それは、夏の暑い日だった。
暑いと言うより、蒸し暑い。蒸し暑いというのは性質が悪く、満月の夜ではないが、殺人者も増加してるのではないかと思う。
ちなみに、その日、夜までに僕の食べたものはといえば、アイスが六本とかき氷が二杯、だったりする。阿呆だ。いくら暑いからといってそれはないだろうに。夏ばてする柄でもあるまいし。
付け加えるならば、かき氷は本当は三杯作った。しかし、何を思ったかしょうゆと鰹節をかけて・・・とても食える代物ではなかった。それも当然で、しょうゆを氷水で薄めた程度でしかないのだ。
本格的に、暑さにやられていたのだろう。
夜は相変わらずの熱帯夜だったが、それでも幾分理性が戻ったのか、各テレビ局がこぞって二度目のニュースラッシュに入った頃に、大鍋に水を張って火にかけた。
「らっき、残り三束」
母親がいつもそうめんを入れている箱をあけて、思わず言葉を出す。確か一人分は二束と言っていた気もするが、まあいい、一日分だ。
見るでもなくついているテレビを聞き流しながら、そうめんを沸騰した鍋に放り込んで、適当にタイマーをセットする。その間に、つゆの器とそうめん用の器を出して、冷蔵庫からガラスのボトルに入っためんつゆを出す。
容器には、出荷時のままに趣向を凝らした宣伝文句のついた紙が巻き付けられているが、その上から更に紙を張って赤で「めんつゆ」「飲むな危険」「麦茶にあらず」「待て!」といった言葉が大きく書き連ねてある。
これは、何を思ったか父親が、飲んで噴き出したことがあるためだった。少し酔っていたらしく、翌朝、「誰が片付けるのよ!?」と母に雷を落とされていた。
「あー・・・」
めんは明らかに茹ですぎだった。
しかし仕方がない。めんをざるにあげると、水にさらしてから器に入れ、氷を散らす。母親はいつも一掴みずつ一口ほどの塊にしているが、それは面倒だった。
めんつゆを入れようとしたときに、電話が鳴った。どうせ母親からだろうなと思いながら、僕は立ち上がった。
「はい、もしもし?」
『あ。あたしだけど、そっち大丈夫?』
「大丈夫だいじょうぶ。何にもないってば」
『そう?』
「それより、えーっと・・・そっちこそ、どうなってんの? 大丈夫そう?」
『うーん、それがねえ。本人は元気だし、病院が介護もばっちりだから、やることないのよね。来て良かったと言えば、顔見て喜んでくれたくらいかしら。明日の昼には帰るわ』
「うん、わかった」
『ちゃんとご飯食べてる?』
「食べてるよ。あ、そうめんもうないからね。食べちゃった」
『あら、じゃあ買って帰ろうかしら。まあとにかく、じゃあね』
「うん。ばいばい」
仲のいい従姉妹の祖父(母とは血はつながらない)が足を滑らせ、入院。手を離せない従姉妹に代わって僕の母親が駆けつけたのだが、父親の出張と重なって、僕は急遽束の間の一人暮し気分を楽しむことになった。
もっとも、その結果がこれだから、到底一人暮しはできないだろうと思う。僕が一人暮しを始めたら、外食生活は確定だろう。
「あっ、のびちゃう」
氷を散らしたそうめんのことを思い出して、僕は急いだ。そう広くはない家なのだから、その必要はなかったのだが。
僕が見たのは、ちょっと考えられない光景だった。
白いそうめんが、氷を上に乗せて水をしたたらせながら、動いているのだ。どれが足でどれが胴体なのか知らないけど、一塊に、アメーバのように。
僕に見られたと気付いたそうめん(のはず)は、意を決したように机を蹴り、呆然と見る僕の目の前で跳躍して、戸棚の隙間に素早く消えていった。水の跡と飛ばされた氷を残して。
結局この日は、得体の知れない疲労感を抱えたまま、寝ることにした。
翌朝になっても水の跡と溶けた氷の小規模な水溜りは残っていて、僕は力なくつゆのビンを冷蔵庫に戻して、食器は流しに運んだ。
あまりにばかばかしい上に、熱帯夜の見せた夢とも限らないから、両親に言うことはなかった。寝ぼけるかなにかして、水を零しただけかもしれない。そう思いたがっているだけだろうとは、思ったが。
今、僕は一人暮しをしている。
無理だろうと思っていたのだけど、やってみると意外に、掃除や洗濯、料理も、やれないことはなかった。もっとも、夜はバイトのまかないを食べることの方が多いのだけど。
そんな僕が、絶対に作らないメニューがある。言うまでもなくそうめんだ。
実はあの後、視界の端を白い物体が何度か横切ったことがある。そしてそれは、どうにもここまでついてきてしまったようなのだ。今では、もう白いとは言えず、薄汚れて茶色っぽいし、すっかり干乾びている。
まあ、色んな意味でそうめんが食べられない以外に害もないし、そのおかげかこの部屋だけゴキブリも出ないので、よしとしよう。
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