砂塵の向うは違う国。今少年の立っているところからたった一歩踏み出すだけで、そこはもう異国なのだ。
「よお、ジョージじゃねえか」
さして興味もなさそうな声で、お決まりのセリフを投げてくる。やたら図体のでかい男が昼間っから酒を片手に歩いて来るところだった。多少酔ってはいるようだが、顔色に変化はない。男はこの町一番の酒豪だ。
「おめえさん、そんなとこにいっと打たれちまうぞ」
そう言うと、男は口にバーボンのボトルを突っ込み豪快に呷った。
「わぁってるよ、国境だからな」
ジョージはくるりと踵を返すと、すたすたとその場を離れようとする。その姿はどこか気落ちした風だ。
「なんだあ、昼間っからしょぼくれて。若いモンが」
「うるせえな、ジェイコブ。確かにてめえからしたら俺は若モンだろうがよ」
町の人間でジェイコブのことをジェイコブと呼ぶ人間はジョージ以外にはいない。人当たりがよく、面倒見もよいので皆彼のことを愛称のジャックで呼ぶ。ジャックはジョージのことを格別に気にかけているが、当のジョージは煙たがるようにして愛称で呼ぶことさえしない。
ジャックは、振り返りもしないで去っていくジョージの背中にバーボンのボトルを掲げて言った。
「おい、飲まねえか」
「遠慮しとくね、昼間っから酒なんて。俺はあんたみたいなダメ人間にはなりたかねえんだ」
「あ? オレのどこがダメ人間だって?」
十三も年の違うジョージに随分な言われようなのにもかかわらず、ジャックは屈託なく答える。別に酒によっているからというわけでもなく、この男はいつもそんな感じだ。
「第一な、ジェイコブの酒は臭いんだ」
わざとらしく大声で言うと、そのまま横道へとそれて姿が見えなくなった。
「焼いた葱を漬け込んだバーボンはなあ、体にいいんだぞお」
負けじと返してみたところで、もちろん返事は無い。ただ空しく風にかき消されてしまった。
「おーい、返事しろお」
夜にもなると、昼間の格好では寒くて到底外には出歩けない。薄手の外套を羽織ると、奥で針仕事をしている妻に声をかけた。
「ちょっくら出かけてくるわ」
「まああなた、今からですか?」
針を動かす手を休め、女は顔を上げた。整った顔立ちに美しいブロンド。気立ては優しく、家事もよくこなす。ジャック自慢の妻だ。
「すまねえな、ちょっと酒場に顔を出すだけだ」
近寄ってきた女は、ジャックが掛け違った外套のボタンを上から順に掛け直す。
「そうですか。あまり遅くならないでくださいね」
ジャックは愛しい妻の頬に手を伸ばすと、そっと口付けした。
「じゃあな、サリー。先寝てていいぞ」
「ええ、行ってらっしゃい」
天井から吊るされた裸電球は、今にも切れそうなくらいにさっききから明滅を繰り返している。ジョージはそれを迷惑そうに顔をしかめて睨む。扉の開閉を知らせる鈴が小さく鳴った。
「いらっしゃ……」
「相変わらず寂れてるなあ、ここは」
ジャックの姿を見て取ると、それなりに愛想良くしてみた顔をすっと背けた。
「なんだ、ジェイコブかよ。てめえに出すような酒はここにはねえぞ」
「おいおい、それが客に対する態度か。それにここは、この町で唯一の酒場だぜ」
「だから?」
「他に酒を飲める場所がどこにあるよ?」
「だったらうちで飲めばいいだろ。みんなそうしてんだ」
「まあな」
と言ってジャックはジョージの目の前のカウンター席にどっかりと腰を下ろした。改めて店の中を見渡してみるが客は一人としていない。
「はあ、大変だねえ。人っ子一人いやしない」
「今に始まったことじゃねえよ。――母さんがいた時だって同じだった」
「確かに」
「――」
ジョージは意を決したように口を開いた。
「オレ、この店たたむわ」
「――は?」
あまりに突然な、予想だにしない内容の告白にジャックは思わずジョージの顔を凝視した。
「何だよ、気持ち悪いな」
ジャックはしばたいてもう一度よくジョージを見る。
「本気か? 何でだ?」
「本気さ。今日国境に突っ立ってた時に決めた。もうこの店をやってく余裕も気力もなくなったんだ」
「だが、それでどうするんだ」
言ってからその問いの無意味さに気付き、そしてあまり聞きたくない答えを自ら導いてしまった己の愚かさにジャックは小さく舌打ちした。
「もともとよそ者のオレには居場所なんてなかったからな。店をたたんだらこの町を出るしかない」
「親父さんはどうする」
ジャックはもうどうにでもなれと、なかばやけになって訊いてみる。
「ま、実のところそれが店をたたむ本当の理由かな。親父を待つ意義を感じられなくなったから店をたたむ。ちょうど他にも問題はあったし。いい機会だから、こっちから探しに行ってやろうかと思ってさ、あっち側に」
ジョージの「あっち側」という言葉にジャックは反応した。
「だが、お前はまだ……」
「そうさ、オレはまだ16しか生きてない。あっちへ行くにはまだ早い。でもそんなこと言ってられないんだよ、ジャック」
ジョージはこのとき初めてジェイコブのことを愛称で呼んだ。もう会うことのない恩人に敬意を込めて。
「そうか……」
そう言うと、ジャックはおもむろに自分の首の後ろに手を回した。
「じゃあ、これをやるよ。返すって言ったほうが正しいけどな」
「なんだ、これ」
ジャックに手渡された物を見て、ジョージはいぶかしげに問う。
「お前の親父さんの形見だよ」
「親父の……なんで?」
手の中の物を握りしめながら、いくぶん神妙な面持ちでジャックの顔を覗き込む。
「何だ、気持ち悪いな。いくら俺の顔を見たところで、答えは書いてないぞ」
「なんで、親父の形見をジェイコブが持ってるんだ……」
いつもの慣れで、再びジェイコブのことをジェイコブと呼んだことに二人は気付いていないようだ。
「お袋さんとお前をおいてあっちへ行っちまう前に渡されたんだ。もしお前がこの町を出るときが来たら渡してくれって」
「出なければ、渡すなと?」
「そうだ。これは旅のお守りなんだと」
そこで、ふと何かに気付いたふうにジョージが顔をしかめた。
「旅のお守りを何でお前がつけてるんだ」
「だってなくしちゃあマズイだろ?」
「……なくさねえよ、普通」
「じゃあな、気を付けて行ってこいよ。帰りたくなったらいつでも帰ってこい、歓迎するから」
「ジョージ、忘れ物ない?お守りはちゃんとつけてる?」
ジョージがあっち側へ旅立つ日。そこには二人の見送りがいた。ジャックとその妻サリーだ。
「あー、うるさいな!ガキじゃねえんだから。それに俺はもう帰ってこないからな、こんなちんけな町」
「おーおー、強がって」
ちゃかすジャックを尻目にジョージは馬上からサリーに顔を向ける。
「サリー、見送りありがとう。昨日のオイスターカクテルおいしかったよ。ありがとう」
「お守りは?」
「サリーってもしかして心配性?大丈夫、お守りはちゃんとつけてるよ、ほら」
そう言うと、首にかけたネックレスのヘッドを胸元から出した。その手にはシルバーの銃弾が握られている。
「ジャックはいつもそれを肌身離さず持ってたの。お父さんだけの形見だとは思わないで、ジョージ」
「うん、わかってる」
ジョージはジャックをチラッと見て言った。
「それじゃ、もう行くわ」
「おう、死ぬなよ」
ジャックは手を差し出す。
「当然」
その手を握り返すジョージ。素肌を通して、最後の別れを告げた。
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