「Very so happy! 」
無邪気に、少女は笑う。楽しくて仕方がないと言うように。楽しさと嬉しさだけが一杯詰まっているように、笑う。
それに応えるように、微笑が浮かぶ。
今度こそ上手く行きそうだと思ったところで――頭が真っ白になった。
「――」
「やめろ! 水人、やる気がないなら出て行け! それならそうと言ってくれた方が、無駄がなくていい!」
怒鳴るわけではないが、強い言葉。そのBGMのように、溜息の重奏が聞こえる。これで何回目だっけ、という囁き声さえ聞こえた気がした。
「すみません、もう一度お願いします!」
「――休憩!」
短く言って、若手の部類に入る監督は、くるりと背を向けてスタジオを後にした。その背を、即座に何人かが追う。休憩と言ったところで、本当に休める者がここにいるはずがない。
水人は、それぞれに忙しげに動き出すスタッフたちの気配を窺いながら、飲み込んだ溜息とともに肩と頭を落とした。
「ちょっと、高砂水人さん? いかにも落ち込んでますーってアピールやめてくれない? 疲れてるのも大変なのも、あなただけじゃないの。大っぴらにそんなことされると、こっちまでやる気が削られちゃう」
金髪碧眼、日本人が思い描く「きれいな外国人」を具現化したような少女は、下手をすると水人よりも日本語が達者だ。そして、フリルと布のたっぷりとついた洋服に身を包み、愛らしい容姿で容赦のないことを言う。
妹と同じくらいの年齢の少女の言葉に、水人は益々うなだれた。
「…ごめん」
「あやまるくらいなら、顔上げて。たった一言の台詞が覚えられないの? まさかそんなわけないわよね?」
ここじゃ邪魔だから、と素っ気無く言ってスタジオの隅へと移動しながら、少女はそんな言葉を投げつけてくる。
少女――アリスは、水人よりも四つほど年下だが、芸歴はほぼ同年。そして、今や無名に近い水人とは違い、本業の役者としても、バラエティに出る「芸能人」としても、引っ張りだこでもある。
正直、何故そんな少女と一緒に、今ここにいるのかがわからない。
日本人ばかりなのに歌詞は全て英語、という一風変わったバンドの三分ほどのプロモーションビデオに、二人は出演している。少年が一冊の本を手にして開き、そこから妖精のような少女が出てきて、二人で夢のような世界を次々に渡り歩いて行く。筋らしき筋はそれだけで、幻想的な映像を見せるためのものだ。
その中で、水人の台詞はたった一言。アリスのように英語でもなく、ただの短い日本語。それなのに、さっきからどうしてもその一言が口に出来ない。
「言っちゃなんだけど、あなた、この仕事こけたら次ないんじゃないの? それでいいの?」
あまりに真っ直ぐな言葉に、一瞬、息をし損ねる。
水人が子役としてデビューするきっかけになった母は飽き性で、今は妹のことに熱中して、やめてもいいんじゃない、とあっさりと言う。
水人自身、実は迷っている。
あと一年もすれば高校受験に直面することになる。これまでの生活は大切に思い出として仕舞い込み、さぼりがちだった勉強に本腰を入れ、学生生活を送り、就職して――何が悪い?
「というか、それ以前の問題よね? これだけの人が一生懸命に創り上げているものを、壊すの? あなたが、たった一人で。創り上げるにはたくさんの人のたくさんの努力がいるけど、壊すのは簡単だものね? ――ねえ、何か言えば?」
「…僕だって、ちゃんとやりたいよ」
「そう思うのなら実行して。口先だけなら、いくらだって言えるわ。ちゃんとやりたいと思ってます。でも出来ません。ごめんなさい。そんなの、子どもの言い訳よ。あたしたちは、仕事を請けてここにいる以上、そんな子どもじゃいられないの。わかってる?」
責め立てるような言葉に、カッとなった。水人は、知らず、年下の少女を睨みつける。
「この主役は君だろ、僕じゃなくたっていい、誰だってできる役じゃないか!」
すうと、アリスの眼が細められた。ただそれだけで、二人の間の空気が凍えるのが判った。
それどころか、我を失った言葉は思っていたよりも大きく、周囲のスタッフたちの耳にまで届いたらしく、スタジオ中が、静まり返る。
「誰だって出来る? そうね、始めはそうだったかもしれない。でも、それだってあなたの役でしょう? そう決まったときから、それはあなたにしかできない役だったと思うわ。それを、あなたは自分で否定するのね」
言葉が出ない。
それはそうだ。一体、数ある役の中で、たった一人のためだけに創り出されたものがどれだけあるだろう。だが、完成されたものを見て、その役にその役者以外にないと思わせるものはいくらでもある。誰にもできる役を「誰か」にしか出来ない役に変えるのは、それを演じた役者だけだ。
アリスは、冷然と水人を見つめた。
「たしかに、これの主役は私かもしれないわね。是非に、というオファーだったそうだし。だから、ちょっとした慢心もあった。――あなたなんて、推薦しなければ良かった」
「ん? おい、どうかしたか?」
二人の間どころかスタジオ中の空気を凍りつかせたアリスの言葉は、外に出ていた監督には届かなかった。怪訝そうに戻ってきた監督に、スタッフの一人が、慌てたように囁き声で事態を説明したようだった。
あー、と呻き声のようなものを漏らし、監督は天を仰ぎ、視線を下ろすと小さな役者二人に歩み寄る。
「アリスが決まったときに、相手役の希望がないか訊いたのは確かだ。だがな、決めたのはそれでだけじゃない。キャスティングに関して、アリスも水人も、引け目も優越感も持つ必要はない。いいな。――つって、収まりゃしねーか」
切り損ねたような髪をかき回し、監督は、もう一度天井を向いて溜息を落とすと、まずはアリスの頭に手を置いた。
「お姫様、少し休んで来な。溝口、ジュース奢ってやれ。他の奴らは、やることやれ。これに気ぃ取られてミスしやがったら…後々まで語り継いでやるからな!」
「それ、脅しなんすかー?」
どこかしら、ほっとした空気が広がる。アリスの冷気は、倍以上も年の離れた監督に見事に解凍される。
それらに呆気に取られ、アリスが黙ってADの溝口に促されて去って行く、その小さな背中を見つめて、水人はただ立ち尽くしていた。
ふと気付くと、隣に監督がいた。
「…すみません」
「ん? 謝るってことは、お前が悪いのか? お姫様のせいにはしないんだな」
「アリスは…間違ったことは、言ってません。僕が…」
不意に、涙がこぼれそうになった。アリスに何を言われても出なかったそれに、驚き慌てて、必死で堪える。
監督は、気付いたのか気付かないのか、動き回るスタッフたちを見据えたまま、壁にもたれている。
「なあ、水人。お前がいいって理由、聞いたか?」
「…いいえ…?」
黙って、イヤホンを渡される。何事かと監督を見れば、仕草だけでつけるよう促され、流れてきたのは、この仕事を請けることになってから何度となく訊いた、きらめくような音楽だった。聞き取れず、聞き取れたところで意味はあやふやだろう英語の歌詞が、跳ね回るように耳の奥で響く。
それと同時に、先ほどまで撮影していた映像が、後での合成が主となる幻想的な風景ではなく、すぐ目の前にあったアリスの笑顔が、脳裏に蘇る。
「楽しげな曲だろ。今回のコンセプトは、夢の中の遊園地だしな。お前らには、思いっきり楽しんでもらわにゃ話にならんわけだ。とりわけ、あのお姫様にはな。で、それを踏まえた上であの子は、高砂水人がいいと言った。お前となら、きっと楽しく演じられるってな」
「…え?」
「随分な信頼じゃないか?」
戸惑う水人を見て、監督はにやりと笑う。
だが水人には、心当たりがない。そもそもアリスとは、面識らしい面識もないのだ。仕事が一緒になるのは今回がはじめてで、事務所も違う。アリスが有名だからこそ水人は知っているが、逆はないと思い込んでいた。
「それがどうしてかは本人に訊け。出て右のカップ自販機の辺りだと思うぜ?」
「――はい」
「すぐに戻れよ? そうだな、その曲に因んで、三分は待ってやる」
「ありがとうございます!」
「と、ついでにちょっとだけお節介な助言をくれてやる」
駆け出そうとした水人の肩を掴み、監督は、またしてもにやりと笑う。
「今回確かに、高砂水人に視線が向いたのはお姫様がきっかけだ。それはただのラッキーだ。でもな、何だってそんなもんだ。チャンスなんて案外ごろごろ転がってて、ただ、そっから先をどうするかだ。歌が上手くたって磨き上げなきゃただのカラオケで終わるし、ちょっと見てくれがいいからってそれだけでスーパーモデルになれるわけでもない。記憶力がよくたって、何も覚えなけりゃ意味がない。さつまいもだって、茹でて砂糖だの牛乳だの足して裏ごしして、その上焼き上げて、ようやくスイートポテトになれんだぜ?」
最終的に妙な例えに落ち着いた話に、だが水人は深く一礼して、今度こそ背を向けて駆け出した。
廊下の自販機までの短い距離を駆けながら、水人はもう一度、アリスとの関係を思い返す。何か――何か、親しみを持ってくれるようなことがあったはずだ。どこかで、出会っていたはずだ。
どこかで――どこだったか思い出したのは、角を曲がって飛び込んできた、アリスの涙を見たときだった。
『ごめん、そんなに痛かった?』
あまりに白々しい、精一杯の「演技」を思い出して、水人は短く苦笑を飲み込む。
テレビ局を歩いていて、角を曲がったところでぶつかった少女。どこかから逃げてきたのか、幼い顔にうっすらと被せたメイクは涙に流れていて、咄嗟に、自分とぶつかった痛みで泣いているのだと思っていると取り繕った。
泣き顔を見ないように、落ち着くように、妹にやるように軽く抱き締めて背を叩いてやると、そのうちに泣き止んだ。
ただそれだけの出会いで、当時は、アリスの名も知らなかった。そうして記憶は、雑多な日々に紛れていった。あるいは、妹とのものに摩り替わっていたのかもしれない。全然違うじゃないかと、また苦笑が浮かぶ。
「溝口さん、あと三分で撮影始まりますよ」
「あ、そうなの? えっと、じゃあ、先言ってるね」
「はい、僕らもすぐに行きます」
察したのだろうが実際にやることもあるだろう溝口は、静かに涙を流すアリスと水人にちらりと視線を向けたが、すぐに立ち上がり、小走りに去った。替わりに、水人がアリスの傍らに座る。
「…何よ」
「今度は誰にぶつかったの?」
「っ…!」
「君の言うことは正しいよ。僕が甘かった。でも、今はこれを心から完成させたいと思うんだ。協力してくれる?」
曲とともに、再生されたアリスの笑顔を思い出す。きっと、このプロモーションビデオを見て強く印象に残るのはそれだろう。せめて、その邪魔はしたくない。これを最後にするのなら、尚更に。
そう思って柔らかく笑んだ水人はだが、勢いを増した涙の量に、ぎょっとして目を見開く。
「あの…メイク、流れるよ?」
「ごめ…ごめんなさい…!」
「え?」
「あんなの全部、あたしが言われてきたことよ! たしかに正しいかもしれない、でも、だから何? そんな窮屈な正しさなら、要らない! ずっと…ずっと、言われるたびに思ってきたのに、あたし、同じこと言った!」
泣いているから鼻声なのに、言葉はくっきりと聞き取れる。基礎が出来てるんだなあ、と妙なところで感心した水人は、充分に混乱していた。
自分よりも年下だが芸歴は同じで、自分よりもずっとプロなのだろうと思っていた少女の思わぬ告白に、困り果てる。スイートポテトのたとえをした監督なら、何かなだめる手立てがあるのだろうかと、そんなことまで考えた。
だが結局は、まだ小学生の、妹と同い年の子どもでしかないのだと思い至る。
そう気付くと体はごく自然に動き、軽く抱き締めて、赤ちゃんにするように優しく、背を叩く。
何も言わず、そうしている間に約束の三分は過ぎてしまうのではないかと冷や冷やしたが、どのみちこのままでは撮影が再開できるわけもない。
「…変わらないのね」
ぽつりと呟かれた言葉に、身体を離す。泣いてさっぱりしたのか、幼いその顔には、安心したような笑みが浮かんでいた。
水人を、見上げる。
「あのときから、あたし、ずっとあなたを見てたの。いつも、いつだって、楽しそうにしてた。どうしてだろうって不思議で、きっと、いつか一緒に仕事ができたらそれがわかるんだって、そう思ってた」
「そ…そんなに能天気そうに見えた…?」
これでも色々と悩み事はあるのに、と思わずうなだれた水人を見て、アリスは慌てて、違うの、と言葉を重ねた。
「羨ましかったの。上手くやれなくて、怒られ、いやになってたあたしと違って…この人は本当に楽しくてやってるんだ、って。あたしも、その楽しさを知りたかった。それなのに…ようやくこうやって会えたのに、何だかつまらなそうで…やっぱりあたしが駄目なのかなって…」
「違うよ!」
「でも、だからあたし、腹が立って、あんなこと言っちゃって」
また、泣くかと思った。だがアリスは涙をこらえ、ごめんなさい、と頭を下げた。
下げられた水人は、ぽかんとしていた。自分など足元にも及ばないと思っていた少女に、まさか羨ましがられているなどと、考えたこともなかった。そうか隣の芝生は青いって、こういうことなのかなと、いつだったかに耳にしたことわざを思い出す。
その一方で。
――ああ、そうだった。
きっかけは母でも、続けたいと思ったのは水人だった。監督のスイートポテトの例えで言うなら、作ろうとして芋を茹でたのは母だったのだろう。だがそこから、砂糖や牛乳を入れていったのは水人で、今やスイートポテトを目指すのは自分だけだ。
では、何故それを目指したのか。
「うん、楽しいね」
脈絡のない言葉に、アリスが目をまたたかせる。
それは、水人がたった三分の映像の中で口にする、唯一の台詞。とっても楽しいとはしゃぐ少女に、僕もだよと返す言葉。
ただそれだけが何故口に出来なかったのか、水人はようやく、理解した。
仕事は頑張っても端役しかなくて、役者でいることを諦めるべきではないかと考えて、だから、楽しめずにいた。ただそれだけの、プロとしてはあるまじき私情だ。
「ありがとう、アリス」
きょとんとする少女に手を差し伸べ、立ち上がる。
「楽しいからここにいるって、思いださせてくれて。ごめんね、やっぱり僕が泣かせたみたいだ。あとでいくらでも謝るから、とりあえず戻ろう。皆、待ってるよ」
「――うん!」
約束の三分は過ぎてしまったが、プロモーションビデオの三分を撮るのにかかる時間を思えばこれも三分のうちだと、詭弁めいたことを水人は考えた。あの監督なら、笑ってくれるだろうか。それとも、叱り飛ばされるだろうか。
それでも、今はあの場所に戻ること以外は、考えられなかった。
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