1. 手紙

 祖父には、毎月届く手紙があった。月の初めに届いて、月の半ばに出す手紙。相手にとっては、月の半ばに届いて月の初めに出すやりとりだったろう。
 ユウキがそれを知ったのは、祖父の死後のことだった。
 遺品整理がどうなったのかも知らない、祖父の死から一月近くが経とうという、秋の月初めのことだった。
「あれ。おじいちゃんに手紙来てるよ? えーっと・・・ミツキサヤカさん?から」
「あら。知り合いの方には皆、お報せしたと思ったのに」
「女の人だろ? ラブレターかもよ」
「まさか」
 ユウキは、茶々を入れた高校生の弟を半ば呆れて睨みつけて、母に渡そうと手紙を差し出した。しかし、夕飯の支度に忙しいらしい母が受け取るよりも先に、弟が掠め取った。
 枯草色の封筒を開ける。
「あっ!」
「いいじゃん、ちょっとくらい。へえ、字はキレイだ」
 言われて、やはり興味のあるユウキも、悪いとは思いながらも覗き込んだ。
 そこにあるのは、礼儀をわきまえた、しかし親しさを感じさせる文章だった。字も、読みやすく整っている。内容からすると、受験生のようだった。
「ふうん。あんたの一つ上か二つ下だね。今までやり取りしてたんだろうね。・・・死んだなんて報せるの、少し気が重いな」
「・・・報せなきゃいいじゃん」 
「は?」
 何を、と言いかけたときには、年の割りに小柄な弟は、祖父の部屋の障子を開けて姿を消していた。他の手紙を探しに行ったのだろうと思い至り、ユウキは、母と顔を会わせて肩をすくめた。
 意外にもロマンティストな一面に、やや呆気に取られる。
「ヒナちゃんも、年頃になったのねぇ」
 母はしみじみと溜息をついて、だけど、と付け加えた。
「嘘をつくのはいけないわね。ユウちゃん、ちゃんと手紙を出すかお会いするかしてお報せしてね」
「なんでアタシが?」
「だって、ヒナちゃんに任せるのは不安でしょ。私かカズさんがしゃしゃり出たら怒るだろうし。お願いね」
 この母には弱い。
 かくして、ユウキは弟を説得して、見知らぬ少女と会う羽目になるのだった。弟の突然の恋の行方は――今のところ祖父には敵わないらしい、とだけ追記しておこう。
 こんな身近なドラマを知って、ユウキは、ようやく祖父を「祖父」ではなく一人の人間として認識したのだった。 

2. 食卓

「何考えてるの」
 食べ終え、汚れた食器を重ねないように流しとテーブルを往復する父の背に、真砂子はぽつりと投げかけた。
「政治家の食卓、なんて脇道にそれた取材、受けるなんて」
 無地のテーブルクロスを掛けられたテーブルに頬杖をつき、小男の父の背中を見る。
 同年代の男の人を十人つれて来たら、その二番目か三番目か、もしかしたら一番目に、身長が低いかもしれない。髪は、年の割には豊かな方だろうか。そう魅力的ではないが、人好きのする顔と性格ではある。
 これでよく、日本の政治家なんてものをやっていると思う。きっと、家と外では人格が違うのだと、幼い頃から思っていた。それは、仕事場のことを何一つ言ってくれない、父へのささやかな不満の表れでもあった。
「政治家なんて肩書き、一時的なもので、そのために家族を人目にさらすなんて冗談じゃないって、いつも言ってたのに」
 家族といったところで、真砂子しかいないのだが。家族同然の人や動物といったものもない。
 父の秘書とも、面識はあるがそう親しいわけでもなかった。
「何かあったの?」
「いや、何もないよ」
 本当だろうかと、真砂子は、変化を見せない父の背中を見る。皿洗いを始めたようだった。
 父と一緒に家で食事が取れるのは、月に数度あるかないかといったところだが、食事作りは交代なのに、皿洗いだけは自分がやると譲らなかった。趣味のようなものだろうか。
「ただ、僕が一人娘を愛してるんだってことを、残しておこうかと思ってね。家族の食卓なんて、ほど遠い生活だけど」
「お父さん」
 母が亡くなったのは、病を得ていたのに、父に合わせて無理をしていたからだと聞いている。父は母の様子に気付かず、みすみす死なせてしまったと悔やみ、変わったのだと。
 真砂子はそれを思い返して――溜息をついた。
「胃潰瘍があったからって、早々にこの世の整理をつけようなんて考えないでよ」
「だけど、胃に穴が空いたんだよ?! 胃液で内臓が溶けて、もう終わりだよっ!」
「・・・大丈夫だから」
 涙目で振り返った父に、溜息を押し殺す。
「ちゃんと、お医者さんの説明聞いてた?」
「うう・・・」
 もう少し、現状が続きますようにと、願う和やかな夜だった。

3. 銀色

 体温計を割ると、鈍く銀色に光る液体金属が流れ出た。水銀だ。
 生物には害を及ぼし、死に至らしめることもある。水俣病の原因と目されており、昔は中絶薬としても使われ、母子ともに死をもたらすこともあった。古代中国では、不老不死の秘薬の原料の一つとされ、服用を繰り返して死を早めてもいた。
 常温では液体という、少し変わった金属だった。
「ふうん。これが」
 可南子は、フローリングの床にある、強い表面張力で丸みを帯びている銀色のそれを、指先でつついた。
 テレビで見たことのある「ターミネーター2」の変幻自在の敵役が、変身するときにこんなふうだったなあと思う。あれのモデルはこれなのかしら。
「変なの」
 奇妙な感触だと思いながら、用意しておいた小皿に掬い上げる。手に傷はないから、とりあえずはそこから水銀が入るということはないが、傷があっても可南子は気にしなかっただろう。
 小皿を机の上に上げて、体温計の破片を小袋に拾い入れていく。大きな破片を取ってしまうと、掃除機をかけた。
 そうしてから、可南子は改めて、小皿に乗る銀色の金属を見やった。
「運を天に任せて・・・か。なんて思うかしらね、あいつ」
 そろそろ目立ってきたお腹をさすり、可南子は口の端を上げて笑った。
 小皿を取る。
 堕胎薬――そう、呼ばれていた時代もあっただろう銀色の液体を、可南子は一息に飲み干した。
 どのくらいで致死量なのか知らず、障害が残って生き延びるのかもしれない。あるいは、「二人」とも死ぬのか。
 結果はすぐに出るだろうか?

4. 秋桜

 コスモスみたいな女だ、と、言われた。
 別れ際の捨て台詞めいた言葉だったので、まさか褒め言葉と浮かれることはなかったが、なんだそりゃ、というのが正直なところだった。
「コスモスって…あのコスモス、だよねえ…?」
 菊科で、原産地はメキシコ。開花時期は、夏の終わりから冬の初めと、意外に長い。それだけ種類が多いのかもしれない。
 宇宙の方のコスモスではないだろう。
 宇宙のような女って、どんな表現だ。物凄く遠回しに「ブラックホールのような女」とでも言いたいのか。そう言うつもりで間違えたのか。
「…倒れても、茎から根を張り花を咲かせる。これか…? 詩人め」
 一人で過ごすと時間は思ったよりもたっぷりとあって、だらだらとネット検索を続けていたら、見た目に反して随分と強い、という呆れているのか褒めているのかよくわからない文章をひっかけた。
「神経図太いって言いたかったのかな」
 はああ、と、ため息がこぼれる。
 一人でもやっていけるよね。君に僕は必要がない。
 今までに投げつけられた別れの言葉を思い出し、ああそうなのかなあ、と思う。まさかそれらの言葉に、コスモスが並ぶとは思ってもみなかったのだが、多分、意味としては同じだ。
 言われるほどに自覚はないのだが、考えてみれば、血縁者に恵まれない割に、家族にも家庭にも幻想を抱いてはいない。一人でもどうにかこうにか生きていけそうな程度には、仕事も蓄えもある。
「でも、コスモスって群生してんじゃん」
 ぽつりとこぼれ落ちたつぶやきは、思った以上にさみしげな響きを伴っていたが、発言者以外には聞く者もなく消えていった。

5. 青空

「痛い。頭」
「そりゃあ痛いだろうよ。あれだけ豪快にぶつけりゃ。むしろ、痛くない方がやばい」
「・・・痛い」
 冬香は、高槻と並んで空を見上げていた。空は、青すぎて逆に嘘っぽい。
 冬香にとって高槻は、ただの同級生で、クラスメイトでしかなかった。同じクラスだから、名前や顔は辛うじて知っているが、一致するかは怪しい。そういった相手だった。
 多分、高槻にとっての冬香もそんなものだろうと、冬香は考えている。
「何見てたんだ?」
 地面に仰向けになったまま、上を指差す。
 そこには、嘘っぽい青空しかない。雲すらなくて、本当に嘘臭い。水に青い水彩絵の具を溶かしたような、それ。
「物好きだな。頭ぶつけてまで見るもんか?」
「頭、ぶつけたのは結果。ぶつけようとしたわけじゃないし、いつもはちゃんと避けてる。電柱くらい」
「ってことは、いつも見てるのか?」
「それなりに」
 隣で座っている高槻が、一度冬香を見て、また正面を向いたようだった。
「・・・物好きだな」
「うん。多分」
 ぼんやりと空を見ていた眼を、ゆっくりと閉じる。そうすると痛みが増す気がするが、それはそれでどうでもいい。嘘っぽい空は、思い出すととてつもなく綺麗なものになっているから不思議だ。
 頭の中にだけは、深くて果てしなく綺麗な、青空が広がる。それが好きだ。
 だから冬香は、思い出すための材料に、空を見上げているのかもしれない。記憶は、なんて嘘吐きなんだろうと思う。
「おい、宮島? まさか寝たのか?」
「寝てない」
 目を開ける。
 そういえば、高槻がいたんだったと思いだした。冬香にはなんとなく、人はうるさいというイメージがあるものだから、静かだと存在を忘れてしまう。
 家族や小学校のときの担任などは、そんな冬香を「夢見勝ち」と判じた。友人に言わせれば、「ぼけている」のだそうだ。
 嘘っぽい青空、綺麗に加工するための材料を記憶に叩き込んで、冬香は体を起こした。まだおでこが痛いが、気にならない程度だ。
「・・・なんか、宮島ってばねでも仕込んでありそうな」
「ばね?」
「動き方が。突然動くだろ。何、帰んの?」
「うん。夕方に用事あるから」
「そっか。じゃあな」
「うん」
 手を振る高槻に応えて、振り返して背を向けた。少し進むと、背後から声がかかった。
「もう、ぶつけるなよ」
 振り向くと、まだ土手に座っている高槻と一緒に、川に映った青空が見えた。

6. 焼鳥

 椅子に座るなりざっとメニューをめくって、焼き鳥、とオーダーすると、店員は笑顔でこたえ、隣に座った友人は不思議そうな顔をした。
 カウンター席で、どこにでもありそうなチェーン店でのこと。
「何。そんなに焼き鳥食べたかったの? あ、俺、白霧島お湯割りで。お前は?」
「生ビール」
 面白がるような訝しむような、さてどうやったら面白くなるかな、と企むように見えるのは、学生時代から変わらない。特技なのか欠点なのか、というのは、以前から本人も言っていた。
 俺は黙り込み、とりあえずビールの到着を待った。
 冷たいのと温かいのと、無言で打ちつけて、まずは一口。
「焼き鳥って言ったら、お前、何を…どんなのを思い浮かべる」
「は?」
 冊子状になったメニューに手を伸ばした友人は、手を宙で止め、まじまじとこちらの顔を覗き込んできた。そうしてから、うーん、と、わかりやすく考え込んで見せる。
 さほど、時間はかからなかった。
「鶏肉を一口大に切って、串に刺して、焼いてたれをかけたやつ」
「だよな!?」
「声、でかい」
 わるい、と一応謝ったものの、言葉は止まらなかった。
「幸香の家じゃ違うんだよ、串に刺さないんだ、焼いて炒めてたれからめて、それって焼き鳥じゃなくって鳥焼きだろ?! 食べやすいとかそういう問題か?!」
「俺に言うなよ」
「だって言えないだろ、肉買ってきて、一口大に切ってってやってるのに、冷凍でいいから串に刺さったやつがいいとか!」
「言えよ。俺に絡むくらいなら言えばいいだろそのくらい」
 いまだ独身の友人は、呆れたように視線をメニューに向けた。一度は止めた手を伸ばし、めくりはじめる。
「…お前はまだ、結婚というものの恐ろしさをわかってない」
「当たり前だろ。結婚する前からそんなものがわかってたら、一生独身だ」
「いいか? 結婚ってのは異文化交流だ。しかも、一度始めたらなかなか止められない。迂闊におかんの味と違うとか言ってみろ、空気凍るからな!? それとなく伏線張り巡らせて、やんわり誘導して、おそろしく手間がかかるんだぞ!?」
「人付き合いなんてどれもそんなものだろ。すみません、枝豆とだし巻き卵、から揚げをタコとトリ両方」
 わかってない、と続けようとしたら、「おまたせしました!」と、明るく元気に焼き鳥が届けられた。しっかりと、串にささっている。
 それを見遣って、友人は苦笑した。
「ほら、お待ちかねの焼き鳥だ。愚痴には適当に付き合ってやるから、とりあえず食べとけ」
「…ああ」
 何故だろう。
 焼き鳥といえばやはりこの姿でしか思い浮かばないのに、いざ目の前にすると、幸香のつくるあれはあれで食べやすいんだよなと、そんな事を思ってしまった。

7. 子供

 子供が怖い、と言うと、反応はざっくりと分けると二つになる。
 ああわかる。苦手ってことか。嫌いなの? わかるけどそれ言っちゃっていいの…? などなど。本人なりの解析をしたり、理解をしたり。とりあえずは、ああそうなんだ、というもの。
 何言ってるの。これは、人非人を見るようなものから、怒るもの、心底理解できない、という顔をされるものも。とりあえず、否定が返ってくる。
 でも、多分どちらも噛み合っていない。
 たしかに子どもの相手は苦手だけど、それはどちらかといえば人全般に言えることで、結局のところ合性で変わってくる。子どもとひとくくりにしたところでその中身は多種多様なのだから。
 そうではなくて、私が「怖い」のは、ただ一人の「子供」だ。
 「それ」の名前を私は知らず、呼ぶとすれば「子供」でしかないから、そう言うしかないというだけのことで。
 私がはじめてその子供を見たのは、大叔母の葬式だった。
 当時は私自身が十分に子どもで、親戚の子どもらとまとめて、葬式の邪魔にならないように適度に遊ばされていたのだと思う。見たこともない人たちが大勢いた。大人も、子どもも。
 だからてっきり、その子供もそういた親戚なのだろうと思っていた。というかまあ、当時の私は何も考えていなかっただろうとは思うのだが。
 次にその子供を見たのは、小学二年生の遠足の時。
 よく知らない同級生の後ろにぴたりといて、見覚えはないけど六クラスあったので気にならなかった。その子の前を歩いていた同級生は、遠足の途中で迷子になって、後日遺体で見つかった。
 次は、中学校の時の先生の葬式の場で。闘病の末のことで、クラス担任とはいえほんの短い間で療養に入ってしまったのだが、縁あって出席した。
 さすがにここで、妙なことに気が付いた。
 見知らぬはずの子供に、見覚えがある。せいぜい小学生、しかも低学年くらいの子供だ。そのくらいの年齢の知り合いはなく、増してや、学校関係者ならいざ知らず、他には接点のない人ばかりの場所だというのに。
 何をすることもない葬式の席で記憶をたどり、大叔母の葬式や遠足の時のことを思い出して、叫びそうになった。まさか、思い違いだ。だってそうだとすれば、あの子供は全く成長していない。
 気のせいだと、そのときは沸き上がった恐怖を押し込めた。そもそも人の顔をおぼえるのは苦手な上に、幼い日の記憶だ。思い込みだと言い聞かせるのは難しくはなかった。
 しかしその後も、子供を見た。
 祖母の葬儀で。
 通り魔事件の犯行をとらえた映像で。
 通院する老人の背後に。
 私は年を重ねるのに、その子供はまったく姿を変えなかった。死神なのか、何らかの魔性なのか。とにかく死にまつわる何かだと、そうとしか思えなくなっていた。
 だから――私は、子供が怖いのだ。いつ、私の背後に立つとも知れぬ子供が。

8. 回想

 幼い日、宙を飛んだことがある。
 正しくは、宙に浮いての落下。階段を駆け下りていて、足を滑らせた――のだとは、後で聞いた話。
 ふわりとした感覚だけが残り、気付けば階段の一番下に立っていて、ただただきょとんとしていた。
 他にも、自転車同士でぶつかって弾き飛ばされて気付いたら田んぼの柔らかい土の上に着地していたとか、車にぶつかって転がったとか、強風にあおられて自転車のバランスを崩して倒れたとか。
 どれも、多少の怪我はあっても気付けば無事に着地していた記憶ばかり。それらの光景がまざまざと目裏をよぎり、呆気に取られながらも意識の片隅に、あれもしかしてこれは、と思う部分もあった。
 もしやこれは――走馬燈?
 走馬燈。
 危機的状況や死の直前に、何とか生き延びようと過去の記憶からその術を手繰り寄せようと記憶をめぐらせるあれ。
 だがどれも気付けば無事だっただけで、何も――と思ったが、体は勝手に動いていたようだった。
 手足を中心に引き寄せるように体を丸める。ごくごく簡単な受け身だ。その際、頭を後ろにのけぞらせ、それについて行くように体ごと後方に重心を移したようだった。
 結果、こちらの首を絞めあげていた襲撃者に見事に頭突きを喰らわせ、相手の手は緩んだようだった。そのまま、後方へと倒れ込む。
 かくして、今回もまた、気付けば無事に済んでいたのだった。
 ただ、何故襲われたのかとかその襲撃者から本当に安全に逃れられるのかといったことは、また別の話だ。

9. 追憶

  折に触れて、思い浮かぶ情景がある。
 山間に沈んでいく言葉を失うような夕日や、雪にすっぽりと埋まってしまった足元、両手と足を思いきり使ってよじ登った木の上から見渡した景色。どれにも、弾むような気持ちやうっとりとした思いがくっついている。
 それらは、人によっては、ただの幼少時の思い出で片付くことだろう。
 だが、私は祖父母にさかのぼっても都市部に暮らし、イトコやハトコを手繰っても、幾つもの季節を過ごせるほどに頻繁に訪れる田舎はない。かといって、テレビで見た映像を自らのものと思い込むには一貫している。
 一体これは何なのだろうと思いつつも、何ら問題なく日常は流れていく。いつしか、それらの記憶に浸ることをひっそりと楽しむようにもなっていた。
 そうして、老境に至ってふと思う。
 人間、ボケた時には、案外昔のことはよく覚えているという。むしろ、昔の記憶の中にこそ生きるようになるのかもしれない。
 では――私が昔に戻るとき、その「昔」は、実際に体験したものだろうと体験したとしか思えないほどのしかし体験しているはずのない記憶の、どちらになるのだろう。
 そして、後者だった場合、果たしてそこに生きている「私」は私なのだろうか。

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12. 家鴨

 岸谷家には、ヒーローがいる。
 ヒーロー。英雄。非凡な偉業を成し遂げる人――では、ないのだが。
「やーっ!! でた出たでたッ! あっ君連れてきてッ!」
「あっ君! あっ君どこーっ!?」
 アヒルだから、あっくん。
 この単純極まりない命名方が、娘にまで及ばなくてよかったと思う、岸谷家三女であった。
 ともあれ、そのアヒルが、岸谷家の英雄だ。
 英雄を拾ってきたのは、雨の日に蠍を見掛けたこともあるという、岸谷家長女だった。
「いたわよ、さあ!」
 このアヒルのあっ君、当初はただのペットだったのだが、ある癖が判って以来、岸谷家の英雄となった。 
「早く食べちゃって!」
 ――何故か、ゴキブリやクモが、大好物なのだった。
 虫嫌いの一家にとって、それは、英雄的行動であった。


13. 波紋

「本が出る?」
「おうよ。さっき、担当の人と会ってきた」
「・・・そいつ、尻尾と角がついてなかったか?」
「悪魔かよ!」
 ありふれたコーヒーショップで久しぶりに顔を会わせた友人は、突っ込みさえ笑顔だった。羽根があれば、そのまま舞い上がって帰ってこないだろう。
 有紀は、甘ったるいコーヒーの亜種を飲み込み、うん、と、眉をひそめた。
「本が出る? 作家デビュー、じゃなくて?」
「・・・痛いとこ突くなあ」
 少し口惜しそうに、顔をしかめる。そうして、深々と溜息をついた。
「賞を取って出版は決まったけど、注目を集めてるやつでもないし、以降に仕事があるかはわからへん。下手したら、最初で最後の一冊」
「しかしまあ、オメデト」
「それを最初に言えよ。親友が夢の一歩を踏み出したってのに、喜んでもくれんなんて、冷たい奴や」
「冷たくて結構」
 こっちは、夢の足がかりすら掴めていない。
 心にさざめく嫉妬を誤魔化すのに、素っ気のない性格は、便利だった。
 そうして、友人はさまざまに有紀の心に波風を立て、最後の最後に止めを刺して行くのだった。
「お互い、頑張ろーな」
 いっそ夢なんて諦めてしまおうかと、思いかけていた有紀の心に、最大の波紋が広がった。

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17. 正装

「あっはっはっは! 服に着られてるじゃない。なっさけなー!」
「・・・うるせぇ」
 文句に力がないのは、達樹にも自覚があるからだった。しかし、中学生に学生服でない礼装が似合う方が少ないんだ、そもそも日本人に洋装なんて合わないんだと、心中ではでたらめに愚痴っている。
 そもそも、何故自分がこんなところにいるのかさえ判らない。少し前まで、こたつに首までもぐってぐうたらとしていたはずなのに。
 それなのに今は、叔母の着せ替え人形。
 じゃあこれは、これは、と次々に服を出されて、結局、私立の制服にありそうなオーソドックスなブレザーに落ち着いた。
 「やっぱこれよね」と肯く叔母に、始めの方に試着したことを覚えていた達樹が、恨みがましく「じゃあなんで、あんなに着せたんだよ」と言うと、あっさりと「面白かったから」との返事が返ってきた。どっと脱力する。
「おば・・・じゃなくて品子さん」
 ぎらり、と睨みつけられ、早口で訂正する。今、命の危険を感じたのは果たして気のせいだろうか。
「俺たち、どこに行くの」
「知り合いに呼ばれたパーティーに行くだけよ」
「え」
 叔母はあっさりと言ったが、パーティーなど、子供らしい手作りの誕生パーティー以外、直に目にしたことさえない。
 達樹の足がぴたりと止まり、叔母もそれに合わせて立ち止まった。
「俺、」
「帰るなんて言わないわよね、まさか。まさかねえ?」
 笑顔が、こわい。これが脅迫でなくてなんだと言うのか。
 達樹は、既に今日の予定は白紙であることを告げてしまった自分を呪いながら、顔を引きつらせて否定するよりなかった。
 逃がさないためか、手を繋いできた叔母をわずかに見上げる。
「でも、どうして俺?」
「まあ、エスコートとしてはまだ若すぎるわね」
 言って、くすりと笑いかける。背が低いことを気にしている達樹に「小さい」と言わないのは、ささやかな優しさだろう。
「あのねえ。今日の招待主が、すっごく嫌な奴なのよ。おまけに、ろくでもない自分の子供を随分と持ち上げてね。あれじゃあ礼儀知らずに育っても不思議じゃないわ、って言うか納得するわ、っていう可愛がりようでね」
「・・・行かなきゃいいじゃん、そんなの」
「色々あるのよ」
 その「色々」が仕事に関わるのか個人に関わるのかは知らないが、達樹は一層、自分が巻き込まれる理由がわからず困惑した。叔母の口調が少し淋しげだったのも、気になるところだ。
 しかし叔母は、そんなことはないと言うように明るく笑った。
「とにかく、あんたは堂々とまっとうにしてくれればいいの。礼儀知らずぶりを目立たせてやるわ」
「俺も、礼儀正しいってわけじゃないんだけど」
「普通に振舞ってくれればいいわ。どうせ閑なんだから、付き合ってよ。ね?」
「・・・まあ、いいけど」
「それでこそ、あたしの甥」
 他にも言いたいことはあったが、機嫌を損ねるのも厭で言うのはやめておいた。
 目的地に着くと叔母は、「さあ、行くわよ」と小さく、自分に言うようにして呟いた。
「あんたは、ちょっと見劣りしないくらいにはできた子なんだからね」
 突然の言葉に顔を上げると、青いパーティードレスを見事に着こなした叔母は、既に歩き出していた。


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39. 密会

 その時間、店内には数人の客しかいなかった。
 ノートを広げる大学生風の青年や、打ち合わせをしていそうなスーツ姿の二人組み、本を片手にカップを持つ女性。ざっと、それらの人を視認したところで、白いエプロンの店員が、笑顔で出現した。
「お一人様ですか?」
「あ、いや、待ち合わせしてるんやけど・・・そこ、そこにおるから、サンドイッチセット、紅茶で」
「はい、かしこまりました」
 営業用だろう高い声を背に、店の奥へ向かう。見知った背中があった。里奈だ。
「あほか。待ち合わせして入り口に背中向ける奴がおるか」
「痛っ! 何するのよ、バカ兄!」
「バカ言うな、あほ」
 長い髪をそのまま垂らした頭を軽くはたいて、当然のように向かいの席に座る。そうして、正面から幼さの残る顔つきの少女を見て、ふう、と溜息をついた。
「変わらへんなあ・・・。もうちょい変わりようってもんもあるやろーに」
「お兄ちゃんこそ変わらないじゃない。どうせ、彼女もいないんでしょ。淋し―い」
「はん、そんなん、見る目のない奴が多いだけや」
「あ、やっぱりいないんだ」
「だから何や」
 睨み合って、ふ、と同時に笑う。
 丁度サンドイッチセットとケーキセットが運ばれてきたため、二人は早速、各々手を伸ばした。
「なんだか恒例になっちゃったねー、この密会」
「密会ってなあ・・・」
「じゃあ逢引?」
「どこにそんな色っぽさが。――あっ、何するんや!」
 三角に切ってあるハムサンドを取られ、負けじとティースプーンでモンブランを削り取る。
 かたや大学生、かたや高校生。いささか子供っぽいが、小学生のときに別々に片親に引き取られて、近年になってからようやく年に数度合う程度では、多少羽目を外しても仕方はないのかもしれない。二人の時間の多くが、幼い日で止まっている。
 最終的に、それぞれのたのんだものをほぼ半分ずつお腹に収め、二人はティーカップに手を伸ばした。
「で。そっち、再婚するって?」
 水を向けると、うん、と頷く。長い髪が、さらりと揺れた。
「多分隠してるつもりなんだろうけど、バレバレ。大学決まるまではそっとしとこう、とでも思ってるんじゃない?」
「ふうん。あの人も、変なところ鈍いからなあ。お前はどう思ってるん?」
「別に? 一人になってもう何年も経ってるんだし? あたしだってもう子供じゃないんだから、お母さんの勝手でしょ?」
 意地張らんでも。嘘つくには向いてないんやから。そう思ったが、とりあえずは言わずに置いた。
 今度は逆に、里奈が訊く。
「そっちは? 相変わらずの学者バカ?」
「ああ。いまだに、ろくに飯も食わんわ。見捨てたくなったんも、ちょっと判る気ぃする」
「あははは」
 離婚を切り出したのは父からで、二人はその詳しい経緯は知らない。正確には、知ろうとしなかった。親戚から聞こえてくる噂にも耳を塞いだ。
 その後も互いの近況を混ぜた雑談をして、店を出たのは随分経ってからだった。
「次はいつ来るの?」
「うーん。まだ判らんから、またメールする」
「わかった。じゃあね」
「おう」
 あっさりと、店の前で別れる。
 この距離感が、二人を兄妹として再構成しているようなものだった。よく知っているから、殊更に知ろうとしなくてもいいのだ、と。無論、ただの幻想と知ってはいるのだが。
 この密会がいつまで続くのか、そして本当に両親に知られていない「密会」なのか、それは二人にも判らなかった。


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66. 結婚

 結婚式においての、ある意味で目玉。花嫁のブーケが、高く宙を跳んだ。
 前に詰め寄っているのは、主に未婚の女性たち。孝司は、同じ独身女性のはずの、隣に足つ留美を見やった。ちなみに二人は、女性たちの集団の少し後ろ辺りにいた。ここからでも、今日の主役の二人はよく見える。
「君は行かないの?」
「だって、ただのジンクスでしょ?」
 肩を竦める。声をわずかにひそめているのは、前にいる集団に聞こえるのを憚ってだろう。
 孝司は、二度ほど首を縦に振って同意を示した。
「全く、誰が言い出したんだろうね。でもね」
 わっ、と人々が動く。花嫁が、ようやく花束を投げたのだった。実は小学生の頃からピッチャーを務めてきた花嫁は、小さくきれいなフォームで投げやった。
 多くの手が伸ばされ、更に多くの目が追った花束は、なんと、詰め寄った女性たちの頭上を、ただ通過して行った。そして、離れていた孝司と留美の元へと落下してくる。
 何人かの女性が追いかけてきたときには、花束は既に、孝司の手に収まっていた。
「・・・恨まれるわよ」
「うん、その覚悟はしてる」
 半ば呆れて、半ばからかっていった台詞に予想外の返事が返って来て、留美は意外そうに目を見張った。
 孝司はにっこりと笑うと、降って来たばかりの花束を留美に差し出した。
「でもね、これはこれで夢につながると思うんだ。――留美、結婚しよう」 言葉を失った留美が、しばしの忘我状態を抜けて何かを察して視線を向けると、少し高くなった台の上で、親友の花嫁が笑っていたのだった。
 つまりは、そういうことだった。 


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70. 水鏡

 雨が降った後の運動場には、大きな水たまりがあった。
 上から覗きこむと、雨雲を退けたあとに広がる濃い青空と、不満そうに見下ろす貧相な少女が、磨き上げた銅鏡のような水面に映っていた。
「あーあ、晴れちゃったよ」
 ぼやきともとれる言葉を吐き出して、溜息をつく。
 今日は、全校あげての写生大会だ。好き嫌いは置くとして、校内のほとんどの者が天候を気にしていた。
 朝は勢いよく降っていた雨は、二時間目には大分弱まり、四時間目が始まる頃にはすっかり止んでいた。そして今、五時間目開始時に至っては、見事なほどに晴れ上がっている。
 生徒と教師の多くは、学校を出てすぐの山へと画題を探しに行き、校内やグラウンドに残っているのは、ほんの数人程度と思われた。それでなくても、全校で二百人を越すかどうかという小さな学校だ。
「晴れちゃったなあ」
 呟いて、画板を抱えなおす。
 写生自体は嫌いでもないが、中途半端に雨に邪魔をされるくらいなら、いっそ中止になって授業を受けた方がましだったと思えてしまう。
 制服のプリーツスカートを汚さないように気をつけてしゃがみ込むと、水たまりに顔を近づけて覗き込む。
 指先で水をつつくと、波紋ができた。映った空が、奇妙に歪んだ。
 不意に、ゆがんだ自分の顔がにこりと笑ったような気がした。
「ん?」
 首を傾げて、なんとなく立ち上がる。
 何の変哲もない水たまり。銅を磨き上げた凹面鏡のような水面。映しているのは、ひたすらに青い空と訝しげに覗き込む少女。
「ん――っ?」
「明日も、晴れるよ」
「・・・・・・」
 はっきりと、自分の声が聞こえた。
 水たまりに映った自分が笑顔で口を動かすのも、見た。おまけに声は、下の方から聞こえた。
 しかしそれは、有り得ないことのはずで。   
「明日?」
 何か反応があるかと口に出して言ってみるが、何もない。水鏡に映る自分は、やはり訝しげにしている。
「・・・明日、晴れるって?」
 いくら見ても、何も起こらない。
 そのうち、諦めて水たまりのふちにかがみ込むと、画板を抱えなおした。持参していた色鉛筆をはしらせる。
 その日、少女は空を映す運動場の大きな水鏡を、画用紙に描き留めた。


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74. 微熱

「こら、康隆。ちゃんと寝てなさい」
 怒っているわけではなくて、慌てているような感じで。
 康隆は、うんざりとして母を見遣った。手には、携帯型のゲーム機が握られ、今も、明滅している。
 童顔の母は、ぱたぱたと駆け寄ってきて、危うく、手に持ったすり下ろしりんごをこぼしかけた。
「おかーさん、あぶないよ」
「康隆が寝てないからでしょ、熱が上がったらどうするの!?」
「だいじょうぶだよ」
「駄目よ」
 頼りなく、しかしきっぱりと言いきった母に、康隆は、一層顔をしかめた。こういうところだけ「大人」なのだから、手に負えない。
「ただのビネツだよ。へーき」
「駄目。そんなこと言ってて、何かの前兆だったら大変でしょう? お願いだから、ちゃんと下がるまでは寝てて。肩が冷えるから、ゲームも我慢して、ね?」
 頭ごなしに叱りつけられればもっと反論のしようもあるが、涙を溜めんばかりに説得されては、言いようがない。
 自覚もないのだが、諭されて布団に戻る。
「よろしい」
 にっこりと笑って、りんごを入れた容器を置いて、戻っていく。
「・・・絶対、明日は学校に行ってやる」
 図工の時間を休んで、作業に出遅れるのは厭だ。大体。
「あんまりカゼもひかないからって、はしゃいじゃってさー」
 溜息をつく。
 康隆の熱は、子供用の体温計でさえ、ようやく六度八分というところだった。

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95. 車窓

 窓の外には二重映しの風景があった。
「お兄ちゃん、何見てるの?」
 ようやく中学生、といった少女。二つにくくっている髪は、ほどけば肩につくだろう。
 車窓に反射する妹を見て、兄は口を開いた。
「外」
「・・・何か見える?」
「お前の間抜け面」
「もう、お兄ちゃんとは口利かない」
 そっぽを向く。
 車内には、電車の走る音だけが聞こえる。夜も遅く、ぽつりぽつりとふさがっている座席では、ほとんどが淋しく、舟を漕いでいた。
 近付いて遠ざかる人工灯を目で追う。
「暗い窓って、鏡みたいだな。でも、映すだけじゃなくて、実はちゃんと外の風景も見えてる。二つの世界が重なって見える。現実と夢や、この世とあの世ってこんな風なのかなって、見る度に思うんだ」
 単調な振動に身を委ねたまま、兄はじっと窓を見詰めていた。
 兄が話始めるのとほぼ同時にこちらに向いていた少女の瞳が、狭い窓の中できらめいている。
「お兄ちゃん、変なこと考えるんだね」
「口利かないんじゃなかったのか?」
「いじわる!」
 ぷつ、と独特な音がして、鼻にかかった声が次の到着駅が近いことを報せる。
 兄は、ひざに置いていたカバンを手に持つと、立ち上がって近くの扉に近寄った。扉にはまった細長いガラスに、クリーム色のセーラー服と黒のプリーツスカートの制服姿の妹が映る。
 駅に止まり、電車は降りた乗客を残して走り去っていく。
 心持ち、灯りの弱いホームで、男は最後まで電車を見ていた。その、窓を。
「帰るか・・・」
 呟いて、カバンを斜め掛けにして改札へ向かう。足音は、ひとつしかない。 
 途中、通りかかった鏡をちらりと見て、苦笑した。
「映ってるわけ、ないか」
 全く冴えない、眠そうなかおをした男。自分しか、映ってはいなかった。
 鏡には、二重映しの風景などない。


96. 花葬

『私が死んだら、棺桶はいらないから、土に埋めて、その上に花を植えてね』
 一体どうしてだったか、彼女とそんな話になった。
『私の抜け殻から養分をすって、綺麗に花が咲くの。花に囲まれるの。すごいでしょう?』
 あまりに楽しそうに笑うものだから、僕も、つい頷いてしまっていた。
 綺麗なのか恐ろしいのか、考えてもよくわからなかった。それは、今でも変わらない。
 どうせお棺に入れるときに花に囲まれるのに、それだと駄目なのかと訊くと、あんなのじゃなくって、花の一部になるの。鳥葬みたいに、と返された。
 するとさしずめ、花葬か。
 そう言うと、彼女は妙にはしゃいだ。
『ねえ、あなたはどうしてほしい? 言ってくれたら、ちゃんとその通りにするわよ。代わりに、私が先に死んだら、言ったとおりにしてね』
『そうだなあ。消し炭になるまでしっかり焼いて、川にでも流してくれたらそれでいいよ』
『川? 海じゃなくていいの? 日本の川なんて、凄く汚れてるのよ?』
『うん。川でいいよ。いや、川がいいな』
 なんとなく微笑んでそういうと、彼女はにこりと、子供のように微笑み返した。
『わかったわ。きっとそうする。――あなたが先だったら、だけど』
 そんなことを約束し合って、そのときの会話は、他愛なく他の話題に移っていった。まるで、冗談だったと、うっかり思い過ごしそうになるくらいに、容易く。
 けれど彼女は本気だったし、僕だって本気だった。
 ただ、来るかも知れないそのときに備えて、いろいろと調べなければならないのだろう。例えば、棺にも入れない土葬は、死体遺棄にはならないのかとか、そういったことを。
『頑張ってね。だってあなた、法律屋さんでしょ?』
 にこりと笑う彼女は、そのときを、待ちわびているようにも見えた。


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