐れる色も、嫌悪する色もなくて、どうしてと、妙なものを見ている気持ちになったのを覚えている。
 僕はバケモノで、蔑まれ、恐れられ、嫌悪されるものだから。
 ――何故? 月光に染まった髪に、炎の色だろう? どちらも、人を、闇から守ってくれるものじゃないか。
 ただぽかんと見上げていると、その人は、何故か優しく笑って、手を伸ばした。それが、僕に差し伸べられているのだと、気付くまで大分かかった。

 * * *

 朝日を浴びて、月人はまぶたに手を当てた。まぶしくて、目が開けられない。手探りで、黒色の入った、眼を完全に覆う形の眼鏡(ゴーグル)を探した。薄手の手袋をした手が、すぐに触れる。
「…寝過ごしたな」
 夜明け前に起きるのが鉄則だというのに、またやらかした。
 はぁと溜息を落とすと、月人は、すぐ近くを流れている小川に、顔を洗いに行った。小さくまとめている荷は、当然のことながら、持って移動する。
 もっとも、いくら何かが近付けば音の鳴る仕掛けをしていたところで、日が差すまで寝過ごすほどに寝入っていたなら、意味はなかったのだろうが。
「あーたーらしーいっ、あーさがっきたっ」
 師匠の家に代々伝わっていたという歌を、意識もせずに呟きながら、木陰の川縁にしゃがみこむと、とりあえず手袋を外し、手を洗い、口をすすぐ。
「きーぼーうの、あーさーだっ」
 水を吐き出しながら、やはり、呟くように歌う。本当に代々伝わっていたのかは怪しいところだが、古歌には違いないだろう。妙な歌だ。
 月人は、きつく目をつぶると、眼鏡を前髪ごと、額との境目の少し上くらいまで引き上げた。首を覆う布地にも無頓着に、思い切り、顔を洗う。
 そうしてから、うわ拭くもの忘れた、と呟くと、とりあえず手で水分をぬぐい、目をつぶったまま、緑革のカバンから布を引っ張り出した。目元の水をきっちりとぬぐい取ると、眼鏡を下ろし、ようやく目を開く。
「よーろこーびに、むねをひーらきっ、おーおぞーら、あーおーげー」
 歌詞に倣うかのように上向いた月人は、目を細めて、上着のフードを被った。手袋も、嵌め直す。首を覆うタイプのシャツを引き上げ、眼鏡の下までの顔を覆ってしまう。
「らーじおーのーこーえにー…って、らじおって誰だ?」
 呟きながら、装備が完成したことを確認する。
 いつもながらに、怪しい。どこの寒冷地の山賊団だと言いたくなる。何故こうも、自分は普通の服を怪しく着こなせるのだろう。
 いや、森の中でフードを被った上にゴーグルをかければ、誰だって怪しくなれるのだろうが。
 森に相応しくない、電子音が聞こえた。荷物の奥で鳴っている。月人は、むうと顔をしかめた。もっとも今の格好では、何も見えないだろうが。
「あー…」
 怒られるなあと呟いて、のろのろと荷物を探る。持ち運び式の連絡機は、癇癪を起こした小鳥のように鳴り散らしていた。
「はぁーい」
『アンタねッ、今どこにいるの?! ちゃんと定時に連絡寄越せって言ってるでしょ! 死亡届出して住民登録抹消するわよッ?!』
「あー…サトカさぁん、相変わらずいー声。惚れ直しちゃうねー」
『誰もそんなこたァ聞いてないわよ! 位置報告!』
「なんだよ、旦那、また構ってくれないの? だからって俺に当たることないだろー?」
『位、置、報告』
 おそらく電波の向こうでは、血管を浮き立たせるほどに怒っていることだろう。美人が台無しだと、月人は、己の責任を丸ごと棚上げして思った。
 月人の所属する事務所は、似たような代物が山とある、少数精鋭といえば聞こえはいいが、ただの弱小団体だ。経営者は中年の夫婦で、娘が一人、事務の手伝いや実務の補佐を行っている。他の実務担当はと言えば、月人の他には、専属が一人とふらりと気が向いたときにやってくるのが一人きり。
「キリッシュの森の、えーと、川の側」
『はぁあ?!』
「夜には戻りまーす、多分」
『ちょっ、待ち』
 ぶちり、と、スイッチを切る。勝手なことをしてと、怒られるだろうがそれは後だ。
 とりあえず帰るかと、腰を上げた。
 今回の月人――もとい、仕事名・ルナの仕事は、既に終わっている。薬草の採取という至極簡単なものだったおかげで、昨夜はぐっすりと眠れた。
「さーて行きますか。麗しのサトカさんに会うために〜」
 軽口と独り言は、すっかり身に染み付いてしまい、今やなおす気すら起きない。
 森から出る際に、装備がちゃんとしているか、再確認。肌と眼の弱い月人は、普通ならば日焼けすらろくにしないような日差しでも、火ぶくれを起こしたりする。
 赤い瞳に、白い肌、白い髪。
「月光に染まった髪に、炎の瞳」
 臭い台詞言ってくれるぜ、と、呟く。大好きで尊敬している、今はもう会えない師匠のくれた、最強の鎧だ。
 ――ありがとう。俺は、あんたがいてくれたから、今の俺でいられる。
 届かない言葉は、珍しく、胸の内だけで声にした。
「ッ?!」
 不意に、木陰から人が跳び出した。小柄な、まだ十代だろう少年。春先とはいえ寒そうな格好で、伸び放題の鬱陶しげな髪。慌ててどこかから逃げ出したかのように、裸足だ。 
「? お前…」
「くるな!」
 突き刺さりそうな声に、伸ばしかけた手が止まる。これはなんとも――。
 遠くで、あっちだ、といった声が聞こえた。明らかに複数。対する少年はたった一人で、ろくに武器も持たず、肩で息をしている。
 これは当然、味方する方は決まっている。
 ――勝手に運命ってやつにしちゃっていいかな、師匠?
 これも心の中で呟いて、月人は、笑みをこぼした。
「少年」
 敵意剥き出しの視線が、刺さる。なんて、自分の過去を思わせる子供だと、月人は、いよいよ笑みを深くした。
 世界の全てが敵で、味方があるとすれば、反応を示さないものだけ。そう思っていた癖に、無視を決め込んだ胸の奥で、手を差し伸べてくれる誰かを、心底求めていた。
「生きたいか?」
「――」
「大きなカバンがある。お前くらい入るぜ?」
 それが二人の、出逢いだった。

 額を置き石が直撃して、月人は、言葉もなく倒れこんだ。いくらフードを被っていても、それくらいでは緩和しきれないほどの凶器だ。下手をしたら、頭蓋骨に穴が空く。
「いい加減になさいよ馬鹿王ッ、定期報告はしない現在位置は言わない帰りの時間は守らない、あんた雇うくらいなら、モモンガでも雇った方がましだったわッ!!」
「も、モモンガに仕事こなすのは無理だと思うぜ、サトカさん?」
 石頭の面目躍如のように、どうにか起き上がって反論をする。
 うずくまる月人の目の前に立ちはだかるのは、美人だった。
 贅肉など寄せ付けないような体つきなのに、出るところは出ている。そして顔は、化粧をしていないのに目鼻立ちがくっきりとし、唇も濡れるように紅い。すれ違いざまに、つい目を留めてしまう鮮烈な存在感。凛とした声は、罵倒であっても聞き惚れる。
 彼女が、この集団を取り仕切る郷夏だ。これで一児の母とは、到底信じられない。
「それじゃあミジンコでもいいわ、遅くない、今からでも契約叩ッ切って放り出してやろうか?!」
「えー、ひっどいなーサトカさん。こんなか弱い青年放り出して、心痛まない? 夜眠れなくなっても知らないよ?」
「そうね、アンタなら契約切れた途端に夜這いでもしかねないわ」
「そんな命知らずな。その前に旦那抹殺しなきゃ、いくら俺でも死ぬって」
「一遍死んで来い、この馬鹿大王!」
 仁王立ちで声を張り上げる様は、恐ろしいながらに美しい。にへらと、月人は笑った。
「おかーさん、そのくらいにしたら? 月人、全然こたえてないみたいだし。時間の無駄。ねえ月人、何があったの?」
 助け舟を割り込ませたのは、郷夏の一人娘。咲穂と名付けられた彼女は、先日、十七の誕生日を迎えた。涼やかな眼差しと癖の無い黒髪は父親譲りだが、美声は母親譲りだ。
 月人の親友は、眼鏡越しに感謝の視線を向けた月人に、軽く肩をすくめただけだった。
「ちょっと、拾いもの。あ、これ依頼品な。処理よろしく」
 小柄な咲穂くらいならどうにか入れそうな大きさのカバンを、差し出して見せる。郷夏が仁王立ちのまま動かないため、奥のカウンターに座っていた咲穂が、受け取りに腰を上げる。
 中を見て、問題なし、と口にする。
「それじゃあ、手続きするね。それで、拾いものって何? おかーさん、そろそろ座ったら?」
「…なんであんたはそう、この大馬鹿魔王の味方をするのかしら」
「だってあたし、月人好きだもん。仕事自体はちゃんとこなすし、案外頼れるし」
 一切照れる様子もなく、カウンターの奥にある機械で、写真をとって業務完了の手続きを送る。実物を手にし、それを報告してようやく、仕事は終了となる。
 郷夏は、慌てふためいて身を翻した。
「あんたをあれにやるつもりはないわよ?!」
「…。おかーさん。あたしと月人で、恋愛感情が成立すると思う? あたし、月人は家族にしか思えないよ」
「だからってあいつもそうとは限らないじゃない!」
 そりゃあまあ、咲穂も美人だ。母親ほどの超絶さはないが、充分に人目を引く。これでもう少し色気が出れば、盛りのついた男どもが放っておくことはないだろう。
 だが、月人にとっても、咲穂は飽くまで親友だ。
「じゃあ、お先ー」
 立ち上がり、ひらりと手を振る。親友が活路を提供してくれたのだから、使わない手はない。
 事務所を出ると、空はからりと晴れていた。色のついた眼鏡越しにそれを眺めやって、月人は、食料品店の並ぶ通りへと足を向けた。しばらくは町を出ないつもりだから、食料が必要になる。それも、二人分。
「今日は何食おっかなー」
 料理は嫌いではない。ただ、どうにも大雑把になってしまい、時々、食べられなくはないがおいしくもないものができてしまうのは問題なのだが。
 売り買いを目的に行き交う人々は、活気があって、見ているだけでも楽しい。
 よく晴れた暖かい日に、月人の格好は目立つ。にぎやかなこの都市では奇抜な格好の若者もいるが、そういった手合いの活動時期は夜が主の上、どちらかと言えば彼らは、薄着にはしる。
 しかし、それほどの奇異の目は受けない。時折、おそらく初対面の者が、ぎょっと眼を見開くくらいだ。
「おー、月人。買ってかないか、取れたてだぞ」
「騙される馬鹿はいないぜ、仁。どうやったら取れたての魚が拝めるってんだよ?」
 海までは、通常馬を走らせて二日。凍らせられる冬場ならともかく、新鮮な魚など望むべくもない。
 言われた魚屋は、ばれたか、と、笑った。
「でもな、そのうち嘘じゃなくなるかもだぜ? ほら、チゲの実。あれの逆で、一気に冷凍させる植物ってのの、群生地が見つかったらしいんだ」
 チゲの実とは、力を加えれば爆発する木の実だ。その逆といえば、ジャレの実か。
「へぇ、そいつは知らなんだ。でもあれだろ、いくら群生地ったって、こんなとこまで下りてこないだろ。そんなのは、金持ちの特権だ。しかもそれ、取れたてじゃなくって新鮮だろ。ジーン、お前は諦めて塩漬けの腕を磨け」
「けっ、夢見るのくらい勝手だろ。あっ、どうだこれ、作ったばっかの蜜漬け。鷹の爪と桂皮ブレンド」
「…ひとつ、もらうわ」
 魚屋の息子として生まれ育ち、自分でもその職を選んだ仁は、咲穂とほぼ同齢だ。仕入ればかりでなく加工にも熱心なのはいいのだが、時に突飛なものを作る。しかし案外それが、美味かったりもする。常連客の何割かは、賭けを味わうために新作に手を出したりもしていた。今回はどうだろう。
「あーら月ちゃん、いいところに。新鮮なの仕入れたのよ、買って行きなさい」
 魚屋の横の野菜屋に捕まって、馴染みのおばちゃんから大量に野菜を買い、おまけにりんごもつけてもらった。
 そんなふうに転々として、床屋の二階を間借りした自宅に着いた頃には、両手は完全に塞がっていた。戸が開けられない。
 一度荷物を下ろせばいいようなものだが、月人は、かすかな希みにかけて足で扉を叩いた。
「おーい、いるなら開けてくれー。いないならいないって言えー」
 返事はない。
 諦めて薄焼きパンの包みと野菜の詰まった袋を下ろすと、腰の弾丸ホルダーから、部屋の鍵を取り出した。このホルダー、本来それだけで埋まっているはずの弾丸よりもよほど、のど飴やら薬草やら錠前回しやらと、関係のない雑貨品が詰まっている。
「まーだ寝てんのかねー?」
 言いながら、部屋の隅で警戒して扉を見つめている様を思い浮かべる。月人は、そうだった。
 逃げようと思えば簡単に逃げられるのにそうせず、どんな奴か見極めないと厄介だからと自分に言い訳して、不安と期待と恐怖に取り憑かれていた。そうして、入ってきた師匠を攻撃しようとして失敗した。
「なあ少年、名前くらい教えてくれないか?」
 部屋に踏み入るなり目の前を掠めた拳の、その主を見る。もっとも相手からは、色のついた眼鏡のせいで顔の向きだけしか判らないのだろうが。
 毛を逆立てた手負いの獣のような少年には構わず、月人は、抱えた荷物を丸テーブルの上に下ろすと、上がっていた窓のブラインドを、順に下ろしていく。部屋に薄闇が満ちてようやく、フードと顔の半分を覆っていた服、眼鏡を外す。
「顔隠してて悪かったな、少年。好きでやってんじゃねーけどな。ま、お前も顔隠してるってのはどっこいどっこいか」
 伸ばしっぱなしのぼさぼさ髪をかき回そうと手を伸ばしたら、脛を蹴られて逃げられた。
「っ〜…あのなあ、厭なら厭って言え。喋れるだろう、お前」
 そう言いながら、返事を待たずに紙袋を整理する。野菜や果物は専用の箱に、蜂蜜や香辛料は棚、パンも棚に。そのうち、今使うものを選り分けて机に残す。朝食がまだだ。
「少年、嫌いなものあるか? つってもまあ、あっても食わすけどな。ところで少年、髪伸びすぎだろそれ? 丁度下が床屋だから、朝飯食ったら切りに行くか?」
 てきぱきと朝食の用意を整えながら、一方的に話しかける。
 薄焼きのパンに、野菜を切っただけのサラダにドレッシング、蜂蜜とミルク。肉っ気がないと、足を延ばして調理場で挽肉の腸詰(ソーセージ)を焼く。
 とりあえず食え、と出して、月人自身も食べ始める。はじめは警戒を解かなかった少年は、やがて迷い始め、おずおずと手を伸ばした。
 食べる物を食べて人心地付くと、月人は、チョコレートの欠片を少年に投げやった。蜂蜜が好きなようだったから、これも気に入るだろう。
「さて少年、これからどうする?」
 チョコレートをしげしげと眺めるが、食べようとはしない。
「とりあえず事情も聞かずに逃がしたけどな、どこか行くあてがあるならそこ行きゃいいし、ないなら少しくらいはここいてもいいぞ。ずっととなりゃ、お前にも働いてもらうけどな。働かざる者食うべからず。ついでにここにいるなら、その鬱陶しい髪は何とかしろ。さあ、どうする?」
「…おまえ、ナニモノだ」
「あ。あー、あー。悪ぃ、自己紹介まだだっけ? 月人。狂華ってとこ所属のハンターだ。顔隠した怪しい格好してたけど、肌と眼が弱くてな。日の光は、俺には刺激が強すぎるんだ。他に何か質問は? ないなら、寝るぞ。寝なおす。昼になったら起こしてくれ」
「は?」
 言ったきり、少年が絶句する。月人は、これ見よがしにあくびをした。
 この少年を追う男たちを振り切るのに予想以上に時間がかかり、それからこの町まで戻り、なんとか事務所に顔を出し、買い物を済ませて朝食にありつき。眠いのは本当だ。
「風呂使うなら、そこだ。水圧下がるから、先に一階の大家に断っとけよ。床屋の店長だ。お前のことは話してあるから、その格好見ても腰抜かすことはない」
 明け方にこの住処にたどり着いたときに一度、少年のしばらく風呂に入らないでいた上に砂埃にまみれたといった薄汚い様子に、丸ごと洗ってやろうと思ったのだが拒否されている。それで一度は目をつぶったのだが、月人は、我ながら意外にきれい好きなので、一眠りしてもそのままであれば、断固として洗ってやる、と思う。
 長い髪で顔を覆ってしまっている少年は、表情が判らない。だが、ぷつりと糸が切れるように、張り詰めていた何かが切れたのが、判った。
「あんたは――ホントウに、ただ、たすけて――くれたんだ…」
「生きたいって言っただろうよ、お前。まああいつらが、殺すつもりだったのかなんて知らないけどな」
「あいつらは…ッ」
 何かを言いかけて、少年は、身を翻した。咄嗟にその腕を、掴む。
 細くて筋肉も脂肪もろくについていない腕は、力加減を間違えれば、容易く折れてしまいそうだった。
 しかしそれでも少年は、月人を見ようとはしなかった。顔を背けたまま、俯いている。
「あのなあ、何だってんだよ? 俺の紅い目が怖いのか?」
 化物と蔑まれ、極端に光に弱く、かといって夜目が効くわけでもない。厄介この上ないこれを、例えば抉り出せば他と変えてくれると言うなら、月人は喜んでそうするだろう。
 だが少年は、俯いたまま首を震わせた。
「あんたは――イイヒトだ。そばにいちゃ、いけない」
「褒めてくれてありがとよ。ようやく俺の真の姿を見てくれる奴に出会えたな」
 とりあえず軽口を叩いて、さてどうするかと、心の中でだけ腕を組む。実際の腕は、がっちりと少年の腕を捕らえ肩を抱き、逃げ出さないようにしている。
 ――なあ師匠。あんたも、こんな風に悩んだのか?
 ふっと湧き上がった苦笑を口元にだけ、浮かべる。
 いい人だからここにいられないというのは、つまりは、あの時逃げていた奴らのように、何かに追われているからだろうか。確かに厄介ごとは好きではない――嫌いでもない――が、話も聞かずに放り出すくらいなら、はじめから関わろうなどとは思わない。
 しかしこの頑なな様子では、簡単に話してくれそうもない。
 眼を合わせる、というのは相手を落ち着かせるのにいい方法だが、月人のこの血の色の透ける瞳では、逆に怯えさせかねない。
 はあと、溜息をついた。婉曲は無理だ、直球しかない。
「事情聞かせろ。でなきゃ、納得できない。一度助けた奴を、わけもわからずに放り出すなんざ、俺の趣味じゃないからな。多少の迷惑くらい、覚悟してるぜ? 何しろ、あの出逢いだろ。そりゃなあ、俺が恐いってんなら話は別だけど、いい人だなんて言われて叩き出したら、名が廃るし後味悪いってもんだ」
「―――眼をみたら、死ぬんだ」
 何だそれはと、今度は月人が絶句する。
 少年は、絞り出すような声を、淡淡と続けた。
「眼をみたら、死ぬ。みんな。だれも――たすからない」
「ああ――お前、邪眼ってやつか」
 昔、聞いたことがある。凶事をもたらす眼。本当にあるのかと師匠に訊いたら、あるかも知れないねと、あっさりと返された。あったのかと、ただそう思った。
 しかしあれは、必ずしも死をもたらすのではなかったはずだ。
 月人は、少年の肩を掴んだ手に力をこめて、こちらを向かせた。
「なあ、お前は、俺が嫌いか? 恐いか? 死んで欲しいと思うか?」
 必死に、眼を合わせまいとしてか顔を俯かせて、首を振る。
「死ねなんて、思ってないんだな?」
「いやだ、ころしたくない! だから、だからここには――」
「それなら。生きてくれって、そう、思ってろ」
 肩はそのままで腕から手を離し、月人は、少年の長い前髪を掻き上げた。信じられないと言うように大きく見開かれた目は涙を溜めて一層大きく見えた。深い海底のような、黒に近い青色をしている。
 少年が、絶叫した。
 正直なところ、ああ死ぬかな俺、と、月人も思わないではなかった。
 邪眼は、死ももたらす。だが正確には、持ち主の思った通りに相手を行動させる力を持つ。だから別名は、「覇者の瞳」。一睨みで幾千の勇者を屈服させることも叶う、そんな代物だ。
 それをこの少年は、死を望んでいたのか誰もを敵と見做し死ねばいいと思っていたのか、死だけをもたらしていたのだろう。そうでなくても邪眼の持ち主は、些細な憎しみさえ人を動かしてしまい、早晩狂い死にすることが多いと聞く。
 もっともそれらは全て、師匠の持っていた得体の知れない本から得た知識で、一般的にはやはり凶事をもたらすものであり、架空の存在とされているだろう。
 もちろん、少年の思い込みということもありうる。偶然が重なり、どこかで聞いた邪眼を持っていると思い込んだとも、考えられる。
 死ぬかな、と覚悟さえか決めかけていた月人はだが、しばらく待っても何も起こらず、せめてもと思ったのか、力いっぱい目を閉じた少年を見て、唇をほころばせた。
 どちらが当たったかは知らないが、賭けには勝ったらしい。
「少年、目をあけろ。俺は生きてるぞ。死にたくもない。邪眼ってのはあれだろ、自殺させるんであって、事故に遭うとかそういうのじゃないだろ?」
 少年は、声も出さずに泣いた。大きな眼からぼろぼろと涙をこぼす。月人は、そんな少年を抱きしめて、好きなだけ泣かせることにした。
 とりあえず、寝るのも風呂も後回しだなあと、思って苦笑した。
 ――師匠。やっぱりこれ、運命ってことにするよ。

「おー咲穂さまー」
 両手放しに歓迎したのだが、まじまじと顔を見られて、溜息をつかれてしまった。
 太陽も頂点に昇ろうというこの時刻に、月人の棲家は、大掃除の最中かのように荒れていた。見知らぬ人物の登場に、先ほどまで月人の傍らに陣取っていた少年は、素早くソファーの陰に避難してしまった。
 部屋をじろりと見回し、咲穂は、腕組みをした。片手には、朝に月人が渡した薬草の入っていたカバンを持っている。
「今度は何、始めたわけ?」
「始めたって言うか。ほら、拾いもの。そう、それでちょっと頼みたいことがあるんだ」
「…何?」
「いやさあ、こいつ、追われてるらしくって。相手方のこと探ってくれない?」
「…………髪、濡れてるね」
 咲穂は、ぼそりと、無表情に言葉をこぼした。
 視線の先には、ソファーを盾のようにしてこちらを窺う少年。その様は、小動物のようだ。
 ブラインドを下ろして照明を絞っているこの部屋でよく気付いたものだと思ったが、少年を見て言ったのではなく、月人を見てのことかもしれない。
「風呂で丸洗いしたからな」
「……まだ子供よ?」
「見りゃ判る」
「変態、ろくでなし! まさかそんな奴とは思わなかった!」
「うわっ、何で?! 馬鹿、やめろっ」
 手にしたカバンで叩かれる。丈夫なつくりだけに、痛い。
 それでもまさか年下の女の子に手を上げるわけにもいかず、大人しく叩かれていると不意に攻撃が止んだ。何事かと恐る恐る目を開けると、ソファーの陰から出てきた少年が、懸命に咲穂にしがみついていた。
 ああもうと、カバンを月人に押し付けて、咲穂は手を離した。代わって、少年の頭を撫でる。
「ごめんね、驚かせた? 本気で殴ったわけじゃないから。――ねえ、どうしてこんなところで色眼鏡かけてるの?」
 咲穂と向かい合った少年は、月人の予備のゴーグルをかけたまま、ふいと横を向いてしまう。
 困ったように、咲穂は月人を見た。
「ちょいとばかし、対人恐怖症のきらいがあってな。酷いところにいたらしくて、知ってることも少ない。星火、こいつは俺の妹分だ。咲穂」
「セイカ? どんな字?」
「星の火。俺が月だからな」
「そ。よろしく、星火君」
 短く納得して、咲穂は年少の少年に笑いかけた。そうして、月人を見遣る。
「ねえ、月人?」
「うん?」
「何もなかったってことでいいのね?」
「何が哀しくて、男に手を出すんだ。それくらいならまだ、お前に手を出す」
「へー、死にたいんだ?」
 にっこりと微笑んで、咲穂が拳を握り締める。月人は、大袈裟に両手を上げた。
 月人が咲穂と話している間に、いくらか慣れたのか、きょときょとと、星火は二人を見比べているようだった。
 そうして、じっと月人を見上げる。しかし月人が見ると、ふいと目を逸らしてしまう。やはりまだ、恐れは消えていないようだ。そんなに簡単なものでもないかと、月人はくちびるをかんだ。
 咲穂にどうやって事情を説明するかなと考えて、片頬を掻く。探ってもらうも何も、話さなければ始まらない。
 うーん、と唸っていると、星火の腹が鳴った。朝食をとってから、そこそこ経っている。怯えるように身をすくめた星火を挟み、月人は、咲穂と目を見交わし、殊更に笑顔を作った。
「昼時だな、先に飯にするか。咲穂、食うだろ?」
「うん。星火くん、料理作るのと部屋片付けるの、どっちがいい?」
「何その選択肢」
「部屋、このままにするつもり?」
 じろりと、咲穂に睨みつけられる。部屋の中は、星火に色々と見せるためにあちこちひっくり返して、確かに、強盗が家捜しでもした後かのように乱れている。
 星火は、返事を待つ先穂に応えず、ぎゅうと月人にしがみついた。咲穂が、苦笑する。
「わかった。じゃあ、おいしいの作る。ちゃんと片付けてよ?」
「ああ、わかってるって」
 それぞれにやることを決めて、昼食も済ませると、星火は月人の服裾を掴んだまま、舟をこぎ始める。月人は、眠り込んだ少年をそっと抱え、隣室の寝台に横たえた。
 咲穂の元に戻ったときには、ずっと浮かべていた笑みが消えている。
「あいつ、いくつに見えた?」
 こちらも険しいかおをしていた咲穂が、一層顔をしかめた。
「七歳とか八歳とか、そのあたりと思ってた。何歳?」
「はっきりとは判らないらしいけど、十二」
「全然、栄養足りてないね。どこから連れてきたの。わざわざ貧民街の子を、拾ってくるとは思えないんだけど?」
 残念ながら、ろくに食事も取れない人がいるのは現実だ。この町は地理にも気候にも恵まれているが、それでも貧民街と呼ばれる地所はある。
 大人も子供も例外はなく、子供の方が哀れではあるが、だからといって月人も咲穂も、それらに手を差し伸べられるほどの余裕は持てずにいる。きりがない、とも言える。
 月人は、沸かしていた湯で蜂蜜を割り、レモンの果汁を絞って入れた。それをテーブルに並べ、酒精の高い酒を注ぎ入れる。咲穂の分は少なめに。
「素面じゃできない話?」
「そうでもないんだけどな。ただ――お前、邪眼って知ってるか?」
 カップを受け取り、咲穂は、両手で抱え込んだ。そのまま、湯気の向こうで訝しげに眉をひそめる。深緑の瞳が何かを思い起こすように遠くを見て、真っ直ぐに月人に戻る。
 咲穂は、月人の赤い瞳を、何の躊躇いもなく見つめられる。
「ひと睨みで人を殺すってやつでしょ? 月人も、間違われたって言ってなかった?」
「ああ。でもそんなまがい物じゃなく、本物があるって言って、お前、信じるか?」
 こくりと、咲穂は液体を口にした。思っていたよりも酒が強かったのか、顔をしかめ、視線を戻す。
「言ってみて。聞く前から笑い飛ばすなんてこと、しないよ」
 頷いて、月人もカップを呷った。
「俺も、真偽は知らん。問題なのは、星火がそうと信じきってるってことだ。あいつ、なかなか俺の目を見ようとしなかったんだぜ。こわいからじゃなくて、俺を殺したくないから」
「それで、あの眼鏡?」
「ああ。本当の邪眼なら、気休めにしかならねーだろうがな。でも邪眼ってのは、睨んだら殺すんじゃなくて、殺したい、死ねばいいって、そう思って初めて動くらしい。それなら、気休めも力になるかもしれない」
「確認する方法はないの?」
 一杯目を空けて、月人は、二杯目を注いだ。今度は割らず、生のまま。
 そうして、わざと明るく、咲穂を見た。
「どうやって? あいつが嫌うようなことをやろうか? あいつが憎みそうな奴を連れてこようか? ――で。その後あいつは、どうなる?」
 気まずそうにコップを傾けた咲穂に対して、手を振る。
「責めてるわけじゃない。言ったろ、問題は、本当かどうかじゃない。どうやったら、あいつが喜んで生きていけるかどうかだ」
「…あの子、かなり月人になついてるよね?」
「ああ」
「知り合ってそんなに時間、経ってないはずよね。だって、月人が出て行ったのって」
「会ったのは昨日だ。だから、今でようやく丸一日くらいか?」
 咲穂が、難しいかおをする。それを受けて、月人も頷いた。
「人懐っこいよな。素直というか。怯えてるわりに、お前にだって、多分俺が親しいってだけで警戒を解いてる」
「言いたくないけど」
「良い奴ほど、馬鹿を見る。素直な子供なんて、どれだけ傷つけられるか。いや、下手したら生き残れない。そう言いたいんだろ?」
 返事はないが、悔しそうな表情こそが答えている。
 咲穂はかなり恵まれた生活をしている部類に入るが、それでも、これまでどれだけの裏切りを目にし、その身に受けてきたか知れない。月人に至っては、今でこそいい加減のお気楽お天気男に見えなくもないが、今でもまだ、人生の半分ほどを、笑うことも泣くこともなく過ごしてきている。
 そんな世界で、あの少年は、生きていけるだろうか。大きすぎる枷を背負い、笑えるだろうか。
 月人は、蓋をしていた己の記憶を追い払い、三杯目を注いだ。
「あのさ。お前を巻き込むのにはひとつ、下心があるんだ」
「何よ」
「真面目な話。それでもって、ろくでもない話」
 咲穂が、冷たい視線を装って見つめてくる。そんなに見られたら穴が開くって、という軽口も、今度ばかりは飛び出さない。
「俺に何かあったら、星火、頼むな」
 仮面めいた顔の下で、感情が揺れ動いているのが判る。ここで冗談、と口にすれば、それがどれだけ強張った口調でも、咲穂は信じただろう。信じようと、しただろう。
 しかし月人は、何も言わずに返事を待った。
「――ねえ。私たち、何なの。家族になってって、あの人、言ったじゃない。人は死ぬけど、悲しんだら、後は笑おうって、言ったじゃない」
「わがままくらい言わせてくれよ」
「あんたは、いつだってわがまま言い放題じゃない。今更深刻ぶってそんなこと、言い出さないでよ。おかしくって笑っちゃう」
 だが月人は、あのときから決めていた。いつかは必ず、師匠を取り戻すのだと。たとえそれが抜け殻でしかなく、月人の命と引き換えにしようとも。
 笑っちゃう、と言った咲穂の眼も顔も全く笑っておらず、今にも泣き出しそうに張り詰めていた。
「俺のためじゃなくて、星火のために。頼むよ」
「そう思うなら馬鹿な考えは捨てて。それでもやり抜くなら、あの子を今から捨ててきなさい。甘えないで」
 そう言ったきり黙り込んだ咲穂は、自分の食べた分だけを片付けると、一度も月人を見ることなく出て行った。
 残された月人は、深く、深く息を吐いた。











警告無用(仮)

「コウノヒカリ、行きますっ!」
 元気よく手を上げて、ヒカリは銃を手にした。壁に蝋石で書いただけの的に向かって撃ちながら、横に回転して転がる。回転しながら撃っている、と言った方が正しいだろうか。
 あと一弾で全弾撃ち尽くし、というところまで、全て的の中央に命中している。
 見守る観客(ギャラリー)たちは、息を呑んで見守っていた。ところが。
「ヒカル! 勝手に持ち出すなと言ってるだろう!」
 突然の窓からの怒鳴り声に狙いが逸れ、弾は壁を掠めて上空に消えていった。幸い、人や他の生き物のいない川に落ちたらしく、遅れて水音がした。
「あーっ」
 期せずして、あちこちで非難めいた、惜しむような声が上がる。それは、広場にいる者だけでなく、広場を挟んで建ち並ぶ二つの建物の中からも聞こえた。
 弾を外した当人、ヒカルも同様だ。
 眼を中心とした顔の大半を覆ってしまうゴーグルを外し、声の降ってきた左手三階の窓を振り仰ぐ。磨いた黒曜石のような瞳と上気した頬が、若い顔を更に幼く見せる。一つに束ねた長い黒髪も、色気よりも元気さを表す。
「もう少しだったのに! ひどい、課長!」
「備品で遊ぶなと言ってるだろう!」
「違います、これ、改造した空気銃! 実用化検討中の試作なんです!」
 三階分の距離を隔てているため、怒鳴り合いのようになってしまう。それでもヒカルの声には、どこか、楽しむような響きがあった。
「……っ、いいから行って来い、B-23地区、アシュレイはもう行った!」
「それ先に言ってください! 行って来ます!」
 文句を言ってから、上を仰ぎ見たまま敬礼をして見せ、空気銃をベルトに挟み込むと、壁に向かって走り出した。
「ヒカル!」
 投げ渡された補充用の弾丸の箱(ケース)を左手で受け取り、最後に左足で地面を踏み切ると、自分の身長ほどもある壁の向こうに消えた。
 集まっていた人々は、苦笑するような表情を見交わしてから、それぞれ自分の仕事や持ち場へと散って行く。
「入り口を使え、入り口を……」
 脱力して窓縁に寄りかかる中年男に、部屋に残っていた部下が追い討ちをかける。
「課長。ヒカルの奴、警棒も銃も置いて行ってますぜ」
「何?」
「あ、上着も」
「あの馬鹿……」
 頭を抱えて椅子に座り込む課長は、貧血を起こした小熊のようだった。

 コウノ・ヒカルは、少しだけ腹を立てていた。少しだけで、実のところ、そんなに機嫌は悪くない。
 事は、B-23地区で起こった、立てこもりに発展し損ねた、人質を取った強盗屋を引っ張っていったときに知らされた。
「移動? アスだけ? あたしは?」
「悪いな、俺の名前しかない。日頃の行いがよかったらしい」
「えーっ。アスの手柄はあたしの手柄なのに」
「なんだそりゃ」
 課長から相棒のアシュレイ・バースが人口の多い他地区へ移ると聞いて、ずるいっ、と叫んでいた。ここよりも忙しいんだぞと、事前に聞いていたらしい、優しい碧い瞳をした相棒は言うが、だからこそずるいのだと言い返す。
 ヒカルたちの属する部署は、三課、死傷者を発生させそうな揉め事全般を担当としている。この建物の三階の一角を本拠地としており、構成員は、今年で四十二になる課長を入れて十人弱といったところだ。
 他部署に比べれば、移動は多い。
 しかしそれは他部署へのもので、三課から直接地区を移ることは少ない。
 腕を買われての移動だと言われ、警邏隊に入って以来の相棒の移動を、ずるいと言いながらも、祝っている。
 警邏隊は、自治隊と双璧を為す警邏部隊だ。
 自治隊が地域の志願者を主とし、同志といった意識が強いのに比べ、警邏隊は全国組織であり、階級も整備されている。広範囲の組織力となると、断然警邏隊の方が優れており、副業を営む者が主の自治体と違い、とりあえずは暮らしていけるだけの給料も与えられる。戸籍や土地利用の管理も、警邏隊の一部署が行っている。
 双璧ではあるが互いに仲の悪いこの二つの組織の建物は、何故か隣り合って建てられていることが多い。非効率だとの声も多いのだが、未だ、改変されない。
 それはヒカルの勤務地も例外ではなく、ちょっとした憩いの場と化している空き地を間に挟み、北に警邏隊の三階建ての建物が、南には自治体の二階建ての建物があった。
「でもさ、アス。ここを離れちゃったら、ルイ姉さんはどうするの?」
 純真無垢な笑顔を装って、ヒカルが囁く。途端にアシュレイは、真っ赤になってヒカルに詰め寄った。
「おま、な…」
「どうするの?」
「……今から、いって来る」
 よろしい。と、にっこりと笑う。
 部屋の中がほぼ出払っていてよかったと、アシュレイが胸を撫で下ろす。
 「ルイ姉さん」は、正確にはルイス・カーネルソンといい、自治体に所属するパン屋の看板娘だ。いつからか付き合い始めた二人だが、ヒカルのように二つの隊を自由に行き交う者はまだ一部で、アシュレイもルイスも、周囲には気取られないように注意していた。
 しかしだからこそ、ヒカルが丁度いい相談相手だとルイスが判断するとは、アシュレイは考えつかなかったらしい。
 ヒカルは、相棒よりも一回り近く若い顔に、心からの笑みを浮かべた。
「本気でよかった。じゃあ、あたしが荷物整理しておくからいって来なよ」
「お、おう…」
「大丈夫。振られたら、ちゃんと慰めてあげるから」
「……」
 沈黙を背負い、いつになく深刻な顔をして出ていったアシュレイを見送ってから、相棒の机のものを適当に箱に詰めていくヒカルに、課長は不思議そうな目を向けた。
「どこに行ったんだ?」
「課長。ひょっとしたら、仲人頼まれるかもしれませんよ。あ、その前にゲンゾウさんたちに殴られるかも」
「はあ?」
 自治体の古株の名を挙げて、ヒカルは笑った。華があって気立てのいいルイスは、年齢を問わず、自治体や町の人気者(アイドル)なのだ。上司がとばっちりを喰らっても、おかしくはない。
 ルイスの生家がここにあるのだから、式はこちらで挙げることになるだろう。ルイスと話していれば、むしろ、早い求婚を望んでいたのは明らかだ。よほどのことがない限り、断られることはないだろう。ヒカルは、それらを自分のことのように喜んだ。
 相棒と友人が好きなこともあるが、自治隊員と警邏隊員の結婚は、父と母を思わせた。
 ヒカルの両親も、アシュレイたちと同じだった。ヒカルを生んでも自治隊を辞めなかった母は、独断で父、つまり警邏隊と協力体制をとって――二人一緒に殉職してしまったが。
「ヒカル、アシュレイの後任ことだがな」
「はい」
 喜びから、連想して過去を思い出しかけていたヒカルは、首を振って課長に向いた。
 小太りの課長が、まだ太っていなかった頃。つまりは十年ほど前のことになるのだが、そのとき、課長は父の同僚だったらしい。アシュレイのことを知れば、同じ連想をたどるかもしれなかった。
 課長は、徐々に薄くなってきた頭を無造作に掻き毟り、思い直したように、そっと優しく撫でた。
「あー、その、なんだ。今は、ちょっといろいろと動かせないからだな」
「ここに空いてる人がいるなんて思ってませんよ。まさか、課長の現場復帰もないでしょう?」
「俺は今でも現役だぞ」
 その言葉に間違いはないが、役職付は、どうしても書類整理や全体指揮の方に時間を取られる。現場に出るといっても、平の者よりはずっと回数が落ちる。二人一組が基本の現場において、常に遊撃員(イレギュラー)の立場が基本だ。
 小さく苦笑すると、ヒカルは、わかってますよ、となだめにかかった。
「……まあいい。それでだ。お前には、新人と組んでもらいたい」
「わかりました」
 ヒカルはまだ十八歳だが、両親を亡くした四年後の九年前には、採用試験を受けて正式に任官されている。見掛けよりもずっと、年季(キャリア)はある。
 それなのに課長が躊躇うのは、他地区にいた者の移動でも大なり小なりあるがまったくの新人は特に、ヒカルと組まされると、女の上に十代という事実に愕然とし、侮蔑の言葉を吐いたりして厄介なのだ。だからこの三課では、新入りは、余裕があればまずは他の者と組ませて先にヒカルの実力を知らしめるのが常になっている。
 しかし、余裕がないのであれば仕方がない。
 それは課長もわかっているだろうのに、何故か顔色が晴れない。
「何か問題でも?」
「ああ…いや、俺も聞いた話なんだがな。その新人、異例の任官らしいんだ」
「え、ってことは、あの『王子様』ですか?」
「……当りだ」
 王子様、というありがた迷惑のようなあだ名を冠された新人は、十四歳で上官採用試験を突破し、しかし二年後には、思っていたものと違うと言って中官採用試験を受け直し、更に二年後、下官採用試験を受けたという噂の人物だ。あだ名の由来は、軟弱に見える外見と我を通す性格によるものらしい。
 三度目も受かったとは聞いていたが、まさかここに配属されるとは思っていなかった。
「あたしと同い年、ですよね? たしか」
「ああ」
「でも、現場経験はない、と。」
「いや、少しはしてるだろう。中官採用は役付きからとはいえ、ゼロってことはないだろう」
「だろうって、配属されるなら書類、見たら判るじゃないですか」
 そこで、課長は眼を泳がせた。いや、うん、まあ、と意味のない言葉を呟き、胡乱そうなヒカルの視線にあい、慌てて目を逸らす。
 怪しいと、睨みつける。
「か・ちょ・う? 何隠してるんです?」
 いやいや、と、目を逸らし続けて戻らない。ヒカルは、それならとにっこりと微笑んだ。
「セシリアさんに、課長が意地悪するって密告しておきましょう」
「うわ、やめてくれ! 吐く、吐くから!」
「ああ、そうですか?」
 職場結婚した課長の年下の妻は、母の学校の後輩でもあったらしい。憧れの先輩の娘が親を亡くしてからというもの、随分と親切にしてもらっている。その贔屓ぶりは、ヒカルと夫の言い分では、ほぼ確実にヒカルの言を信じることにも顕著に表れている。
 以前、ヒカルの曖昧な言葉とセシリアの勘違いで、ヒカルが職場で性的な嫌がらせを受けているのに夫は何もしていないと信じ込んだときの騒動を思い出したのか、課長の肉付きのいい顔は、はっきりと青ざめていた。
「……噂は聞いてるだろう。問題が多すぎて、どこも嫌がってるんだ。それでどうにも、こっちに回ってきそうな気配はあるんだが…ヒカル、お前が厭なら……」
「裏工作はやめてください。大体、人が入らなかったら、あたし一人じゃないですか。毎回課長を引っ張っていくわけにもいかないんだし、居残りで書類整理なんて厭です」
「…だがなあ。どうにも、お前、眼の敵にされてそうなんだよ」
「はい?」
「大体、採用試験受けるのは基礎学校と予備校の卒業が条件だから、十六やそこらからになるだろ」
 基礎学校は、特には年齢を定めないが、一般的には六、七歳から通うようになる。基本必要年数は六年間ある。予備校に入るにはそこの卒業が必須で、更に二年。順当に段階を踏めば、そんなところだ。
 だから、件の『王子様』がその年齢で試験に受かったということは、学校に通い出すのが早かったか、必要なことを先に詰め込んで段階をとばしたということだろう。ちなみにヒカルは、早くに通い始めて六年分を二年で叩き込んだ。
 今更何を当たり前のことを、と頷いていると、課長はいよいよ顔をしかめた。
「わからんか?」
「ちょっと珍しいですね。しかも、上官採用試験なんて」
「お前は、それも八歳で受かっただろう」
「そうですけど?」
 三種全てを受けて、下官採用試験以外のふたつに合格している。それぞれに必要とされる要素が違うため、体力重視の下官は、無理だったのだ。中官で任官を受けたヒカルは、だから本来は役付きだったのだが、降格されて今に至る。
 降格理由は、ある事件の犯人を逃した責任を取るためとなっている。
「…何故、ここまで言って判らん」
「え? ここまでって…あ。もしかして、嫉妬か何か、されてます?」
「ああ」
 疲れたかおをする課長に、ヒカルは、ああなるほど、と肯いている。悪意や殺気には鋭いつもりだが、目の当たりにした場合であって、それを発している当人がいなければぴんとこない。
 だからこいつは平になってよかったんだ、と思いながらも、中年男は、孤独に頭を抱えた。それはそうなのだが、何の因果で自分の配下に回ってきたのか。
 そんな上司の心情をわかっていないのか、そうかあ、と肯いていた部下は、顔を上げるとにこりと笑みを浮かべた。
「まあ来たら、そのときはそのときですね。妨害はしないでくださいよ。そのせいで誰も回ってこなかったら、課長には現場に出ながら総指揮と書類仕事をしてもらいますからね」
「無茶言うなよ……」
 本気だなと、密かに冷や汗をかく、三課課長だった。

「はじめまして、コウノヒカリです。よろしく」
「……よろしく」
 恐ろしく棒読みの言葉に、ヒカリは、にぃっこりと笑みを上乗せした。
 朝、他の同僚たちが既に出払った部屋で紹介されたのは、アシュレイが移動して一週間ほどが経ってのことだった。
 一部、氷の王子様などとも囁かれる彼は、「美」青年との冠詞をつけたくもなる容姿をしていた。だがヒカリは、度量の狭い奴、と、第一印象を決め込んだ。
「あなたの机そこだから。知ってると思うけど、通信機は常時着用、電源は常に入れておくように。質問と不満は、時と場を選びながら早めに打ち明けてね」
 そう言って、ヒカルは青年の向かいの自分の席に腰を落とした。立ったままの青年は、仏頂面のままヒカルを見下ろしている。
 ヒカルは、その視線を感じながら気にせず、笑顔で青年を見た。
「なんて呼べばいい?」
「……何?」
「聞こえなかった? クルスユキだよね、どう呼べばいい? ユキでいい?」  
「どうとでも」
「そ。じゃあユキ、親睦を深めるついでに署内の案内でもしようか」
 そう言って、座ったばかりの椅子から立ち上がる。
「課長、ちょっと出てますねー」
 冷や汗と格闘しながら様子を窺っていた上司に告げて、ヒカルは身軽に立ち上がった。
「まあ、署内なんて似たり寄ったりだけどねー。一般の人も来るから、ちゃんと札も出てるし」
 言いながら潜り抜けた三課の出入り口の上には、達筆ではっきりと「捜査三課」と書かれた小さな看板がかかっている。
 三課と同じ階にあるのは、組織犯罪を主に扱う二課と知能犯罪対策の四課。はっきり言って、二課から四課までは共同作業が多い。実働に特化したのが三課で、二課と四課の立てた計画で三課の者が動く、ということもしばしばだ。
 対して、一課と受付が一階にある。
 一課は治安対策や防犯などで、地域の相談所といった趣が強い。受付は、持ち込まれた用件を一通り聞き、各課に仕事を割り振る。他に、人事や建物全体などの管理も行っており、受付と言いながら実態は、事務所の本部と言ったところ。
 最上階の三階は、会議室や仮眠室、資料室にロッカールームなどが並ぶ。
 地下もあり、ここはシャワールームと研究室が割り振られている。
「よお、ヒカル…と、誰だ坊主?」
 各部屋を歩き回りついでに挨拶も繰り返していったヒカルは、暗い地下の空間で、今日何度目かになる疑問に笑顔で答えた。ユキ当人は、無表情か仏頂面か。
「うちの新顔のクルス」
「ふん?」
「ユキ、この人はトウマ主任。備品を壊したりしたら、まずここに持ち込まれるから、おだてといて損はないよ」
「おいおい、そんな紹介かよ」
 笑うと、悪人面になる。その定評に違わず、トウマは、思わず職務質問をかけなければならない気にさせる顔を見せた。
 あははは、と笑い声を上げながら、とにかく物の多い室内――弾詰まりでも起こしたのか分解されたまま放置されている銃や切り裂かれてしまった防弾チョッキ、開発商品なのか黒い何かの詰まった壜を始め――を見回して、ヒカルは、実験室と張り紙のされた、入ってきたのとは逆の扉に視線を向けた。
「レックスは?」
「ああ、あいつならおつかいだ。ちっと部品が足りんでな」
「なんだ残念。せっかくだから、ご飯一緒しようかと思ったのに」
 言いながら、ヒカルはもう一度、実験室の扉を見つめた。その向こうには、時折人影が映る。
「解析、まだ終わらないの?」
「ああ。まあ、そのうち終わるだろ。終わってくれにゃ、俺が外に引っ張り出されてかなわん」
「いいことじゃない。たまには日の光浴びないと、カビ生えるよ」
「はん」
 ふてくされたように、あるいは何かを企むように、視線を逸らす。
 平常通りにしていると年齢の二十七よりも五つ六つ老けて見え、笑うと若返っても一層の悪人面。トウマが権力に沿った研究職を選んだのは、ある種卓見だったかもしれない。一般職に就いていれば、常に、痛くもない腹を探られそうだ。
 もっとも、彼ならそのくらい、軽やかにかわしてのけるのだろうが。
 ヒカルは、そんなことを考えながら部屋を後にした。ユキが、無言でそれに従う。
 顔を合わせてからというもの、ユキはほぼ無言で通している。訊いたことには必要最小限の答えを返し、自己紹介すらろくに口にしない。単にそういう性格なのかそれとも実は嫌がらせなのかとも疑うが、独りも黙秘の相手も慣れているヒカルは、構いはしなかった。
「さて、一通り回ったし。何か訊きたいこと、ある? なかったら、散歩…じゃなくって、見回りかねて外に出るけど。お昼も外で食べようか」











合わせ鏡の謀(仮)

 戦禍の炎が見えた。
 怒り猛った獣のように、赤い化け物は刻一刻と陣地を広げていく。
 ――ああ、私は、死ぬのか。
 痛みで朦朧とした頭では、それだけ思い浮かべるのでも精一杯だった。
 霞みかけの目を上向けると、かろうじて、空が目に映った。そこに青空はなく、低く垂れ込めた黒雲に地上の炎が映って巨大な生き物のようにうねり、そこを時折、翼の生えた異形が飛び交う。
 ――魔物。
 怯えが浮かぶ。次いで、死にかかってもまだ恐いかと、自嘲がこみ上げてきた。
「オマエ」
 不意に降下した異形が、話しかけてきた。割れ鐘のような声で、人の言葉には慣れていないようだった。ひどく大きな体をしている。
「イキタイカ」
「あ……まえ、だ、ろ…」
「イキタイカ」
「…ああ」
 聞き取れなかったのか意味がわからなかったのか、繰り返される声からは何も読み取れず、半ば投げやりに、答えた。
 魔物の歪な口が、まくれ上がった。
「ケイヤクヲ」
「…は、あ?」
「タマシイ、ヲ、ワケル、ケイヤク。イキラレル」
 恐ろしく、意味が取りにくい。発音が不明瞭なせいなのか、いよいよ意識が保てなくなってきたのか。

 ――俺は、何て答えたんだったろう?

「…きて、起きて下さい」
 できうる限りの小声なのか、囁くような声量と、ぴたりと張り付くような人の体があった。
「夜這いなら他当たってくれよ王女サマ?」
「ちっ、違いっ、そんっ………!」
「寝させてくれ。あんたと違って俺らは交代で夜番もするんだ。眠らにゃ保たん」
「お願いです、話を聞いてください、あなたにも関わりのあることなんです! だから…ってコラ、寝るなっ! 起きろ! 起きろーっ!!」
 …夜闇に絶叫が響き渡り、ランはようやく覚醒に至った。そしてそれは、逃亡劇の始まりでもあった。
「ほら逃げて!」
「はあ? なんで」
「あんたに襲われたって訴えるわよっ?! 嫁ぐ途中の王女襲ったなんてあんた、死刑確実なんだからね!」
「んな無茶な!」
「ほら皆起きたわよっ」
 かくしてランは、張り付いて離れない疫病神の具現を抱え、隣で寝ていた相棒を叩き起こし、逃走する羽目になった。畜生愛されてるぜ、と呟くが、普通、疫病神なんぞに好かれたいと思う者は皆無だ。

 ランとリドルは、そのとき職を探していた。
 職探しといっても、幅は広い。ただ糊口を凌げればいいものから、誇れる仕事がしたい、いやいや趣味を仕事にしたいんだ、家の近所ならどこだって、美人がいる職場がいいなあと、重視する点は千差万別だ。
 二人の探すものは、どこの国でも構わないから国の上層部に食い込む足がかりがある、手に職なんぞつけた覚えはないから戦闘か短期の努力次第でどうにかなるもの、という二点と、同じ職場ではなくてもいいが互いが遠距離に置かれない、という前提が満たされたものだった。
 これは難しい、と思いきや、そのとき訪れた国では丁度、国を挙げての武力大会なるものが開催されていた。これは、純粋に武力を競い合うものらしいのだがその反面、城の警備兵に雇われる有力手段でもあるらしい。出場しない手はない。
 当日の第一試合開始までは受け付けるという出場登録所に試合日前日に駆け込み、それぞれに剣技の部に登録した。登録部門は、体技(肉弾戦)、剣技(といいつつ弓道その他諸々の武器を使ったものを全て含む)、魔技(魔導一般)、魔剣技(武器と魔導の両方を使う)の四部門に分かれていた。
 本当は魔導も使えるのだが、何も、持っている手札を全てさらし出す必要はない。
「いいか、押さえて行けよ、押さえて。上位一桁に入れば十分なんだからな?」
「わーってるって、しつこいなー。小姑」
「どこで覚えるんだそんな言葉」
 結果、ランは準々決勝敗退、リドルは、準決勝敗退。
「…なあリディ、決勝進出までに思い出したのは偉いが、なんだあの負け方」
「駄目だったか?」
「手抜きまる判りだろ?! 最後の最後で猿芝居しやがって! 大方お前、あの時になって負けなきゃならんのをようやく思い出したんだろう。対戦相手、近衛隊長だぞ! 目ぇつけられたらろくなことないのに何やってんだお前って奴は!?」
 ランは大いにわめいたが、終わってしまったことはどうしようもない。
 目論見通りに城勤めを勧誘され、採用試験と称した妖魔相手の実践でランとリドルのコンビネーションを認められ、一段飛ばしに近衛隊への採用が決定した。密かに冷や汗をかくランはともかく、何も考えていないだろうリドルを見る隊長の視線は、実に冷ややかだった。笑顔なだけに際立つ。
 そして新米の二人は、以前から決まっていた末姫の婚礼行列の警護のため、一月も滞在していない国を後にしたのだった。
 その時点で現状を想像できたら、遠見で名高い伝説のカール・エンドルフィンも真っ青の予見者だ。あるいは、すばらしき誇大妄想者。
「さーて、事情をお聞かせ願いましょうか、姫殿下? いきなり逃げろなどと、いつの間にか張り付いていたお子様に言われる覚えは、わたくしめには、どこをどう思い出しても見当たらないのですがあなた様は如何で御座いましょう?」
「い、嫌味ったらしく言わなくってもわかってるわよっ」
 一晩、とは言っても隊列を逃げ出した時点で真夜中だったから実質は数時間、走りに走って目晦ましも多種多様に仕掛け、三人は、冬場は熊の安眠地のような洞穴に入り込んでいた。唯一と思われる入り口には、気休め程度の護符を仕掛けている。
 リドルは何やら面白そうに眺めているが、ランの視線に容赦はない。
 ランの容貌は、見栄えがする。華があるというわけではないのだが、顔や体を構成する要素がそれぞれに調和を伴って整っているため、地味に美形だ。美形なだけに、身なりを整えると、とてつもなく人目を惹く男にも変化する。今は無骨な近衛隊の防具とローブを身に着けているが、だからといって美形が怒った際の威圧が軽減されてもいない。
 一方のリドルは、いつも笑ったような顔をしている。たれ目のせいかもしれない。農場を走り回る子供がそのまま成長したような感じで、肌も若干、日焼けのためか黒い。こちらも防具とローブを着込んでいるが、見習い兵士の印象が強かった。ランとは同じ年齢ということになっているのだが、並んでいればまず間違いなく、年少に見られる。ランが老けてるんだ、と嘯いては、額をぺしりと叩かれている。
「それでは、何をご存知なのか、凡愚のわたくしめらにもお教え願えませんでしょうか、姫殿下?」
 二人の視線の先で小さくなっているのは、逃げ回ったために飾りつけも乱れてしまっているが、蝶よ花よと育てられた姫だ。一般的には末姫と呼ばれるが、他には姉が二人と弟が一人いる。
 いくらか汚れてしまった白い上品なローブを頭から被ったまま、少女は、目を潤ませた。
 さほど美人ではないが可愛らしく、気さくな微笑みに、国民からの絶大なる支持を受けている。例えば、この状況が国の農夫にでも目撃されれば、まず間違いなくランとリドルは袋叩きにあうに違いない。
 しかしランは、それを冷然と見つめ返した。折角うまく事が進んでいたというのに、この馬鹿娘のおかげでパーだ。むしろ、負債を喰らっている。
「わ、私だって、ここまで事を荒立てるつもりはなかったわ! だからはじめは、小声で呼びかけたじゃない!」
「はあ?」
「はあ、って、ちゃんと丁寧に呼びかけたわ! そりゃあ、はしたないことだけど、でもそれを勝手に勘違いして、よ、夜這いは他に行けって、言ったのあなたじゃない!」
「は? 俺?」
 怪訝そうなランに、少女は、いきり立って立ち上がり――狭い横穴に頭を打ち付け、声もなく蹲った。リドルが、あーあー、と言いながら、ローブの上から、小さな頭をさすってやる。
 ランは、駆け寄ろうともせずに首を傾げた。
「出し抜けに逃げろってのしか覚えてないんだけど?」
「なっ、何言うのよっ、ちゃんと受け答えしてたじゃないっ」
「それはさー、仕方ないって。ランは、ものっすごく寝起き悪いもん。この間なんてさー、起こせって言われて起こしたら、こぶし一発で『世界が滅びても寝るって決めてるんだ』とか言って、日が高くなってから起きて、『起こしてくれって言っただろ』だもんなあ。殴り返してやった」
「え、ええーっ…?」
「寝起き悪いって言うか、寝ぼけてるのかどうかがよくわかんないんだよなー。ちゃんと喋るし。寝ながら朝飯食ってたこともあるんだぜ」
 だから今日のはまだまし、と、軽く締めくくる。少女は唖然として痛みも忘れ、ランは自覚はないらしく、ただ苦いかおをしている。
「俺、起きたら即頭フル回転できるぞ?」
「うん、起きたらね」
 あっさりと、リドルが頷く。少女はますます、二人を凝視した。そうして――深く、溜息をつく。
「人選間違えた。でも選択の余地なんて無かったし。だけど何かこれ、人としてどうかしらって問題の気もするわ」
「勝手に失礼なこと呟くな、どこに問題があったとしても、そもそもの原因と止めを刺したのはお前だ。さあ、何事か懇切丁寧にお教え願えるか?」
「う、あ…ご、ごめんなさい…」
 しょんぼりと、少女が頭を下げる。
 ランの視線は相変わらず厳しいが、リドルがそこに割り入った。
「もういいだろ、いじめすぎ。おれ、いい加減眠いし。さっさとなんとかして、寝ようよ」
 あっけらかんと言い放つ。ランは暗がりで、肩をすくめた。
 ようやく場が仕切り直され、三人はそれぞれにくつろぎやすい体勢を取り直した。示し合わせたわけでもないのだが揃った動きに、少女がくすりと笑い、ランに睨みつけられる。それを、リドルがたしなめた。
 少女は、フードを被ったまま小さな体を更に小さくするように、足を抱えて引き寄せた。
「私…本当は、王女じゃないんです」
 十代半ばだろう少女は、そう言って、かすかに震える手で白いフードを持ち上げた。
 真っ直ぐに二人を見つめる瞳は、銀の混じる海の色。乱れた髪は、陽にきらめく麦の色をしている。卵型の輪郭の中には、とりあえずは美人と呼べる眉目が収まっている。桜色の唇は、少し上向いていて可愛らしい。
 もちろんそれらを、この暗がりの中で見分けられるわけではない。人ごみの中でさえ目立つリドルの燃え立つような赤毛も、金を溶かしたような色合いのランの髪色も、ろくに見分けられはしないのだ。
 二人が見たのは、恒例の、朝夕のバルコニーでの王族の謁見や、出陣式でのことだ。あるいは、人々の噂も補強しているかもしれない。
 とにかくそこにあるのは、ホーランドの末姫、エリザベスの姿だった。
 しかし少女は、泣き出しそうな笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、嘘をついていました。私はただの、ただの…両親の顔さえ知らない、どこで死んだっておかしくなかった子供なんです。姫様は……ご病気で、身罷られました」
「ミマカラレ、って、何?」
「死んだってことだよ、馬鹿」
「馬鹿言うな阿呆、馬鹿って言った方が馬鹿なんだぞ」
「じゃあお前は阿呆なのな」
「ちょっ、な、なんなんですか、話聞いてくださいっ」
 なみだ目で、少女は訴える。それなのに二人は、それぞれ馬鹿だとか阿呆だとか大馬鹿だとかじゃあ大阿呆、そんな言葉はない、じゃあたわけ、どこ語だそれ、と言い合っている。
 ランとリドルはほぼ同齢で、少女より少し上といった程度だろう。それなのにこれはなんだ、相手にしている年齢を十歳ほど間違えただろうかと、少女は呆然とした。というかこの人たちは、近衛兵になるくらいだから、王家への忠誠も試されたはずなのに全く怒りもしないというのはどういうことだ。
「も、もうわけわかんない…」
 瞬きをした拍子にこぼれた涙をぬぐいもせずに、少女は呟いた。
 突然その頭を、撫でられた。
 驚いて、リドルかと見上げると、どうも方向が違う。頑張って透かし見ると、つり目が見えた。
「頑張ったな」
「…っ、そんっ、いきな…っ、反則っ…!」
 涙が止まらない。悲しいのか気が抜けたのか嬉しいのか安堵したのか、何がなにやらわからないままに、驚くほどに大粒のしずくがこぼれ、少女は一生懸命に、それを止めようとした。
 それなのに、頭を撫でられているし逆方向からは背をさすられているしで、ますますひどくなる。離して、やめて、ともがいても、一向に叶えてはくれない。
 ランが再び口を開いたのは、よくわからないなりに感情が落ち着いたのか、どうにか少女の涙が収まってからのことだった。
「ちゃんと名乗ってなかったな。俺は、ランスロット」
「おれ、リードル」
「あんたは?」
 ごくごく自然に促され、ぽかんとしていると、ランに溜息をつかれた。
「名前。エリザベスは、別人のなんだろう? あんたは、何って呼べばいい」
「え…」
「言えないなら、いいけどな。影の名前は明かさないのが一般的だし」
 影というのは、影武者のことだ。少女は武者ではないが、身代わり用の代理人という点では同じだ。
 平兵士であれば知らないことだが、近衛兵だから知っているのだろうかと、少女はとりあえず納得しておくことにした。
「ありません、名前」
「ええっ?!」
 盛大に驚いたのはリドルで、ランの方は、これといった反応はない。ただ代わりに、口を開いた。
「どうする。エリザベスでいいならそう呼ぶし、他がいいなら、これを機にそう名乗ればいい」
「えっ、そんなころころ変えられるもんなの? 何そのやっすい扱い」
「俺たちにとっては、そんなに重要なものじゃねえよ。他人と区別がつきゃ十分。…まあ、それは極論だけど」
「えー、変なの」
 急な誘いに驚き悩みながら、意識の端で、ランとリドルの会話を妙だともとらえる。本当に、何者なのだろうこの二人は。頼っていいのかと、不安もよぎるが今更だ。
「あの、…リズって、呼んでもらえますか? ベス…姫様には、そう呼ばれていたから…」
 そう言ったところで、少女、リズは、話題の姫がもういないことを思い出して、瞳を潤ませた。それに気付いて、リズには見えないが、ランが厭そうなかおをした。
 そして急に、こぶしが素早く動く。リズの眼前を掠め、リドルの頭に容赦なく命中した。
「考えてるふりして寝るな。リズ、手短に事情を話してくれ。できたら、この馬鹿が理解できるように簡単に」
「は、はい!」
 反射的に、背筋が伸びる。馬鹿と言ったのに反応がないのは、それほどに眠いからだろうか。ランに小突かれながらも、リドルの体は揺れている。
 リズは、息を吸い込んだ。
「姫様が身罷られ…亡くなられて、国王様は…死を、利用しようと考えられたようなのです。姫様が嫁ぎ先で、殺されれば、攻め入る口実になります。サマンドラはヒース山脈を隔てた隣国とはいえ、いがみ合うことも多いですから。姫様の嫁入りは、和解策のひとつだったんです。亡くなったと言ったところで、嫌がって逃がしたんだろうと言われて、逆にホーランドが責められるでしょう。それならいっそ禍根を断ってしまおうと、決められたようです。姫様がサマンドラで殺されれば、人々は間違いなく、戦争を支持するでしょう。だから――私は、サマランドでの式の後に殺されます。あなたたちはそのとき、私を殺す役目を負わされ、姫を守りきれずに殉死したと見せかけて、殺されます」
「質問三つ。一、あんたはどうやってそれを知った? 二、何故俺たちに話そうとした? 三、これからどうしたい?」
 話したこと自体への質問は無く、我ながら理路整然とした説明からは程遠い自覚のあるリズは、それでも瞬時に質問を弾き出したランに、そうかこの人って頭がいいんだと、納得した。
「…姫様が亡くなられたときに、私、姫様が横たえられていた寝台の傍で、眠ってしまっていたんです。人の話し声で目が覚めたら、隣の部屋で王様がそう仰っていました。きっと、私がいるなんてご存じなかったんです」
「偶然、ねえ。二点目は?」
「戦争を起こしたくないんです。私、生まれたのはリーランドなんです」
 リーランドは、十数年前に滅ぼされた国だ。家臣の手引きと大量に投じられた魔物によって、国は大破した。王族が一人残らず殺し尽くされたのはもちろん、民人にも甚大な被害が出た。今は隣国に吸収される形で統治されているが、残ったリーランド国民は少ない。
 リズも、リーランドの戦災孤児だ。子供を亡くしたという小母さんに連れられ生き延びたのだが、彼女自身は途中で負った傷が元で、長くはもたなかった。長旅で、疲れてもいたのだろう。
 それからすぐにホーランドの孤児院に拾われ、リズ自身にリーランドでの記憶はほとんどない。ただ、戦渦の記憶だろう。赤黒い炎と飛翔する魔物は、今でも時折夢に見る。
「だから、阻止したくて…でも、誰にも助けてなんて言えなかった。姫様が亡くなられたのはごく一部の人しか知らないし、そのせいもあって、私もほとんど人前には出してもらえませんでした」
「俺たちにも降りかかることなら協力すると思った、わけか」
「お願いします! 私にできることだったら、なんでもします! お願いします。ホーランドを…護りたいんです」
 リズは、必死に頼み込んだ。ここで見捨てられれば、王女としての振る舞いや教養は躾けられているものの、護身術といったことは一向にたしなんでいない身だ。この森からさえ、一人では生きて出られるかわかったものではない。
 ランは、リドルを起こすのは諦めた。ゆらゆらと動いていた体が、鈍い音を立てて床にぶつかったが、目覚める気配は無い。
「俺たちが協力するとして、策はあるのか? そもそも、あんたは毎日バルコニーに顔を出してたはずだ。あそこで本当のことを訴えるなり、今ここでなんでもするって言うなら、自殺でもすればよかったんじゃないか?」
「…考え直してもらえないかと、思ったんです。私は、大変な恩義を受けているんです。覚えていないリーランドよりも余程、ホーランドが好きです。親のいない私を生かしてくれただけでなく、仕事を与えてくれて、振舞い方も、知識も、教えてくれました。だから、できるなら、思い直してほしかったんです」
「理想追っかけて時間切れってのは、そりゃ綺麗な話だな」
 冷たい言葉に、リズは、身を震わせた。恐れたわけではなく、怒りだった。
「駄目ですか?! 理想は、追いかけるためにあるんでしょう?! みんなが納得できるように、みんなが幸せになれるように、そう求めたら悪いんですか?! 私が死んで、それで問題が収まるなら、その剣を貸してください。死にます。だけど今でも、前でも、姫様がお亡くなりになった後で私が死ねば、嫁ぐのが厭だったからだって事にもできるんです!」
「なあ――何故他人のために、死ぬなんて言うんだ。姫も王も、ただあんたを利用しただけだろ。教育だって、目的のためだ。まっとうな取引だろう。礼を言う必要だってない」
 パン、と、音がした。
 リズの手のひらは、腫れ上がって熱を持ったように痛んだ。ランは、打たれた頬を押さえるでもなく平然としていたが、リズの目からは涙がこぼれていった。
「あんたに何がわかるのよ!」
 悔し涙だと、リズは思った。あの人たちは気高くて素晴らしいのに、自分には、それを伝えることができない。それが悔しくて、情けなかった。
「王族は、あんたたちが思うほど、不可侵じゃない。気まぐれな施しに、感動なんてするな。――寝ろ。この状態でまともな判断なんてできやしない。俺も、あんたも」
 そういって、ランはリズの返事も待たずに横になった。リズは無言で、距離を取って、ぼんやりと目を閉じた。眠るつもりは無かったのに、その一瞬で、意識は闇に飲まれていた。

「起きて」
 不意の耳元での声に、叫ぼうとしたが既に口は塞がれていた。
「奥、抜けられるから。出よう」
 わけもわからずに引き起こされ、立ち上がってからも引きずられるように手を引っ張られた。さすがにもう、口元の手は離れている。
「あ、あの、何が…?」
「ちょっとこっちの厄介事。ランが、入り口に罠だけ仕掛けてる」
「え、ええ?」
 熱心だなー陰険モヤシ、と聞こえた気がするのは本当だろうか。幻聴かもしれない。
 起き抜けでもどかしいほどに回らない思考は放棄して、リズは、できる限り早く走った。それでも、リドルは手加減して走っていると判り、情けなくなる。
 ゆるい角を曲がると、遠くに光が見えた。あれが、もうひとつの出入り口なのだろう。
「我慢して」
 え、何を、と思ったときには、リズはリドルの肩に担がれていた。わずかに年長とはいえほっそりとした体躯で、決して軽いとは言えないリズの体を、軽々と。片手は、無理な体勢になるにも拘らず、再度リズの口を塞いでいた。
 口が塞がれた理由は、すぐに理解できた。
「いや――っっっ!!」
 口が自由であれば、そのくらいは叫んだだろう。
 光の先は、崖だった。というか、崖の中腹に洞窟があったのだ。眼下には、朝露に潤った、眼に痛いほどの緑が広がる。
 枯れ木の山でないだけましかもしれないが、せめて、湖がよかった。しかしそれ以前に、冗談にならない高さ。木に受け止められれば辛うじて助かっても、下手をすれば墜落死。ロープでも垂らして下るというならまだしも、飛び降りるなど正気の沙汰ではない。
 だが、現実だ。
 恐怖のあまりに目を閉じることさえできず、リズは、重みを伴った浮遊感を感じながら、目を大きく見張って小さくなる洞窟を見つめていた。
 そこに、ひとつの人影が見えたかと思うと、躊躇うことなく飛んだ。ランなのだろうが、これまた狂っている。
 やがて、盛大に若い細枝を折りながら、それでも引っかき傷程度しか作ることなく、リドルは着地した。
 口から手が離され、肩から下ろされる。下ろされた先には、苔が生えていてひんやりとした。
「ええっ、なんで泣くの?! 泣くようなことした、おれ?」
 ぼろぼろと、リズの目から大粒の涙が零れ落ちた。
 慌てるリドルは、穏やかな朝の光の下で見ると改めて、幼く見えた。おろおろと右往左往している分だけ、その印象が強くなっているのかもしれない。
「何遊んでる、行くぞ。ったく、しつこいな陰険モヤシと筋肉ダルマ」
 頭を上げると、涼やかな顔に忌々しげな表情を浮かべたランが、あの高さを飛び降りたとは思えない態度で立っていた。そうして、リズの涙に気付き、ぎょっとしたかおになる。
「何やった?」
「ええええっ、おれ、何もしてないよ!」
「そか。じゃあ…リズ、あの依頼、取り消すなら今のうちだけどどうする」
「…はい?」
 よく呑み込めず、驚いてか涙は止まったものの、それを拭いもせずにぽかんと見上げるリズに、ランは苛立ったように言葉を重ねた。
「どうする」
「っ、お願い、します!」
「わかった。リディ」
「はーいはい」
 短く素っ気無い返事。次いで、またもや担ぎ上げられた。先ほどの荷物のような担ぎ方とは違い、半ば抱きしめられるような体勢で、思わず首にしがみつく。今度は口を塞がれていないが、悲鳴を上げる気力もない。
 リズを担いだりドルを前に、後ろをランが走る。滑るように流れていく景色が、途方もなく、現実味がない。ああもう何なの…と、リズは思った…ような気がする。
 茫然自失のリズに構わず、得体の知れない二人組みは、走っているとは思えない息遣いで言葉を交わしていた。
「早かったな、陰険モヤシ」
「だよねー。なんか、段々早くなってない? おれたちもしかして、ヤツラの野生を研ぎ澄ましてる? キョーカクンレンしちゃってる?」
「うわ、笑えねー」
「あ、もっと笑えないこと気付いた。罠、突破された。新記録?」
「げ」
 うんざり、と言うかのように顔をしかめるラン。あ、この人の眼、黒かと思たら青が入ってるんだ、と、リズは発見した。この際どうでもいい。
 しかし昨日も思ったが、リドルは常人離れしている。昨日今日と、小さな体で決して軽いとは言えないリズを担ぎ上げ、走っていても全く疲れを見せない。
 ランと、目が合った。途端に苦い顔になる。
「…まずい。そいつ、若い女だ」
「あ」
 不愉快なのか気まずいのか判らない間で沈黙され、不安なこと夥しいのだが、リズは口を開くこともできない。疾走しながら普通に会話のできる方が異様なのだ。もっともリズは、担がれているだけで走ってはいないのだが。
 束の間考え込んだランは、ふっと、遠くを見るように笑った。
「あのな。今追いかけて来てる奴らは、陰険モヤシと筋肉ダルマといってだな」
「ラーンー、それ名前じゃない」
「覚えてねえよ。とにかくだ。筋肉ダルマはただの馬鹿だからまあいいんだが、陰険モヤシが…陰険なんだ。人をいたぶるのが好きな奴なんだが、殊の外、若い女だと張り切るんだ…」
「捕まったら覚悟してねー。おれたち今、助けに行けるほどの余力ないからさ」
 到底聞き逃せる話ではないのだが、それで終わりとばかりに二人は口を閉じる。思わずしがみつく腕の力が抜けて、その分、リドルが落ち着いて強く抱きしめた。
 そのとき突然、岩が降ってきた。地面にめり込んでも、二人の背丈よりも高い。
「あー…どうする?」
「仕方ない、やるか。えーと、リズ。隠れてろ」
 間を置かず、投げ出される。動かない視界に動転してリズはまた泣きそうになったが、リドルもランも、構う素振りも見せず、気付けば、走って来た方を見据えて近衛隊の防具を外している。
「何で行く?」
「火はまずい。風も。氷はこの前やった。水でもいいけど、岩があるし、これを使わないテはないだろう?」
「どう?」
「埋めて、重し」
「りょーかい。じゃあおれ、行く?」
「頼む」
 一体何の話をしているのか、さっぱりわからない。半ば虚脱状態で座り込んでいたリズは、濃藍の瞳に見つめられ、思わずびくりとした。
「登れるか?」
「は、はい? 何に、ですか?」
「木。隠れろって言っただろ」
 でも、と言い返したかったのだが、じっと見つめられると、何だか反論する気も起こらない。のろのろと立ち上がるが、実際のところ、木登りは苦手ではない。リズは、「小猿」と呼ばれていたこともある。王女を誘って、こっそり木登りの手ほどきまでしたほどだ。
 そして、はっと気付いて叫ぶ。
「こっち、見ないでくださいよ!?」
「…暢気だなお前…」
 スカートを押さえて睨みつけると、呆れ顔が返って来た。確かにそんな状況でもなかったかもしれない、とリズが気付いたときには、ランは違う方向を見ていた。
 久々でなんとか枝に登り、生い茂った緑の間から、地面を見下ろす。
 やや離れたところにリドルが立ち、岩の手前にしてランがいる。二人とも、やってきた方向を見据えているといった様子でもない。ランなど地面に片膝をついて、完全に眼をつぶっている。
「あ、今気付いた」
「何だ?」
「おなかすいた。陰険モヤシどうにかしたら、ご飯食べよ? あーっ、もやしとか言ったら余計おなかすいた」
「なあリディ。ある地域では、断食の習慣があるらしい。人間、そう食べなくても生きられるもんだ」
「ええっ、何それ、なんで今そんなこと? ちょっ、不吉だから! やる気なくすから!」
 木の上で、リズは脱力した。暢気なのは誰だ。
 そうして、枝の上で伏せていると、リズは、幼い頃のことを思い出した。
 リーランドの国から助け出してくれた小母さんが亡くなると、リズは、孤児院に拾われた。そこは、王女の影武者育成を視野に入れて、女児を集めた場所だった。そのため、礼儀作法は勿論のこと、筋肉のつき方にも気を配った護身術の基礎なども叩き込まれた。
 だがリズは、指導者に空を仰がれるほどに、そちらの方面の才はなかった。体力はあるし俊敏さもそこそこなのだが、人と組み合うと、途端に失敗する。そのうち、怪我をするだけだから仕掛けようとするな、とにかくかわせ、逃げることだけに集中しろ、とまで言われたほどだ。
 ぎっしりと予定の詰め込まれた日々の中で、リズは、隙を見ては院に立っていた木によじ登っていた。院内では一人きりになれる空間は少なく、子供しか登れないような細い枝の先が、結構な期間、リズの隠れ家だった。
 王女と初めて喋ったのも、そこが縁だった。
 リズがうっかりと木の枝で転寝をしていたときに、王女が施設にやってきたのだ。勿論護衛を連れてのことだが、将来を考えての顔見せとねぎらいだ。院で育てられていた子らは全て、庭に集められていた。ただ一人、リズを除いて。
 自分を探す声で眼を覚ましたリズは、施設長から念を押されていた王女の来院をすっぽかしたことに気付き、慌てて駆けつけようとして、足を滑らせた。そうして、王女の目の前に墜落したのだった。
 笑いかけて、身を案じてくれた。
 成長して、瓜二つだとまで言われるようになったが、リズにはいつまでたっても、王女と自分が似ているとは思えずにいた。
「君たちも懲りずに、頑張りますねぇ。まぁ、このくらいの手応えのある方が、叩き潰したときが楽しいですからねぇ」
 ねっとりとした声に、リズの回想は破られた。
 聞いただけで、気が滅入るような体のどこかを掻き毟りたくなるような、耳を塞いでも皮膚からじとりと滲入してくるような口ぶり。内容も含めて、リズは、総身に鳥肌が立ったのを感じた。
 恐る恐る、半ば恐いもの見たさで首を伸ばすと、痩せこけた男が見えた。頭には灰色の蓬髪がべたりと張り付いているが、黒一色の服の上からでも、筋肉どころか肉すらついているのかが怪しく思える。陰険モヤシというのは、的を射ていると言うべきかまだまだ控えめだと言うべきか。
「ふふふふふ。さぁ、愉しませてもらいましょうか」
 厭だこれは覚悟なんてできない、と、リズは即断した。もし捕まったら舌でも噛み切って死にたい。
 上から見ているせいで顔がよく見えないのは、きっと幸運なことだ。そう考えながらリズは、必死になって息を潜めた。これは、存在を知られるのも厭だ。
 芝居がかったしぐさで広げた男の両手に、炎がともった。詠唱なしの魔導が難しいということくらい、あまり縁のないリズでも知っている。思わず息を呑んだが、炎はすぐに、凍りついた。薄氷が割れるような音を立てて、崩れ消え去る。
「いいですねぇ」
 舌なめずりをするかのような、声。
 既に戦いは、始まっている。互いに詠唱なしの魔導戦の珍しさはリズには知りようもなかったが、あのリドルが真顔だということからも、気の抜けない状態だということは、厭でも判った。
 ランはと見ると、先ほどから全く体勢が変わっていない。眼も、つぶったままだ。無防備と言えば無防備だが、リドルと岩が盾になっているのだからそうでもないのかと考えかけていたリズは、不意に何かが動いた気がして、眼を凝らした。
 木々が程よい間隔に生え並び、ところどころ、苔や草が生えていて地面が緑にも見える。初夏とあって、気に生い茂る葉っぱといい、眼に痛いほどに生き生きとしている。そんな森の中で、比較的開けている場所なのだが、先ほど降ってきた大岩のおかげで、そんな感じもない。
 その岩の近くに、人がいた。
 人――に違いないと思うのだが、どうにも規格が違う。腕の太さが子豚ほどもあり、胴もそれに見合った太さだ。首はないかのようで、頭は、剃っているのか禿げているのか、一筋も髪が見当たらない。紐で縛ったら巨大なボンレスハムになりそう、とうっかりと考えたリズは、それがランの背後に忍び寄っていることに気付き、考える間もなく叫んでいた。
「ラン後ろ!」
 一瞬だけリズを藍色の瞳が映し、すぐに、しなやかな体が宙を跳んでリドルの背後へと着地した。
「ほぅ、他にも誰かがいるとは珍しい。しかも、なんとも可愛らしい声ですねぇ」
 背筋がぞくぞくする。鳥肌が気持ち悪いくらいに立って、リズは、枝にしがみついているのが精一杯だった。そうして、頼むからお願いだからなんとかしてねっ、と、至極他力本願な懇願を心の中で叫ぶ。
 頼みの綱の二人は、小声で何か言葉を交わしたようだが、リズの耳にまでは届かなかった。今は互いに、背を向け合って「陰険モヤシ」と「筋肉ダルマ」に対している。
「じゃ、交代」
「げ。またモヤシかよ」
「いいじゃん。案外、気ぃ合ってるし二人」
「飯抜きなお前」
「やめてー、やる気なくすから本気で!」
 挑発なのか本気なのか、そんな声が聞こえてきた。リズの背筋の震えが、気付けば消えていた。
 そうして位置を入れ替えた二人に、それぞれが笑いかける。笑い返した二人の表情は、悪童だ。
「やぁ、元気そうで何よりですねぇ。獲物は活きが良くないと、面白くない」
「獲物扱いする割には、一回も勝ったためしがないけどな。――呼び声に答えよ、火精」
 ランが抜き放った剣の刃を、瞬時に蒼い炎が覆う。思いがけず幻想的な光景で、リズはつい、見とれた。
 男がそれを、腕の一払いで掻き消す。
「ふっ、相変わらずの一本槍ですか」
「リディ!」
「はいよっ」
 無言で蹴り合っていたリドルが、ランの言葉に跳び上がる。そうして、リズがよじ登った高さの枝を軽々と掴むと、猿よろしくぶら下がった。
 リドルの跳躍と同時に、ランも跳んでいた。大男を跳び越え、岩に着地する。その上で、残されて一瞬だけ反応に迷った二人を取り囲むように、剣で円を描く。剣先から、蒼い炎が伸びた。
「呼び声に答えよ、地精!」
「何?!」
「うお!?」
 残されていた「モヤシ」と「ダルマ」が、ずぶずぶと地面に沈んでいく。まるで地面が沼にでもなったかのようで、リズは眼を疑った。どこかに捕まろうにも、炎で囲まれた部分が全てそうなっていて、掴まりようもないようだ。
 ところが彼らは容赦なく、二人が身動きの取れなくなるまで沈むと、弾みをつけて枝から飛び降りたリドルが、ランの降りた岩を持ち上げる。そのまま、首のあたりまでしっかりと埋まった二人の頭上に落とした。
「うそでしょ…人間業じゃないわよ…」
 リドルの、どちらかと言えば華奢な体のどこにそんな力が。しかも投げ終えて、平然としている。
「とどめ刺せたかなー?」
「いや、今までの経験からいくと…無理だろ。この程度だと」
「あ、やっぱ? おれほんっと時々思うよー、こいつらの生命力、ゴキブリを上回るね」
 暢気な会話だ。
 リズは、眼を回しそうになって慌てて、枝にしがみつこうとした。だが、手を滑らせ――落っこちる。
「っ、きゃーっ!」
「!」
 がしりと抱きとめられ、衝撃はあったものの、無事は無事だ。恐る恐る眼を開くと、苦々しげな濃藍の瞳にリズが映っていた。
「あ…りがとう、ありがとうございます!」
「…こういうのはリディの担当だってのに、なんだって俺のところに落ちてくる」
 そんなことを言われても困る、とリズは反論しようとしたが、意外にも丁寧に地面に下ろされ、機会を失った。
 リズが改めて頭を下げようとすると、ランは、ぶっきらぼうに遮った。にやにやと笑ったリドルが、照れてるんだよーと、二人ともに聞こえる小声で言って、はたかれる。
「行くぞ、いつ復活するか判ったものじゃない」
「はーいはい。リズ」
 リドルに呼ばれて、見ると手を差し伸べられている。
「え? あ。い、いいです、歩きます! 悪いです!」
「えー? でもさー、リズの歩くのに合わせてたら、あんまり距離稼げないんだけど?」
 思ったよりも突き刺さる本当のことを、リドルはさらりと言う。う、と言葉に詰まったリズを、ランの合図で、返事を待たずにリドルが担ぎ上げた。
「う、ううー」
「詳しい話は後だ。とにかく、奴らから離れるぞ」
「おれ、食いながら走ってもいい?」
「干し肉くらいならいいが、詰まらせるなよ」
「そんなにヤワじゃないもんねーっ。リズ、背嚢に入ってるから出してー」
 既に走り出したりドルに担がれたまま、リズはしぶしぶと従った。動きながらだが、リドルの走りが安定しているせいか、さほど困難ではない。ランに渡してーと言われ手を伸ばすと、受け取ったランが、慣れた手つきでリドルの口に放り込んでいた。
 変な人たちだ、と、改めて思う。
 そして流れていく景色を見るともなく見ていたリズに、ランが口を開く。
「本当なら奴らが出てきた時点で今回の話はなしにすることだ。けど、馬鹿さ加減に免じて、もう一回話くらいは聞いてやるよ。あんたも、訊きたいことがあるだろう」
「馬鹿、て…?」
 リズには慣れない風圧で、あまり喋れない。それでも懸命に言葉を押し出すと、それだけで口の中が干上がったような気がした。
「あそこで黙ってれば、陰険もやしに目をつけられずに済んだってこと。あんた一人くらい、潜んでればどうとでも逃げられただろうに」
「でき…、わけ、ない」
「ほんっと、馬鹿だなあ。リディ並だ」
「えー、なんでそこでおれが出てくるんだよ」
「今まで言ってなかったかもしれないから言っておこう。俺が今まで出会った中で群を抜いて最強の馬鹿は、お前と、ある意味カイ師匠だ。あの人は惚れた弱みで仕方ないとして、純粋生粋の馬鹿は、間違いなくお前」
「うっわー、ケンカ売るなら買うよ?」
「事実を言ったまでだ。本当のことを言われると、何故か腹が立つんだよな」
「むかつくー!」
 相変わらず疾走しながら、二人とも元気だ。
 リドルの首にしがみついたままぐったりとしたリズは、全ては止まってからと割り切ることにした。話した以上のことが話せるわけもないのだが、こうなったら、情に訴えてでもなんとか色気をひねり出してでも、承知させよう、と決意する。それどころではなくて何割か忘れかけていたが、国の一大事なのだ。
「リズ、干し肉もう一枚」
 …大事を任せていいのかと、疑念がよぎるのまではどうしようもなかった。











学校の放課後

 見知らぬ教室で居眠りをしていた。
 ぐるりと周囲を見回すと、ありふれた、でも、今まで私が通ったことのあるどの校舎よりも豪勢だと判る教室。三十六個並んだ机と椅子には、教卓真ん前の私以外誰も、座っても立ってもいない。
 机に突っ伏したままでも眼に入る私の腕は、黒色の厚い布地に包まれていた。袖口には、蘇芳色の三本線。上体を起こすと、セーラー服と判った。スカーフも蘇芳だ。
「どこ、ここ…?」
 素朴な疑問は、静寂に飲み込まれた。
 窓の外はいっそ絶望的なほどに晴れ渡っていて――
「死神でもひなたぼっこしてそうやわ」
「っ」
「誰?」
 噴き出したような気配があって、とりあえず廊下に向けて言ってみたものの、返事はなかった。代わりに、軽い足音。
 思わず駆け寄って力任せに引き開けた扉の向こうには、角を曲がる人影があった。でもそれは言葉通りに「影」で、本当に人型だったかどうかすら、実は自信がない。
「もー、わけわからーん」
 呟いて、へたりと扉にもたれかかった。目を閉じる。

「お目覚めになりましたか?」
「ふえ?」
 聞き慣れない堅苦しい声。というかここはどこだ。揺れている車の中――?
「あ」
 うわやらかした、と思いつつ、とりあえず体を起こす。車の後部座席を占領して眠り込んでいたらしい。今日はじめて袖を通した制服も、どうにもしわができている。まあ、セーラーの冬服だからわかりにくいけど。
 そこで再び、声を上げそうになった。
 さっきの夢。人のいない見たことのない教室で目覚めたあれ。今と同じ格好をしていた。…まあ、だからどうってこともないのだけども。
 髪を手櫛で梳きながら、前を見る。ミラー越しに、運転中の秘書の人が一瞥を寄越したのが判った。苦笑も呆れも見られない。無表情で、何が楽しくて生きてるのか、と思わせる。それとも単に、雇用主の隠し子の面倒を見させられている現状が不満なだけだろうか。 
 とりあえず、頭を下げておくことにした。
「すみません」
「いえ。お疲れになったんでしょう。そろそろ到着です」
 淡々と、好意や気遣いが感じられない代わりに皮肉や嫌味も感じられない声音で返ってくる。こういう人は嫌いじゃない。ただ、そうですか、と返した私の顔は、バックミラーで見る限り微笑していた。とりあえず笑顔を見せてしまうのは、癖だ。
 窓の外をぼんやりと見詰めると、なるほど、田園風景の中にぽこりと、いっそ異様とさえ言えそうな校舎群があった。
 ちょっと見ただけでは、博物館か個人の豪奢な邸宅か、と思いそうな建物。大雑把には、中央に校舎が固めてあり、北側に宿舎が、南側にそれ以外の関連施設が配置されているとか。ああ、教員宿舎は西側。正門からすれば裏側だ。その後ろは山裾だったりする。
 ちなみに、私がそれらのことを把握しているのは、今朝方閑すぎて、学園案内のパンフレットを熟読してしまったから。
 それによると、この来栖学園は戦後間もなく創立された。全寮制で、幼等部から高等部まで男女合わせて一万数千人ほど、生徒でない者も含めても二万人は超えないだろう人数が暮らしているらしい。
 最寄の駅と商店街までは、車で一時間弱。辛うじてでも都市部と呼べそうなところに出るには、そこから更に電車で一時間ほど。ちなみに、学園に至るバスはなく、タクシーを呼ぶか学園の車を借りるしかない。必然、実務に関わる関係者も、ほとんどが宿舎生活というのが現実だとか。
 ネットで調べた情報によると、わけありで入学する生徒が多いとか。一例を挙げるなら、親が大物政治家で、それを恃みに万引きから始まり見初めた少女を妊娠させた挙句に母子共に殴り殺した馬鹿息子。さる大家の近親婚でできてしまった娘。そして面白いのが、それらの一方、汚れきった外気にさらしたくないという理由で入学させられた箱入り娘と息子たち。
 さて私は、どちらの理由だろう。…まあ間違いなく、前者なのだろう。
 ちなみに、来栖というのは創立者の苗字で、特定の宗教的象徴とは関係がない。が、それに乗じてか単に創立者か関係者が思うところがあったのか、宗教学が選択授業に取り入れられているのが珍しい。
 来栖学園には大学も大学院もあるが、それらは打って変わって、県庁所在地の華やかで適度に田舎な一角にあったりする。
「必要なものがあれば、いつでも声をおかけください」
「はあ」
 はて、常に「父親」の傍らにいるはずのこの男に、私は何を望めばいいものか。
 そうそう、私がここにいる理由。それは、生物学上と多分法律上も親子になる新城宗佑(あらきそうすけ)にある。 
 突然出現した「父親」は大手企業の代表取締役で、しかもその企業は、色々ときな臭い噂の絶えないところだった。多分、ヤのつく人々と直結のつながりがあるのじゃないか。
 ところで母親は、今頃第二の人生を踏み出せているはずだ。彼女に幸いあれ。己の子どもではあっても憎しみしか抱けない男の子どもでもある私を、愛情は注げないまでも、よくまあ虐待ひとつせずに育ててくれたものだと思う。私ならきっと、中絶したかそれが間に合わないなら密かに殺すか捨てた。
 そのところの事情を知ったのはついこの間なのだけど、そこではじめて、母からの愛情が感じられない理由を理解した。どうせなら、もっと早く教えてくれていた方が、私に悪いところがあるだろうかと思い悩まずに済んだというのに。
「ところで、本当にいいんですかね。むちゃくちゃ高そうなんですけど、学費とか」
 密かに死体を始末するのよりきっと高い。
 そんな物騒なことを考えているとは知りもしないだろうが、秘書の人は、バックミラーで見る限りはやはり無表情に言った。
「気になさるようなことではありませんよ。むしろ、貴女の意向も聞かずに決められたのだから、立腹されてもよろしいのでは?」
 リップク…なかなか漢字変換ができず、ちょっと困った。小娘相手に固い言い回しを使わないで欲しい。というかこの人、出会った当初からずっと敬語だけど、馬鹿らしくはならないのか。
 秘書の人は、多分二十代半ばくらい。でも、落ち着きすぎの雰囲気からすると、もっと上なのかもしれない。何と言うか、得体の知れない空気がある。
 長めの前髪は細いフレームの眼鏡が上手い具合に散らして、これで笑顔でも見せられたら、二枚目俳優ですと言われてうっかり信じそうになるだろう。でも、ずっと無表情。一月ほど前に出会って、昨日今日はほとんど一日中一緒にいたというのに、のっぺりとしたそれしか見たことがない。
 ついでに、指がすらりと長くて、ピアノでも弾かせたら凄く似合いそうだ。
「思うところがあれば仰ればよろしいでしょう。十数年に亘って養育を放棄していた父親です。そのくらい、当然の報いだと思いますが?」
「八幡さんって、あの人に対して容赦ないですね」
「日頃の行いの成果ですね。それと失礼ながら、八坂です」
「え。あ、うわ、ごめんなさい! 神社つながりで覚えてたらうっかり」
「…いえ」
 今の間は何だ、怒らせただろうか。鏡越しの能面からは何一つ読み取れない。
 しかし本当に、つかめない人だ。でもまあ、嫌いじゃない。うん、むしろ好きかもしれない。
 とはいえ、あまり知らない人なのだからなんとなく距離はある。というか、物心ついて以来、それを一切抱かない人がいただろうか。多分いない。まあいいか。
 私が投げやりな自問自答をしているうちに、正門前に到着していた。ゆっくりと、車が止まる。そして秘書の人は、当然のようにシートベルトを外した。   
「少々お待ちください」
「はい?」
 ドアを開けて外へ。何事かと見ていると、秘書の人は、これも当たり前のように、閉ざされた正門の端にあるインタフォンらしきもののところまで歩いて行った。何か話している。
「…つかれた」
 するりとこぼれた呟きに、自分で驚いた。が、納得する。
 うん、疲れた。
 前の家では、看護師という多少不規則な労働形態の母は、いないかいても眠っているかお互い顔を合わせないようにしているかで。人が傍にいるだけで、こんなに疲れるものなのか。
 …しまった。寮生活なんて、これ以上に人だらけじゃないか。昨日今日は少なくとも秘書の人だけで、ホテルはそれぞれに一部屋だった。寮だと、たしか相部屋。いつも他人がいる生活とはどんなものだろう。駄目だ、想像の埒外だ。
 流されるままだった行動を少し後悔したけど、もう遅い。
 正門は開きつつあって秘書の人も車に戻ってくる。そしてそれ以前に私は、どんなことをしても生きてやる、というほどの気概がない。どこをどう探したって。「父親」の庇護下にいれば楽ができると、知ってしまっている。
 ――まあ、いいや。
 なるようになるさ。「ケセラセラ」のメロディに乗せて、そんなことを嘯く。
「お待たせしました。まず、生徒会室に向かいましょう」
「はい?」
「ここは極端なほどに生徒の自治が進んでまして。必要なものも注意事項も、とりあえず全て、生徒会から受け取る必要があります」
「――日曜やのに、仕事してるんですか?」
 自転車にも軽々追い越されそうなくらいにのろのろと敷地内を走る車の中で、正直、呆れ返った。生徒の自治はパンフレットやネットにも特色として挙がっていたけど、いくらなんでもやりすぎじゃないのか。
 だけど秘書の人は、涼しい無表情で肯定した。
「ここでは、生徒会が国会のようなものですからね。ただ、本物よりも活動的かつ広範囲に及んだ上で身軽ですが」
 熱意や責任感はこちらの方が強いかもしれませんね、と、さらりと厳しいことを口にする。
 そして淡々と、着きましたよと、エンジンを切ってシートベルトを外す。
「私もご一緒しますので、少しお待ちください。ああ、荷物は後で運びましょう」
「一緒って…一人でも行けますけど?」
 助手席に乗せていた書類ケースから目当てのものを見つけ出したらしい秘書の人は、体ごとひねって私を振り返り、無表情に首を傾げた。
「お聞きになってませんか? 私も、事務職員としてここで暮らすことになっています」
「え?」
「臨時雇いですが」
 そう言って秘書の人は、A4の紙を差し出した。そこには、八坂篤朗を三ヶ月間雇うといったことが書かれている。採用通知か。私が読み取ったのを確認すると、するりと用紙を戻す。
「母校で教鞭をとる、というのもやってみたかったんですが、あいにく、教員免許を持っていませんでした」
「母校?」
「はい。わけあって、中学から高校まではここの住人でした。OBというやつですね」
「はあ………?」
 懐かしいな、と言いながら、顔はやはり無表情だ。私の視線に気付いたのか、彼は息だけで微苦笑した。
「表情がなくてすみません」
「え? えー…謝るところですか、それ?」
 と言うか、自覚してたのか。突っ込んでよかったんだ。
「お怒りになる方は多いですよ。悪い癖です」
「それはまた、習得の難しそうな。ポーカーにでも明け暮れてたんですか」
 何をどう言ったものか迷って、くだらないことを口走る。もう少し、回転の速い脳みそか気の利いた脳みそを持って生まれたかった。うん? この二つは、もしかすると同じ物だろうか。とにかく、最低に近い応答だろう。
 だというのに、一瞬。ほんの一瞬、彼は、ひらりと微笑んだ。 
 もっと笑えばいいのに、という、きっと無神経だろう言葉を飲み込んで、私は別のことを口にした。微妙に気が動転している。
「それじゃあ、生徒会室の位置を教えてください、先輩」
「そうでしたね。申し訳ありません」
 詫びられ、じっと、彼を凝視した。
「何か?」
「ずっと気になってて、でも少しの間ならいいかと思ってたんですけど。そうじゃないなら言います。気を使わなくていいですよ。あなたを雇っていたのは、私じゃなくて私の父だとかいう人ですから」
「けれど、間接的にはやはり、雇用主でしょう?」
「でも今は、学校に雇われてるんでしょ?」
「ああ。実は、給料は二重取りになります」
 さらりと。
 つまりは、ここに残るのも「父親」の指示ということらしい。「父親」が何をしたいのか、さっぱりわからない。        
 母がどうしようもない経済難に見舞われたと思ったら、唐突に出現した「父親」。それらを片付ける代わりに私の親権を手にしたかと思えば、一緒に暮らすでもなく、中三の十一月という中途半端にもほどがある時期に、陸の小島に入学させられた。
 仮説一。
 母からは視界に入れるのすらおぞましく思われているにも拘らず、感謝されなくても役に立ちたいと思うほどに愛している。今まで姿を見せなかったのが不思議なくらいの、いや、やったことを考えればそれは当然なのか、とりあえず、金持ちで献身にあふれたお役立ちのストーカー。とすると、過去に母をレイプしたのも、突っ走ってしまった若気の至りか。これは、嫌われていると理解しているだけましな部類に入るのかも知れない。
 仮説二。
 実は、母から話を持ちかけた。脅迫の類だ。なるほど、今まで嫌々私を育ててきたのは、こういったときの切り札としてということか。今ならDNA鑑定も容易く、私が誕生した一件は一度は警察沙汰にもなったらしいから、立証は可能だろう。長々と切り札を温存して今に至ったのは、これまではそれほどの危機がなかったからだろうか。
 仮説三。
 何らかの理由で、「父親」に直径の血縁者が必要になった。金持ちで顔は十人並みなんだから今でも遅くはないはずだけど、急遽必要になったのかもしれない。そうすると、入学は一時の隠れ蓑か。しかしその後に何が待ち受けているのか。ううむ、政略結婚くらいしか思い浮かばない。
 他にもいくらでも仮説は立てられるだろうけども、突っ込みどころを踏まえた上でありそうだと思えるのは、今のところ私にはこの三つくらいしか考えられない。     
 しかし、私係にされてしまったということは、この人は秘書ではなかったのか。まあどうだっていいけど。      
「間接的にでも私も雇用者なら、命令ということでお願いします」
「何がご不満で?」
「慇懃無礼っぽいところが」
 つい即答してしまったけど、彼――ええと、八幡は違って八坂青年(?)は、無表情にまじまじと、私を見詰めた。そうして、柔らかく微笑んだ。
「気が向いたらそうしましょう」
「…実は遊んでませんか」
「さあどうでしょう?」
 そう言えば、「父親」を批判していた気がする。雇用主に忠誠というわけではないのか。でもそうすると、はて、私の世話係でいくらもらって納得したのやら。それなりに自尊心やら矜持やらがありそうなのだけど。少なくとも、小娘相手に仕えてよしとする人ではないような。
 まあいいや。











いつかを夢見る

 夢を見た。
 そこでは、リウはまだ幼い少女だった。今も、大人と言い切るには若いが、その半分くらい。七歳や八歳、そんな年齢のときだったはずだ。
 八歳。繭にこもる、年齢だ。

「やっぱりここにいた」
 幼い少女は、そう言って、一人たそがれていた少年の隣に、当然のように腰を下ろす。
 しばらく、二人は並んで座っていた。
 知らない人間とであれば、気まずくなっただろう、長い沈黙。しかし少女――リウは、ただ淡々と、そこに座り、少年と同じように、岬の下の海を眺めていた。落ちても何とか泳いで帰れるかな、と、そんなことを考える。
「…どうして」
「うん?」
「…ここに、くるの」
 根負けして自分から話し出した少年を、海を眺めるのと同じように、大好きなものを見る目で見つめる。
「ばかだなあ、ロンは」
「…」
「ロンが落ちこんでるのに、ほうっておけるはずないじゃない」
 言ってから、首を捻る。
「落ちこんでるのとはちがうのかな。また、ファイたちに石投げられたんだって?」
「…リウは、いいよね」
「え?」
「どうしてぼくは…生き残ったんだろう」
 リウは憤然と、立ち上がった。ガラス玉のような水色の瞳で見上げる少年を、きつく睨み付ける。泣きたくもないのに、涙が滲んでいた。
「どうして、そんなこと言うの!? ボクは、ロンに会えてよかった! ロンが生きててくれてうれしい!」
「…そんなことを言ってくれるのは、リウだけだよ」
「だからなに? それなら、ボクが何人分でも言うよ。何回だって、どれだけだって言ってやる」
 しかし少年は、儚げに、微笑を返すだけだった。
 緑の島と、青い海と、笑う少年と。大好きな、大好きだった、リウの世界。

 繋ぎ止めて。何を言ってもいいから、少年を繋ぎ止めて、せめてもう少し話をさせてと、叫びそうになるのは目が覚めてからのことだ。目覚めてから、ああと、声を押し殺す。
 懐かしい、夢を見た。

<一 夢の後>

「…むう」
 目を覚ましたリウは、いつの間にか頭からかぶっていた布を跳ね上げて、上体を起こした。束ねることさえ面倒で短くした髪は逆に寝癖が激しくなり、もう一度、伸ばそうかとも思う。
 女みたいに髪を伸ばすなんて厭だって、思ってたのに。
 内容はほとんど覚えていないのに、懐かしい夢を見たという思いと少年の面影を思い出し、幼い日の考えを重ねて、苦笑をこぼす。男の子になりたかった自分。違う、男よりも劣ると思われるのが、口惜しかったのだ。今では、それを逆手に取ったりもする。
「あーうー」
 とにかく起きなきゃだ。
 朝ご飯を食べたらすぐ出発だな、と胸の内で確認して、頬を軽く叩いて眠気を払い落とす。そうして身軽に跳ね起きると、昨夜のうちに用意してもらっていた、身支度用の水で顔を洗い、見なくても寝癖で荒れていると判る髪は、自分じゃ見えない、と嘯き、撫で付けるに留める。
 そうして、用心のために抱きかかえて寝ていた荷物を寝台から引っ張り出すと、軽い足取りで階下へと下った。この店は、よくある造りで一階が食堂と主らの生活の場、二階が宿となっている。 
「れ?」
 そろそろ日も昇ろうかという時刻で、普通なら早朝の出立を決め込む旅人が数人はいるだろうのに、いたのは、春だというのに厳重に布を纏った人物が一人だけ。見回しても、店員さえいない。
「ちょっと、あたしの朝ごはんはー?」
 呆れて呟く。しかし返事があるはずもなく、リウは、たった一人の元へと足を運んだ。
「おはよーございます」
 にこりと、無邪気に笑ったつもりだが、布の人物からは何の反応(リアクション)もない。むう、と呟き、覗きこんで無理やり目を合わせると、思い切り不機嫌そうに睨みつけられた。
 しかし、リウは怯むでもなく姿勢を戻すと、じっと布の人物の全体像を見て、布で体格は判らないものの、不自然に厚みがあることに気付き、首を傾げた。
「もしかして、羽、出しっ放しだったりする? 両羽とか」
「あああっ、お客さんごめんなさい、ちょっと出てたわ!」
 素っ頓狂に半ば叫びながらやってくる気の良さそうなおばさんに、リウは、返事をもらうことなく引っ張られてしまった。意外にというかでっぷりとした見かけ通りにというか、力が強い。
「朝食食べるかしら、食べるわね! すぐに作るからそこに掛けててちょうだいね!」
 冷や汗を流しながらの笑顔に負けて、大人しく、カウンターに座る。布の人物は部屋の隅のテーブルに座っているため、小声で話せば内容が聞こえない程度には、離れている。
 スープをよそってパンを出す女を見ると、怯えているのが丸判りだった。先ほどの観察で予想はついたものの、背中が「聞いてくれ」と言わんばかりなので、そっと声を掛ける。
「あの人、何?」
 女性は、スープをパンをリウの前に置くと、本人はおそらく控えめに思っているだろう程に身を乗り出し、囁くような声を出した。
「二枚羽だよ、近付くんじゃないよ」
「見たの?」
「見なくたって、あの格好見りゃ判るさ。でもね。昨日、水を持っていったら、見ちゃったんだよ」
「うん?」
「おっきな黒と白の羽を! ここでもう二十年以上宿を開いてるけど、二枚羽の客なんて初めてだよ。そりゃもう、驚いたのなんのって。思ってた以上に不気味だよ」
「ふうん」
 適当に相槌を打ちながら、とりあえず朝食を平らげる。スープもパンも温かく、思っていたよりもおいしかった。昨夜は遅くにたどり着いたため、ここで食事を取るのはこれが初めてだ。
「護衛もなしってことは、強いんだろうね」
「ああ…昨日、酔った客が絡んでね。高く放り投げてたよ。おかげで、今日は出足が遅いんだ」
 怯えて、出て行くのを待っているのだろう。それで誰もいないのかと、納得する。
 両羽――白と黒で一対の羽を持つ者は、一般的には無能力者とされている。だが、中には常人よりもはるかに強い能力を備えたものもおり、畏怖される傾向にあった。
 白い羽は、治癒と防御の能力。
 黒い羽は、攻撃と破壊の能力。
 強い両羽は、その両方を、桁外れの能力値で持つ者が多い。そして両羽は、羽が出しっ放しの者がほとんどだ。それが一層、差別化している。
「あんたは、昨日遅かったから知らないんだろうけどねえ…。一人かい?」
「うん」
「あんたみたいな小さい子が、たった一人で大丈夫なのかい?」
 善意から心配してくれているのは判るのだが、十六という年齢の割りに成長に乏しいのは、リウの悩みどころだ。答える笑顔の下で、ちぇっと呟く。
「だいじょうぶ大丈夫。えーと、とりあえずごちそうさま」
 そうにこやかに告げて、ちらりと後方に視線をやる。
「ところであの人、男? 女?」
「男だったよ」
「そう。ありがと」
 笑顔で立ち上がったリウを、女は小首を傾げて見上げた。それに、くるりと背を向ける。布の男は、リウよりも早くに食べ始めていただろうのに、ようやく食べ終えようかというところだった。
「ねえおにーさん、相談があるんだけど」
 顔を上げて、はっきりとにらみつけられるが、笑顔は微塵も揺るがない。ただ、見上げた瞳が水色だったことに、夢の名残を思い出して心の一部が揺らぐ。
 しかしそれは、水面下でのこと。リウは、にこにこと笑って男の前に立った。
「相談って言うか、取り引きかな。あたし、この先の森に行くんだけど、急ぎの用事がなかったら、護衛をしてもらえないかな。あそこ、能力使えないのに色々出るでしょ?」
「…断る」
「急いでるの?」
「…断る」
「条件、聞いてからでも遅くないと思うけど」
「高いぞ」
 報酬がかな、と気付き、いよいよ笑顔を深める。笑顔というのは便利で、実に色々なものを隠してくれる。例えば、打算や緊張を。
「両羽の人って、大体、羽の出し入れの仕方がわからないだけなんだよね。走るのと変わらないんだけど、それが判らない。でも、ほとんどの人は走り方がわからないなんて言われても、当然のようにできる走り方を、教えることはできない。せいぜい、走って見せるくらいしかね」
「…何が言いたい」    
「走り方、教えようか?」
 男が、疑いながらも、ほんのわずかではあるが、心を動かしたことが判った。
 本人もそれと悟られたことに気付いたらしく、忌々しげに舌打ちをした。ひぃと、かすれるような悲鳴を、後方で女が上げたのが判った。
「じゃあちょっ――」
 リウは、止める間も与えずに男が頭からかぶっていた布を下ろした。ところがそこで、動きが止まってしまった。ただひたすらに、男の顔を凝視する。
「何をする!」
「……名前。名前、ねえ、名前は?! あなた、名前なんていうの!?」
「は?」
 リウの勢いに押されてか、意外にもほとんど同年代の男は、不意打ちの声を漏らした。
「あたしは、リー・リウ。あなたの名前は!?」
「う、ウー・ラウイー…」
「フェイ・ロンアルじゃ…ない、の…?」
「違う」
 苛立たしげに、手を払いのけられる。声も、わざと低くしているのか、押し殺したものに戻っていた。
 リウは、がっくりと肩を落とした。
「そう…だよ、ね…」
 夢のせいだ。
 夢に、あの少年を見たから、思わずそうではないかと思ってしまったのだ。同じ色の瞳に、よく似た、あの少年が育って、苦労を重ねたらこうなるかと思うような顔に、飛びついてしまった。
 少年は、おそらくは生きていないだろうのに。
 リウの村と共に、葬られてしまっただろうのに。
 リウの故郷は、田舎の海に面した小さな村だった。都会の喧騒とは縁がなく、時々やってくる商人や芸人、出稼ぎから帰ってくる男たちの話が、何よりも楽しみだった。落ち着いたのどかな場所に、羽を――正確には、それに伴う能力を、身につけるために繭にこもるのに、選んでやってくる者も、ごくまれにだがあった。そんな平凡な村。
 しかしそこは、リウが八歳のとき、一月こもっていた繭から出てみると、焦土と化していた。
 煙さえ疾うに消え去った、荒れた土地。リウの愛した緑はどこにもなく、広々とした海には、殺伐とした兵隊しかいなかった。反逆者が逃げ込み、匿った村人も同罪と、全てが焼き払われたと噂に聞いたのは、随分と後になってのことだった。
 リウは、頑強な繭にこもっていたために、そして何よりも、人の来ない判りにくい場所にあったために、見逃されたのだ。
 残っていた兵隊の目をかい潜り、泥水を啜るようにして生き延び、様々なものを学び、身につけ、今ここにいる。村で過ごしたのと同じくらいの時間は、既に経った。それなのに、こんなにも幼馴染を求めていたと知って、リウは、ひどく動揺していた。
 全て、夢を見たせいだということに、しておこう。
 そう思い、泣きたくなるような気持ちもすべて仕舞い込んで、固く目を閉じる。
 笑顔を浮かべた。
「はは。ごめんごめん。知ってる人に似てたから」
 ひきつりながらも笑顔を浮かべるが、男は、胡乱そうに見遣り、ふいと横を抜けようとする。リウは咄嗟に、身にまとう布をつかんで引き止めた。
「…離せ」
「まだ話が途中」
「話なんて」
 今度は躊躇せずに、男の額に手を触れた。額同士を触れ合わせた方がやりやすいのだが、立ち上がられてしまうと、身長差のせいでかがんでもらわなければ無理がある。ここは、頑張るしかなかった。
 触れた手に、感覚を集中させる。目を閉じて、自分が羽を仕舞うときと同じように、波紋の収まっていく水面を思い浮かべる。
 男が声を呑んだのは、背の羽が、体の中に折りたたまれていくことが判ったからだろう。目を開けると、予想に違わず、男のまとう布は大量の空間を含み、だぶついていた。
 にこりと、茫然とした顔に笑いかける。押し込んだ感情は、ちゃんと収まってくれているようで、こうするといよいよ幼馴染に似た顔にも、心の片隅がざわめくに留まった。
「今のは、あたしと共鳴させただけ。練習すれば、自分でできるようになるよ?」
 嘘だろうと、瞳だけで語る。ちらりと視線をやると、カウンターの内側にいる女も、同じように、驚愕に凍り付いていた。
「あたしも、はじめは仕舞い方が判らなかったから。だから、こういったこともできるようになったんだよね。どう? これが報酬じゃあ、不満かな」
 そう訊きながらも、リウは、自分の成功をほぼ確信していた。今まで、両羽相手にこの取り引きで成立しなかったためしは、なかった。 

 二人は、連れ立って森に入っていった。
 能力を一切使うことのできないこの森は、野盗がよく出ることでも知られる。武器や体術を使うしかない分、能力で劣り腕力のある者には住みやすいのだろう。
 狙われやすい両羽ならば体術にも優れているのではないかというリウの予測は当たり、森に入ってすぐに、ばらばらとやってきた野盗は、ウー・ラウイーが一人で片付けてしまった。
「やー、スゴイすごい。立派リッパ」
 ぱちぱちと手を叩くと、纏っていた布を外したウーに、忌々しげに睨み付けられた。軽く、肩をすくめて返す。
「褒めてるのに、怒らないでよ」
「それが褒める態度か」
「はは。とりあえず、そろそろお昼にしようか?」
 入り口に張っていた者の仲間か別物かはわからないのだが、第二波をこれまたあっさりと拳でのしたウーに、そう呼びかける。律儀に言葉を返してくれるこの男は、思った以上にお人よしのいい奴ではないかと、密かに思う。
 宿で別料金を払って用意してもらった昼食は、固焼きのパンに野菜や肉を挟んだ簡素なものだった。それと、酒を一瓶もらってきている。
 さすがに、何人かがバラバラに倒れているところで食べる気にはなれず、少し進んだ日当たりのいい場所に座り込む。それを見て、ウーも、渋々と包みを開く。
「うん、やっぱりあの人、料理上手だね。ああでも、こんなおいしいの食べると、この先の野宿がちょっと厭になるよねえ」
「…どのくらい行くつもりだ」
 リウとは違い、ただ詰め込むように咀嚼するウーを呆れたように見て、小首を傾げる。
「ここの真ん中って話だから、少なくとも一泊、下手したら三日くらいは野宿かな。ちゃんと、食料は持ってるよ。だから君は、最短で二日くらいは一緒にいてくれないとね」
 能力が使えない森の中では、羽の出し入れもできない。羽は、物質よりは、能力に付随する幻影のようなものなのだ。もっとも、質感はあるのだが。とにかく、森を出てからでなければ、その習得もできない。
 ウーは、舌打ちを返した。
「態度悪いー。あたし、師匠になるわけだし? もうちょっとくらい、敬えとは言わないけど、打ち解けてもよくない?」
「断る」
「即答だし」
 そう言いながらも、リウは笑顔だ。
 大概のことは楽しめる自信のあるリウだが、とりあえずこの数時間、本当に楽しんでいる自分に気付き、囁く声もあった。この男は、ロンではないのにと。身代わりを求めるのは、ロンにもウーにも失礼で、卑怯なことだと。
 ロンは、もっとずっと優しかったよ。
 笑顔の下で、自分にそう返す。だから、この人が違うと知っている、と。
「冷たいなー、ウーは。こけても、手も貸してくれないし」
「俺が引き受けたのは、襲ってくるものの排除だけだ」
「またそんな。あれ、その定義でいくと、例えばがけから落ちたら、見捨てられる?」
「そういうことになるな」
「そんなことしたら、羽の仕舞い方学べないよ?」
「…」
 勝った、と拳を持ち上げると、睨まれた。
 今は茶化しているが、両羽にとって、羽が仕舞えないことは死活問題にもつながる。
 白と黒で一対の羽は、気味が悪いというのが一般的な感想だが、きれいだと取る向きもある。そして、それが高じると、標本にされてしまったりもする。悪趣味な好事家の動きだ。そうでなくても、一部の能力ある両羽にやられた憂さを、他の自分よりも弱い両羽に当り散らす輩も多い。
 目立つ羽を出し続けているということは、それらを引き寄せるということでもある。弱ければ死に、強くとも、嬉しい事態のはずがない。
「それにしても、両羽に羽の仕舞い方が判らない人が多いのは、どうしてかな」
「…お前も、そうなのか」
 独り言のはずだったのだが、思いがけず反応があり、リウは思わず目を瞠った。
「答えたくなければいい」
「あ。いや、そういうわけじゃないよ」
 一応興味は持っているのだと判り、意外に思っただけだ。食べかすを膝から払い落とすと、一度、目を閉じた。
「あたしは、白羽だよ。黒羽か、能力のある両羽が良かったんだけどね」
「…両羽になりたい奴がいるか」
「ここにいる。もっとも、能力が使えるっていうのが前提だけど。あたしは、守りに徹するなんて真っ平だから。両羽は両方使えるから、それは羨ましいと思ってた」
 おそらくは反論を、言いかけるウーを見つめると、口が閉じられた。
「君に説くのは愚かな話だけどね、攻撃力も持たずに、一人で生きていくのは難しい。だから余計に、そんな能力がほしかった。まあ、治癒能力は大いに役立つんだけどね。疎んでるわけじゃない」
「…それなら、何故」
「羽が仕舞えなかったかって? これは予測だけど、多分、ショックで吹き飛んだんだよね。息の仕方が判らなくなるときって、ない? それと同じ」
 自然と、口の端が笑うように歪む。水色の瞳が、こちらを見ていた。
「羽化して出てみたら、故郷がなくなってたんだよね。丸ごと、さっぱり。焼け野原。骨だけが、一箇所に積み上げられてた」
「…宿で言っていた名は、家族か…?」
「ロンのこと? うん、家族って呼んでもいいかな。両親を殺されて、さまよってるところをお父さんが見つけてきて、ほとんど一緒に住んでた。いじめられっこで、小さいことでくよくよ悩んでて、弟分だった。大好きだった。間違えて、ごめんね」
 何かを言うように開かれたウーの口は閉ざされてしまい、強く唇を噛み締めている。
 そんな反応に、もしかして慰めてくれようとしたのかなと思い、思わず笑みがこぼれた。やはり、お人よしでいい人だ。
「まあとにかく、これまでにも何人かに教えてきたし、腕は信用してくれていいよ」
「…他にも?」
「うん。いやあ、資本タダだしね。時間がかかっても、あたしは問題ないし。儲けさせてもらってます」
「悪徳」
「失礼な。真っ当な取引でしょ」
 警戒し、半ば呆れる視線に、胸を張って答える。
 人よりも苦労の多い両羽は、取引の方が快く応じてくれる。もっとも、それで助かっているのも本当だが。どちらかといえばその日暮らしのリウに、資産と呼べるようなものはほとんどない。
「じゃあ、行きますか」
 ウーも食べ終えていることを見て取り、立ち上がる。
 それから日が暮れるまで、人や動物を適当に払いのけながら、野宿に良さそうな場所を探して歩いた。時折、磁石で方向を確かめる。北に真っ直ぐに進めばいいのだから、確認は簡単だ。
 枯れ枝を集めた薪に火をつけると、チーズやパンをあぶりながら、ぼんやりとする。
「噂には聞いてたけどさ…ほんっと、多いよね、盗賊」
「食料も豊富だしな」
「それならそれで、自活で我慢しといてほしいよ。ああもう、次来たら、こっちからふんだくってやろうかな」
「…鬼だな」
「うるさい」
 大半をウーに任せているとはいえ、襲撃のあるたびに足を止めなくてはならず、これだけかかれば、明日中に到達というのはいささか厳しい。
 期限があるわけではないし森も好きだが、鬱陶しい。野生動物だけならまだしも、徒党を組んだ盗賊の群れは要らない。
 だから、茂みが音を立てたとき、リウは本気で殺気立っていた。
「いい加減に懲り…!」
「見つけたっ、俺の女神ー!」
「うわあぁあああぁっ!!」
 リウやウーとおそらくは同年代の、まだ若い男だ。ウーとは対照的なくらいに短く刈り上げられた濃茶の髪も、灰色の瞳も、人懐っこさがある。それなのにリウは、鳥肌を立て、ウーを壁にしてその背に少しでも隠れようとする。
 茂みから姿を現した青年は、しかし一向に気にした様子はなく、無邪気と言えそうな様子で、焚き火とウーを挟んで笑顔を振りまく。
「恥ずかしがるなよ、女神」
「ねえウーあれ何とかしてお願い」
「…害はなさそうだが」
「あたしの心に思いっきりあるから!」
 そう言っている間に、青年は回りこみ、ウーの存在を無視して近付いた。
「女神」
「イヤッ!」
 目の前にある顔に、リウは、目をつぶってウーの背中にしがみつき、男性限定の急所を蹴り上げた。大打撃(クリティカルヒット)。
「……知り合いか?」
「知ってるけど知り合いたくなかったし断じて友達じゃないから!」
 悶絶した男の頚動脈を押さえて意識を飛ばし、それを見下ろして、ウーがリウを見遣る。毛を逆立てた猫のようなリウが落ち着くまで、今しばらくの時間を要した。その間、さすがに火に近すぎるとウーが男を押しやったが、目覚める気配はない。
 落ち着くと、とりあえずは焦げかけていたチーズやパンを片付け、荷物の中から軽くて丈夫な素材のカップを二つ取り出し、今朝宿で買った酒を注ぎ、一つをウーに渡した。
「…何者だ」
「ホワン・チェンフー。少し前に、盗みに入った家のどら息子」
「盗みまでやるのか?」
「珍しくないでしょ。それに一応、そのときは騙し取られた家宝を取り返しに行ったんだし」
 驚いた顔に、ちびちびと酒を舐めながら、あっけらかんと返す。
 ウーは、じっと倒れ賦した青年を見た。
「…恨まれて、というわけではなさそうだが」
「いっそ、恨んでくれた方が気が楽だった」
 げっそりと、言い返す。
 盗みに入ったときに、たまたま、夜遊びから帰った青年に出くわし、咄嗟に殴りつけたら、そのまま足を滑らせて階段から落ちたのだ。額を割って血を流す青年を置いておけず、仕方なく治癒を施したところ、途中で青年は目を覚ましてしまった。
 それだけならまだしも。
「どう思う? 目を覚ました途端、手を取って『女神』だよ?! 鳥肌立つって言うかもう本当、どれだけ、出血多量で死のうが放っておけばよかったって思ったか! 自分殴って怪我させた奴にほれるってどうよ? もうあんなの、誰かに熨しつけてあげたいよッ!」
 リウの語る心境は、既に怪談だ。
 しつこい上に財力と体力と根性があるものだから、どこに行っても見つけ出し、追いかけてくる。ここしばらく顔を合わせることがなく、ようやく、まいたか飽きて諦めたものと思っていたら。続行だった。
「…立ち入ったことを言うが、悪い話じゃないんじゃないか?」
「な・に・か、言った?」
 にっこりと、嫌がらせに笑顔を見せるが、少し身を引いただけでそれ以上怯む様子もない。
「そう変な顔でもないだろうし、財力もあるんだろう」
 確かに、どちらかといえばもてるだろう