空と地上

 強く地面を蹴れば、強く、強く足を踏み切れば、するりと空に泳ぎ出せる。

 今となってはそれが当たり前のようなつもりになってしまって、言われてみれば幼い頃は空を泳ぐなんてできなかったなと、思い出す。そしてふと、不安に襲われたりもする。今のこれはお伽噺のような出来事で、ある日ふっつりと、何もかもなかったことになるのではないか、と。

 生物学者も科学者も、SF評論家も、皆が皆、揃って仰天したこの世紀の大事件は大きく取り上げられ、だが未だ、明確な原因やら理屈は見つけ出されていないようだ。それなら、やはり何もわからないうちに元に戻ってもおかしくはない。

 それでも、そんなことをいつも考えるわけではなくて、大体は、生まれるずっと前から、世界の始めから空で泳げていたような気分でいるのだが。

 灯は、蹴り出た窓を振り返りながら、夜空に身を委ねた。昼間の青空も好きだが、溶け込んでしまうような夜の闇空も好きだ。

 地面に別れを告げると、導かれるようにある程度の高さまで浮かび上がる。そうやって潮の流れに身を任せ、漂うだけでいくらでも時を過ごせる。ただ、昼間は人が多いから、夜の方がゆっくりできる。

「よー、アカリ。こんな時間に何やってんだ、フリョー」

「わー不良に不良呼ばわりされたーショックー。てかただの散歩だし」

「へっ」

 たまに顔を合わせる散歩仲間に鼻で笑われ、灯は、力を抜いていた体に力を込め、殴る振りをして見せた。相手はそれを受けて、やられたー、と、大袈裟なリアクションを返す。付き合いが良い。

 散歩仲間は、鯖の仲間かと思うくらいに銀色を身に着けている。足元で光るネオンをはじき、色とりどりの光を纏う。それは、新種の魚のようでもある。

 灯は、そんな姿をまじまじと見詰め、ぽつりと呟いた。

「間違えて狩られない?」

「は?」

 殴られた演技をしていた少年が、ぱちくりと瞬きを繰り返す。夜空とはいえ光がないわけではなく、ある程度の動きは判る。

 灯は、またやっちゃった、と苦笑した。少年の方も、慣れているのですぐに、今度は逆に灯を小突く。

「主語述語はきっちり言え?」

「ごめんごめん。そんなきらきらしてたら、魚と間違って狩られちゃわないかなーと。最近、不法業者もはびこってるらしいし」

「オレがそんなヘマするかよ。つーか、何気に失礼じゃね?」

「そ? いいじゃん、魚きれーだもん。あれが晩御飯になるとか、え?って思うよね」

「…いつもながら、オマエの感覚はよく判らん」

「えー?」

 他愛ないことを言い合い、笑う。

 クラスメイトが見れば驚くだろうなと、ちらりと思う。教室の灯は、どうも笑わないことで有名になっているらしい。学内で唯一の友人の幼馴染が、そんなことを教えてくれた。

 今も、暗くなければ笑うことはできないのだろう。そこも含めて、夜泳ぎは好きだ。

「なあ、アカリ」

「うん?」

「…やっぱ、いいや」

「えー? たち悪いなあ、言いかけてやめないでよー」

 笑いながら、本名も知らない少年と一緒に、灯は夜の空を漂った。



「おはよ」

「…おはよう」

 元気溌剌とした声に、灯は、ぼそりと返した。たが、相手が気にした様子はない。毎朝のことだ。

「ちゃんと寝た? 今日、朝一で体育でしょ。今度寝不足で倒れたら、説教何時間コースか…賭ける?」

「賭けない」

「なーんだ、つまんない」

 少年のように口を尖らせて、幼馴染は空を仰いだ。仰いで、即座に眼を逸らす。頭上では、群れ泳ぐ魚の鱗が太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。

 空の海には、いくつか水の海とは違った特徴がある。そのうちの一つが、無機物は浮かばない、ということだろう。人でも息ができる、というのもある。しかし、いくつかの水の特性も備えている。

 そのため一時、空の海での自殺がはやった。

 手首を切っての自殺はなかなか成功しないものだが、太い血管を切り、血が止まらないようにすればあるいは成立する。自殺志望者が湯船に水を張り、そこに切った部分をつけて血が固まるのを避ける。空の海でそれをすれば、空を漂い綺麗な景色を見ながら最期を迎えられる――と、流行した。今でも、年に何件かはあるらしい。

 そして自殺者は、事切れた瞬間に空から落下する。

 灯の幼馴染、秦野美希は、落下するその瞬間に遭遇してからというもの、空を泳ぐものが苦手になってしまった。暇さえあれば見入っている灯とは対照的だ。

「ねえ灯、あんたもそろそろ卒業なさいよ? 暗くって飛行機とか鳥や魚にぶつかったとか、もうずっとあそこに浮かんで降りてこないとか、たまにあるけど、ああなってからじゃ遅いのよ」

「ありがと。忠告だけ貰っとく」

「…馬鹿」

 言葉だけではなく本当に、ありがたいと思っている。

 美希だけが、灯のことを心配してくれる。灯は既に両親にも見放され、夜の外出も我関せずで、学校に通わなくても何もいわないだろう。ただ、顔を合わせるたびに溜息を落とされる。クラスメイトたちにも、存在はほぼ無視されている。これは、半年ほどもたつのにろくに顔も覚えていない灯にも問題があるだろうが。

「空での事故死なんて悲惨なんだからね。落下して、ばらばらになって。顔の区別すらつかない肉片になって」

「うん」

「あ。ちょっと急ごう」

 話を変えたかったのか、腕時計を確認して足早になる。頷いて、灯も、小柄な美希を追った。


 
 ふうわりと空に浮かび、うーん、と、灯は腕を組んだ。水面に浮かぶラッコのように、知らずに背が丸まっている。

 潮の流れに任せ、自分がいる場所もよくわかっていないが、空の海は水の海ほど流れが強くないので、案外簡単に流れを遡って帰り着ける。潮の流れが変わって迷子になることもあるが、灯はそろそろ、近隣の上空は見慣れてきている。

「よー、アカリ」

「ん。ああ」

「…どうした?」

 今日も銀色の服に地上の明かりを反射させながら、少年は、灯の顔を覗き込むような仕草をした。実際には、灯が素早く手でガードしたために、大きく距離を取っていたが。

 灯はもう一度、うーん、と唸り、少し姿勢を変えた。ちらりと少年を見る。

「この頃のさ、落下、聞いてる?」

「ああ、犬とか猫とか、農薬飲まされて空に浮かべて殺されてる、とかってやつか? それの心配してたのか? まあ…近所だけど」

「空の潮のデータ見たら、多分出発点、ウチの近くなんだ」

「…え」

 ぱちぱちとまばたきを繰り返し、少年は灯を見た。

 空の潮の流れは、気象庁といったプロを始め、観察好きの個人も含め、多種多様に提供されている。ネットで検索をかければ、どれを見るか迷うほどだ。

 灯は、それらと検証サイトや計算のやり方などと、いろいろな情報をネットで片端から仕入れ、最近、とりわけこのあたりで話題になっている事件を自分なりに考えていた。

 はじめは、野次馬に近い好奇心だった。

 小動物を殺すというのは、おそろしいことに、ありふれたとまでは言わなくても、ないことではない。それでも、近所で今このときに起こる、となるとやや勝手が違う。そんな目新しさに手を出して、だから、犯人を捕まえようと思ったわけでも、ネットの片隅のお祭り騒ぎに乗っかろうとしたわけでもない。下手をすれば、それらよりもずっとひどい関わり方だ。

 ――手にした結論めいたものに、どうしたらいいのか判らなくなった。

「どうしたもんかなあ、と思って」

「どうって…捕まえてやめさせた方がいいんじゃないか…?」

「でもさー、あたしがやって判るくらいなら、警察とかも判ってそうだし。それなら結局、何もやることないような気もするし。変に引っ掻き回しても悪いしなー、って」

「…そう思うなら、悩んでねーんじゃねーの?」

「そーなんだよねー。もやっとは、してる」

 ふわふわと空を漂いながら、思考も泳ぐ。少年に話しながら、灯は、独り言を呟いているような心地にもなる。

 探偵になりたいわけでは、ない。

 辞めさせたいかと問われれば、それはもちろん。

「とりあえず…たれ込みとか? 付き合いのあるおまわりさんとかいねーの?」

「そんな都合のいい」

 それどころか、頼りになる大人というものが、灯にはさっぱり思い当たらない。しかもこの場合、大人どころか、友人だって。

「匿名メールとか」

「メール…。ああ、うん、メールのが、いいかなー」

 ぼんやりと、空の海に浮かんでいた。少年のまとった銀色が、キラキラと赤や青やの色を弾き返している。



「灯」

 呼びかけられて、灯は、のろりと首を回した。幼馴染で唯一の友人は、冷えた目で見つめ返した。

「メール。読んだ」

「うん」

「…判るものなんだね」

「海の、漂流物がどこから来たのか割り出すのと似たようなものだよ。椰子の実とか、ゴミとか。本物の海より、空の海の方が計算しやすいらしいし」

 簡単に、それこそ数学が得意でもない一高校生の灯でもできたほどには簡単だとは、既にメールで告げてある。ただ、それが得られる結果の一つに過ぎない、とまでは書かなかった。

 美希は、灯の座る椅子の向かいの机に、軽くよりかかった。

「でも証拠、ないんだよね?」

「うん」

 証拠どころか、大きな根拠は、夜中に美希らしい人影が空に向けて何かを放り上げ、それがじたばたともがき流れて行き、その後、農薬を飲まされた猫が死んでいたと知っただけのことだ。

 見たのは灯だけだろうし、それが本当に美希なのかと問われれば、確信はしているが、それこそ証拠がない。灯には、人の顔を覚えにくい分、よく知った人なら動きや雰囲気で判別する癖がある。それゆえの確信だが、客観的な根拠にはならないだろう。

 ふう、と、美希は息を吐いた。

「灯は、見た?」

「何を?」

「死体。猫とか、犬とか」

「…今回のは、見てない。でも、今までには、見たことある」

 人ですら。美希がトラウマめいた衝撃を受けたことは知っているから、話したことはないが、空の海できれいなものばかりを見られていたわけではない。

 それでも灯は、空を泳ぐことはやめられない。 

「どうして? それなら…。灯。もう、やめようよ」

 何を、と、ぽかんと美希を見る。その目はもう、冷え切ったものではなく、泣く一歩手前だった。

「もう、空にはいかないで。いつか落ちるんじゃないかって、こわいよ」

「…美希が気にすることじゃないと思うけど」

「だって! 灯が空に行きだしたの、いじめられたからじゃない、私をかばって、クラスから浮いて、それからじゃない!」

「あー…」

 小学生のとき、確かにそれはあった。きっかけも、言われてみればそれだったような気がする。家族で揉めた、というよりも、問題が表面化したきっかけもそれだっただろう。空で泳ぐことにはまりはじめたのも、その頃だ。

 なるほどそう考えると、逃避だったのかもしれない。

 が。

「ごめん、それ引きずらなくっていい。大丈夫」

「…何、言ってるの?」

「いやだって…いやまーたどればそういうのかもしれないけど、責任感じなくても。誰かが悪いとしたら、いじめてきてた奴らだし。…どうしても好きなんだ、あそこ。きれいだよ」

 美希は、目を丸くしてひたすらに灯を見つめた。   



 窓枠を強く蹴飛ばして、灯は二階から空へと泳ぎだした。

 するりと、並ぶように人影が身を寄せて来た。鈍く光る月をきらきらと反射して、魚のようだ。

「秦野、自首したってな」

「自首って言うか。…名前、出てないと思うけど。ネット? 出てた?」

「…ほんっとーに、気付いてなかったんだな」

「は?」

「同じクラス」

「…おおお?」

 言われて記憶をたどるが、クラスメイトの誰一人、さっぱり思い出せない。そもそも考えてみれば、この少年自体、顔もよく知らない。しかしそれでも、これだけ頻繁に顔を合わせていれば、いいかげん動き方くらい覚えていそうなものだが。

 首をかしげ、ぽん、と、手を打つ。

「ここと地上で動きが違う」

「…だからなんだ」

 げんなりとした声が返る。はははは、と、灯は乾いた笑い声を振りまいてみた。

 同じクラスであれば、事実に基づいた噂も聞いているだろう。美希の他に友人のいない灯の耳にすら、話している声が届いたくらいだ。

 美希は数日で自宅に帰れるだろうが、学校に戻ってくるかどうかは判らない。もしかすると、家族でどこかへ引っ越すかもしれない。

 それはさみしいと、灯は思う。灯のことを気遣ってくれるのは、例えそれが罪悪感だけだったとしても、美希だけで、そのことが嬉しかったのは本当なのだから。

「本当はさ。ぜーんぶあたしの思い込みで、なんだったら、実はアンタやあたしが犯人でしたーってオチでもよかったのにって思ってるんだけど」

「おい」

「…ままならないね、世の中」

 きらきらをまとった少年は、くるりと空の中を回り、真っ直ぐに灯を見つめてきた。思ったよりも近くで、ようやく、はっきりと顔が見える。

「そういうもんだろ」

「…かなー」

 夜空にたゆたい、地上の明かりを眺める。その正体が、ただの電気だと知っている。それでも、きれいだと思う。

 美希にも、きれいだと思ってもらえればいいのに。思って、もらいたかったのに。

 もしかするといつか、唐突に消えてしまうかもしれない空の海の中で、灯は、ただ浮かんでいた。明かりがにじんで見えるのは、海のせいではなかった。



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