「・・・明々後日の方向って、一体どこなんだろうな?」
「今向いてる方向だろうよ、ちびガキ」
吐き捨てるように言って、李高は薪を割った。少年は、そんな嫌味に動じることはなく、それどころか、感激したような面もちで振り返った。
ちなみに、少年が立っているのは崖のふちで、どうせならそこから足を踏み外してしまえ、と、李高は毒づいた。
「知ってるんだ、凄いな!」
これが皮肉なら、まだ対処のしようもある。もし、そうであれば――なかなかの演技者と認めざるを得ないだろう。
李高は、苛々として片手で頭を掻きむしった。
この、世間知らずで馬鹿がつくほど単純な少年が来るまで、李高は、それなりに己の生活を楽しんでいた。
自分が考える以外の新しい知識がもたらされることがない反面、世間の些事に煩わされることもない。米は食えないが、代わりに豊富な山の動植物があり、川に行けば魚も釣れる。ゆったりと流れる時間に同調して、のんびりと暮らす。
それは、一種の理想だった。李高は四十ほどだが、年齢に体が追いつかず、命を落とすようなことになっても、それはそれでいいだろうと思っていた。腹のさぐり合いをするよりも、その方がずっとましだ。
それなのに、この少年ときたら。
「なあ、老師。他には何を知っている?」
「うるせえ、ちびガキ。何か知りたきゃ街へ行け。都にでも行けば、一人くらいは、付き合ってくれる酔狂者がいるだろうぜ」
言葉をくれてやるのは、返事をしなければ、いつまで経っても質問を繰り返してくるからだった。昨日一日で、そのしつこさには十分うんざりさせられた。少年が、昨日の夕刻にひょっこりと迷い込んだなどと、嘘のようだった。もう、一年もいるくらいに苛々させられている。
こんな山の中で、他には小屋などあろうはずもないからと泊めてやったが、もう十分だ。朝食をやって追い出そう――そう考えたのだが、少年は、いくら言っても出ていく気配がなかった。
「・・・老師は冷たい」
「うるせえ。大体なあ、老師って呼ぶなら、言葉に気をつけるくらいのことはできんのか? ああ? 礼も尽くさず何かを教わろうなんざ、おこがましいにもほどがある」
「ああ、なるほど。さすがは、老師は物知りだ」
「物知り以前の――」
にこにこと、馬鹿みたいに笑っていた少年は、ひらりと服の裾を翻して李高の前まで来ると、一瞬の躊躇いもなく朝露にしめった草地に膝をつき、叩頭した。
絶句する李高に、頭を地面につけたまま、言葉を向ける。
「私は、あまりにものを知りません。何かを得るために代価が必要なことさえ、つい先頃まで気付かずにいました。しかし、それではいけないとわかっているのです。私は、多くのことを学ぶ必要があります。師に対する接し方や、民草の思うことや、世上のやり取りなど――それに、明後日の方向も」
「・・・まともな口も、利けるんじゃねえか」
「老師から、多くのことを学びたいと思っています」
そう告げて少年は、何かを待つように身動き一つしない。初秋の地面は冷たいはずだが、そんな揺らぎも、微塵も見せなかった。
溜息をついて、馴染みはあるが未だに慣れない、森々とした風景に視線を向けた。――少年のしつこさは、一晩で身に滲みている。
「何故他を当たらない」
「父上が、李高ほど信頼の置けるものは居なかったと、言ったのを聞きました」
「聞き違いか、人違いだろうよ。俺は、あそこを追い出されたんだ。ちびガキ、お前の親父にな。信頼なんて、どこにあったって? どの口で、それを言う?」
「老師が去って、後悔しています」
「なくしたものはな、なんだって綺麗に見えるもんだ。ただの感傷だよ、それは」
再び斧を両手で握り、薪を割る。これからどんどん冷えていくこの季節に、欠かせない必需品だ。山で暮らすようになって、覚えたことだ。ごつごつした手も、そうやってできていった。
一つ一つ、地道に積み重ねて。すぐには気付かないそれらは、振り返ってようやく、成果が判る。そして、その間の苦労はほとんどが、曖昧な記憶のひだにからめ取られ、実際よりも誇張されて加工される。
全てにおいて、そんなものだ。
李高は、少年をちらりと見遣った。まだ、頭を上げようともしない。思わず、溜息が零れる。
「――お前の親父は、元気にやってるのか」
「病を得て伏せています。遠からず、私に譲られることになるでしょう」
「そうか」
ぼつりと、呟くような声が、どこか遠くで聞こえた。
うんざりとさせられるのも、苛々させられるのも、嫌いだ。元々は短気な性格を押さえ込んでいたのは、自分でも呆れるほどの、強い意志の力だった。しかしそれは、堪えているだけのことで、本質には変わりなかった。だから、叩き出されたも同然の左遷を機に、欲得まみれのあそこを後にしてきたのだ。栄誉栄華よりも、誰にも邪魔をされずに済む生活を選んだ。
しかし、その象徴である人が、もう、長くはないのだ。それを知って過ぎる感情も、やはり、装飾されているのだろうか。
今の生活が理想だと――本当に、そう思っているだろうか。
「・・・劉董(リュウトウ)、って言ったか」
「はい」
「何故ここに来た」
「師の教えを請いに来ました」
迷うかと思った。目的は先程告げたのだから、質問に素直に答えるべきか、他を選ぶべきかを考え、迷うだろう。しかしこれは、大した役者だったようだ。思っていたよりは馬鹿で単純でもない。
ふんと、鼻をならして笑う。随分と、人を見る目も曇ったものだ。
「俺は、もう十年近く人と関わっていない。お前の演技さえ、見抜けなかったほどだ。それでもまだ、教わりたいと思うか?」
「――よろしくお願いいたします、李老師」
「まずは、顔をお上げください。中に入りましょう、ここは寒い」
そっと呼びかけると、少年は、促されるままに立ち上がり、安堵したような笑みを浮かべた。
そうして二人は、長々と話し込み、その夜は小屋に泊まり、翌早朝に山を下りていった。その途中で、少年は、目を輝かせて言った。
「ところで老師、明後日の方向というのは、本当はどちらなのです?」
「・・・今太子がご覧になっている方向ですよ」
道を誤ったかも知れないと、密かに思った瞬間だった。
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