第一章 肆の途中

すべてを懸けても、返そう。


「眠れませんでしたか?」
「いや。早いな」
「そうでもないですよ」
 早朝、まだ日も昇らないうちに起きるのは、商売をしていればそう珍しいことでもない。特に今日は、長く――もしかするとずっと、家と店を空けることになるのだから、確認とはいえ、使用人たちや従妹に、声をかけていくつもりだ。
 戻は、否定した割にははれぼったいまぶたをしていた。
「少し時間がありますよ。もう少し眠ってはいかがです」
「いや」
 珍しく見せられた躊躇いに、何かあるかと言葉を待つ。しかし、なかなか口は開かれなかった。
 庭に並んでいると、昨夜の続かのようだ。
「戒」
「はい」
「お前は残れ」
「お断りします」
 即時の返答に、不機嫌そうに睨みつけられた。しかし、戒にしてみればごく当然の答だ。
 いつか、戻が宮廷を出ることは判りきっていた。あんなところに留まれる人ではない。
 そのときには、必ずついていくと決めていた。妖人の戒にとってもこの場は最適ではなく、必ずしも戻のためだけではない。
「僕の意思ですよ、これは」
 店を継いだのは、母の意志。盛り立てていくのは、祖父母の意思。これは違う。
 深く重く、戻は息を吐いた。
「わかった。だが、戻りたければ意地を張らずに戻れ。いいな」
「承諾して、それで納得していただけるのなら、喜んで」
「・・・厭な奴だ」
「そんなことは、疾うにご存知でしょう」
 眉間にしわが寄っているのは、戒を不快に思ってのことではないと知っている。以前よりも感情をさらさないのは、采が――養父が殺されたからだろう。その割には角が丸いのは、同行していた少女たちのおかげなのだろうか。
「もう、失うのは厭なんだ」
 ぽつりと、零れ落ちた本心。
 十七と言う年齢よりも、我を張って大きく見せている少年は、今は相応に見えた。視線は、見えていないだろうが庭を向いている。
「簡単に、失うことを考えないでください。そこまで弱くはありませんよ」
「父も強かった。それでも――殺された」
 戻の言う「父」は、養父の舜采でしかない。それ以外を呼ぶことは、おそらくはないだろう。 
 何しろ、戻は血のつながった「父親」に捨てられ、その上、養父まで殺されたのだ。そんな相手を、父と呼べるはずもない。
 戒や母に詫びる、舜采を思い出す。本心から悔い、悲しむ様子を。そして、そこから逃げない人だった。
 父を殺し、母を狂気へと追いやることになった人だが、既に怨みはない。そしてかの人は、戻の絶対の存在だった。例えるなら、戒にとっての戻のように。
「努力はします」
 応えはない。
「そう簡単に、死ぬつもりはありませんよ。あなたの前で。――すぐに、朝食を用意させます」
 そう告げて、返事も待たずに使用人たちの元へと向かった。
 失う痛みは知っているが、同じものということはなく、それを埋める言葉を、戒は知らない。それならば、確約だけを告げよう。それしか、できない。
 朝の風は、ひどく澄んでいた。


縋ってしまう弱さは、確かに、己の中に在った。



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