終業を告げるベルが鳴り響くと同時に、男は同僚と言葉も交わさずに会社を後にした。
引っ越してきて以来、ずっとちかちかしている裸電球はアパートの長い廊下をより長く暗く冷たく感じさせた。男はくたびれた灰色のコートのポケットから部屋の鍵を取り出す。カチッという乾いた音をたてて扉が開いた。
男は買ってきたビールを、棚から取り出したカクテルグラスに注ぐ。
ビールの泡がカクテルグラスのふちを飾る。それはなんとも奇妙で不恰好なありさまだったが、微妙はバランスを秘めているように思えた。
男はグラスを見つめた。その表情はただ呆然としているようにも、何かを深く考えているようにも見えた。やがてグラス手にとり口元までゆっくりと時間をかけて運んでいく。
唇がグラスにつこうとした瞬間、思い直すようにグラスを遠ざけた。今度もゆっくり時間をかけて。自分の震える手を自制しながら。
テーブルにグラスが戻される。
そのとき少しだけビールが零れた――。
「・・・・・・・。」
男は頭を抱え、いやいやをするように首を振った。そして助けを求めるように視線を泳がせる。
部屋は雑然としていた。引っ越してきたときのダンボールがそのまま放置され、衣類や本が床にばら撒かれている―――それらはけっして生活の跡には見えなかった。
男の視線は部屋の隅に置かれているモノの上で止まった。
赤いランドセル。
それはどうみてもこの部屋の雰囲気から逸脱していた・・・・・。ランドセルの赤が雑然とした灰色にみえる風景のなかで、異様に映えていた。
「・・・・・・。」
男がランドセルを見つめる表情はさっきのグラスを見ていたときのものとは違い、明らかに感情が混じっていた。
そのランドセルは男の娘のものだった。よく笑う無邪気なこどもだった。
「お父さんにね、ピンクのランドセル、買ってもらったんだよ!だからコレはもういらないの」
男に頬を高潮させて告げ去っていった娘は、とても愛らしく同じくらい残酷だった。
妻が浮気しているのは知っていた。娘にお父さんと呼ばせたのは妻だろう。だが、男にはそれをどうこう言う勇気がなかった。言う資格さえないような気がしていた。
男は立ち上がり床を埋め尽くしている新聞を拾い始めた。片手で抱えきれるほどの量が集まると、もう一方の手でランドセルを持ち、男は外へ出た。
もう3月も半ばだというのに空気は凍るほど冷たい。空には膨らみかけた白い月が浮かんでいた。
夜の公園は、昼間のにぎやかさが嘘のように静まり返っている。
男は砂場にしゃがみ、ポケットからライターを取り出した。そして持ってきた新聞に火をつける。
小さな火が生まれ、ゆらゆらと揺れながらゆっくりと新聞を焼いていく。
男はそれをしばらく見つめていたが、やがてもってきたランドセルをその中に放り込んだ。すぐに表面のビニールが溶け、特有のにおいを放ちながら革が焼けていく。
風に揺らされた炎が男を照らし出した。
―――褐色の肌に、緋色の瞳。
それは男が異郷のものである象徴であった。
それがために男は妻に何も言えなかった。自身の容貌のせいで彼女までつらい扱いを受けてしまったのだから。
"I had told her to be happy…"
男は、燃えて形がなくなっていくランドセルを見つめながら自嘲するようにつぶやいた。
その瞳には涙が、溜まっていた・・・。
細い白い煙が、助けを求める狼煙(のろし)のように、空に向かって伸びていた―――
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||